Sun, March 22, 2009
urizunokinawaの投稿
破壊と進歩。
テーマ:楽生院
約二ヶ月ぶりに楽生院に行ってきた。本当は岡部昌生さんのお話を聞きに行こうと思っていたけれど、私は、取り壊された建物の瓦礫にたたずむことにした。
赤レンガや薄い水色のタイルが山積みにされていた。枝を切り落とされたガジュマルも惨めだった。一つ一つのレンガやタイル、丸裸にされたガジュマルに、耳を傾けてみる。
私には何にも聞こえなかった。ただ、そこでは何かが犇きあっていた。見えたり聞こえたりするものではない。おそらく、レンガにはレンガの、ガジュマルにはガジュマルの、ゴミにはゴミの「念」が、あの瓦礫の空間を作り上げていた。取り壊されずに残る建物よりも、瓦礫の山のほうが、美しいのかもしれない。あそこには、そんな美しさがあった。
その時突然、強風が瓦礫の間を吹きぬけた。埃が目に入る。目を瞑る。しばらくして目を開き、瓦礫の山にもう一度目をやった時、一枚の絵を思い出した。
クレーの「新しい天使」。ベンヤミンは「歴史哲学テーゼ」でこんな風に書いた。
※※※
「新しい天使」と題されているクレーの絵がある。それにはひとりの天使が描かれており、天使は、かれが凝視している何ものかから、いまにも遠ざかろうとしているところのように見える。かれの眼は大きく見ひらかれていて、口はひらき、翼は拡げられている。歴史の天使はこのような様子であるに違いない。
かれは過去に顔を向けている。ぼくらであれば事件の連鎖を眺めるところに、かれはただカタストローフのみを見る。そのカタストローフは、やすみなく廃墟の上に廃墟を積みかさねて、それをかれの鼻っさきへつきつけてくるのだ。
たぶんかれはそこに滞留して、死者たちを目覚めさせ、破壊されたものを寄せあつめて組み立てたいのだろうが、しかし楽園から吹いてくる強風がかれの翼にはらまれるばかりか、その風のいきおいがはげしいので、かれはもう翼を閉じることができない。
強風は天使を、かれが背中を向けている未来のほうへ、不可抗的に運んでゆく。その一方ではかれの眼前の廃墟の山が、天に届くばかりに高くなる。ぼくらが進歩とよぶものは、この強風なのだ。(ヴャルターベンヤミン『暴力批判論』 1969年 晶文社 119-120頁より)
克利(Paul Klee)有一幅畫,叫作新天使(Angelus Novus)。畫面是一個看起來正要離去的天使,祂的眼睛盯著祂將離去之處。祂的眼睛睜得大大的,祂的嘴張著,祂的翅膀撐得開開的。歷史的天使應該也就是長成這個樣子。
祂把臉轉向過往,那裡有許多在我們之前發生的事件,像鍊子一樣環環相扣。在那裡祂所見到的,只是災禍,廢墟連著廢墟,在祂的腳前崩塌。
祂想停下來,喚醒死者,扶起被擊毀的,但是,一陣風,由樂園吹了過來,撐開祂的翅膀。
這風是如此猛烈,天使已經無法再將翅翼收起來。風暴不遲疑地把祂推向未 來。祂背對著未來,在祂面前是與天等高的廢墟殘垣。這場風暴,我們把它稱為「進步」。(http://blog.yam.com/karlatheo/article/6474595より)
※※※
瓦礫を吹き抜けた強風は、私をどこへ運ぼうとしたのだろうか。その瓦礫にたたずむことを拒もうとしたのか。
私は天使でもなければ、翼も生えていない。死者を目覚めさせることも出来なければ、積みあがる瓦礫が天まで届くのを黙って見ることしか出来ないのかもしれない。
だからこそ、滞留してみる。瓦礫の中に。楽生院に。自分なりの滞留と天使の仕方で。
赤レンガや薄い水色のタイルが山積みにされていた。枝を切り落とされたガジュマルも惨めだった。一つ一つのレンガやタイル、丸裸にされたガジュマルに、耳を傾けてみる。
私には何にも聞こえなかった。ただ、そこでは何かが犇きあっていた。見えたり聞こえたりするものではない。おそらく、レンガにはレンガの、ガジュマルにはガジュマルの、ゴミにはゴミの「念」が、あの瓦礫の空間を作り上げていた。取り壊されずに残る建物よりも、瓦礫の山のほうが、美しいのかもしれない。あそこには、そんな美しさがあった。
その時突然、強風が瓦礫の間を吹きぬけた。埃が目に入る。目を瞑る。しばらくして目を開き、瓦礫の山にもう一度目をやった時、一枚の絵を思い出した。
クレーの「新しい天使」。ベンヤミンは「歴史哲学テーゼ」でこんな風に書いた。
※※※
「新しい天使」と題されているクレーの絵がある。それにはひとりの天使が描かれており、天使は、かれが凝視している何ものかから、いまにも遠ざかろうとしているところのように見える。かれの眼は大きく見ひらかれていて、口はひらき、翼は拡げられている。歴史の天使はこのような様子であるに違いない。
かれは過去に顔を向けている。ぼくらであれば事件の連鎖を眺めるところに、かれはただカタストローフのみを見る。そのカタストローフは、やすみなく廃墟の上に廃墟を積みかさねて、それをかれの鼻っさきへつきつけてくるのだ。
たぶんかれはそこに滞留して、死者たちを目覚めさせ、破壊されたものを寄せあつめて組み立てたいのだろうが、しかし楽園から吹いてくる強風がかれの翼にはらまれるばかりか、その風のいきおいがはげしいので、かれはもう翼を閉じることができない。
強風は天使を、かれが背中を向けている未来のほうへ、不可抗的に運んでゆく。その一方ではかれの眼前の廃墟の山が、天に届くばかりに高くなる。ぼくらが進歩とよぶものは、この強風なのだ。(ヴャルターベンヤミン『暴力批判論』 1969年 晶文社 119-120頁より)
克利(Paul Klee)有一幅畫,叫作新天使(Angelus Novus)。畫面是一個看起來正要離去的天使,祂的眼睛盯著祂將離去之處。祂的眼睛睜得大大的,祂的嘴張著,祂的翅膀撐得開開的。歷史的天使應該也就是長成這個樣子。
祂把臉轉向過往,那裡有許多在我們之前發生的事件,像鍊子一樣環環相扣。在那裡祂所見到的,只是災禍,廢墟連著廢墟,在祂的腳前崩塌。
祂想停下來,喚醒死者,扶起被擊毀的,但是,一陣風,由樂園吹了過來,撐開祂的翅膀。
這風是如此猛烈,天使已經無法再將翅翼收起來。風暴不遲疑地把祂推向未 來。祂背對著未來,在祂面前是與天等高的廢墟殘垣。這場風暴,我們把它稱為「進步」。(http://blog.yam.com/karlatheo/article/6474595より)
※※※
瓦礫を吹き抜けた強風は、私をどこへ運ぼうとしたのだろうか。その瓦礫にたたずむことを拒もうとしたのか。
私は天使でもなければ、翼も生えていない。死者を目覚めさせることも出来なければ、積みあがる瓦礫が天まで届くのを黙って見ることしか出来ないのかもしれない。
だからこそ、滞留してみる。瓦礫の中に。楽生院に。自分なりの滞留と天使の仕方で。











