スタートしなきゃ始まらない。
下北沢から深夜に帰り、午前中に静岡まで行く為にまた出発。
いつもお世話になってる土肥のCRAZY SPOT 31の音響の城さんの娘さん(日本酒ガールね)がLIVEで歌うというので、「行く」という約束をしていたからね。
TOP(OA?)の瑞穂ちゃんと、二番手の岩田翔くんのステージのみの参加ですが、LIVEは夜まで続くそうな。
連日の疲労と、体調不良を考慮して、二組のみの観戦です。
瑞穂ちゃんのステージは、色んな意味でまだまだこれからだと思うんですけど、こうして人前で歌うという意志はとても大事で、全てはここから始まってくるものね。
僕だって、今だにまだまだだし、「これでいい」なんて事は表現者にとって永遠にないだろうと思う。
ふと、自分が初めて人前で歌を(自分の演奏で)歌ったのはいつだろうと考えると、40年以上も前の中学校の時だ。
夏休みの学校の図書館を勝手に使って、同級生集めてコンサート(笑)
ギターを始めて一年くらいで、オールコミックソングのオリジナル。
あれはひどかったな(笑)
でも、こうして今も続けてるというのは、やっぱり好きなんだからだと思う。
ただ弾いて歌うというのは、そうやって何十年もやって来れるが、今のように企画というものに携わるようになって、「良い音楽」を提供するようになって、それは何であるかという事を考え始めたのはそれからの事で、そうなったから故に見つけたものも沢山ある。
おそらく、その気持ちの変化が起こらなければ、今もただ続けてるだけの音楽だったんだろうと思う。
まあ、勿論それもいいんだろうけど。
先日の「永い言い訳」のブログに貼りつけたリンクを読んでくれた方はいるだろうか。
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20161020-00010006-realsound-ent
若い演出家が書いたという文に、とても興味深い内容があって、「表現」と「発散」の違いについて書かれていた。
この両者って、別に違う単語でもよい気がするけど、意味は良く分かる。
文の中では「カラオケ」を例にとっていたけど、別に「LIVE」でも同じ事。
まあ、カラオケは自分が歌いに来てるだけの人がほとんどだろうけど、LIVEは聴きに来ている方が大勢いるはずだから、「表現」の必要性はこちらのが高い。
楽器が上手かろうが下手であろうが、「表現」をしてない人のが多い。
歌なんてものは、理解してやろうとして聴くものではなく、聴いて「ハッ」とさせられるものが求められる。
それは、往々にして発信者が仕掛けてるもので、そこに見事に反応が見えて、確信や上達や喜びがあるものであります。
例えば、転調が出来る事ではなく、何の為の転調なのかが重要なんだよね。
別に悲しい表現は、悲しい言葉の羅列じゃなくてもいいわけで、伝える方法は沢山あって、そういうのって、明るい表現でも涙が知らずに湧いてる事って多々ある。
そういうのって、絶えず人(お客さん)に向かって気持ちを置いてくように試してみる事だし、「発散」の音楽でなく、「表現」の音楽をするのならば、見聞がまず第一だろうと気づくはずである。
自分の表現するに足りない部分がテクニックの問題とぶつかり、そこを克服するという循環がやってくる。(勿論、先にあるには越したことはないが)
こういうのは、傍から見ていても良く分かるし、実際僕のブッキングの演者さん達は、共演者の演奏を最初から最後まで目を皿のようにして観ている。
昨夜の増子周作さんは、上京してわずか5年ですが、ずっとLIVEで試行錯誤してあのようなスタイルになって来ているらしいが、それは対お客さんに対してのキャッチボールをして来た証なんですよね。
なので、お客さんがいないLIVEなんてあり得ないし、お客さんが喜ばないLIVEなんておかしいし、「自分が楽しくやれたから良かった」なんてのは、真っすぐに現実を見ていない証拠なのです。
お客さんが来ないのは、そこに原因があって、そこを見つけて改善しなきゃならないわけです。
そういう事は、出来るだけ早めに気付いて、良きサイクルの音楽活動にシフトして行った方がいいと思うので、実際にそうして頑張ってる人達と沢山話をして、良いステージを沢山観る事であろうと思います。
昨夜GETした森永エイジさんの新譜を聴きながら書いていますが、本当に心地よいアルバム。
こういうミュージシャンが、お仕事をしながら、こうして頑張って夜行バスに乗って東京に歌いに来る。
こういう人達がなかなか見出されないのは、世の中に「発散」が氾濫してるのもあるんじゃないのかなとも思う。
少なくても、音楽を発信したり、企画したりする立場の人達は、ちゃんと選別してあげて、優遇してあげなくてはならないと思うんだよね。
人の顔色なんて気にせずに。