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2011年03月26日(土)

加藤よ、生き続けて語れ。

テーマ:日々思うこと

加藤智大に死刑判決が下された。

普通に、平和に暮らしていた7人の人の人生を奪った罪は、万死に値するだろう。


だが、加藤。

君はすべてを語ったのか。


「掲示板への嫌がらせを止めてほしかった」「反省しています」

そんな薄っぺらい理由で、君が震撼させた「社会」は、納得するのだろうか。


加藤。控訴せよ。

たとえ控訴審が死刑であっても、それまでの間、生き続けて語れ。


生き恥を晒すより、死んだほうが楽だろう。

だが君は、生きて語るべきだ。


どういう境遇が、君を追い詰めてしまったのか。

君はいったい、何を考えていたのか。

「社会」の姿がどうあれば、君は凶行に走らなくて済んだのか。


君が遺す言葉で、私たちはいろいろなことを考えることができる。

君のような不幸な人を出さない社会づくりのために。


加藤。

控訴して、生き続けて、語ってほしい。

そしてできるだけ多く、君の言葉を遺してほしい。


君が逝ったあとの社会に、多くのヒントを遺すこと。

それは君にとっての、贖罪でもあるのだから。

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2008年08月27日(水)

北京五輪が閉幕した。

テーマ:日々思うこと

 北京五輪が閉幕した。

 それほど熱心に見ていたわけではないが、終わってみると、虚脱感だけが残っている。

 勝つ、あるいは善戦すると思っていたものが、アッサリ負けたからだ。

 

 星野JAPANにしても然り、オグシオにしても然り。

 サッカー日本代表にしても然り、福原・平野ペアにしても然り。

 

 それにしてもなぜ我々は、さしたる根拠もなく、彼らがメダルを獲って帰ってくると思ったのだろう。

 第一義的には、マスコミの報道に踊らされたのだ。

 

 星野JAPANには主将宮本を中心とした一体感がある、オグシオはかわいいだけじゃなくて強い、愛ちゃんは天才卓球少女、サッカー日本代表はトップ選手の集合体…。

 好きな人だからあまり悪口は言いたくないが、星野監督も壮行会で「絶対メダルを持って帰ってくる」と言っていた。

 

 欠けていた視点は、「彼我の戦力の冷静な分析」である。

 「日本チームはA国と比べてこの点が勝っているがこの点は弱い」、「ここをカバーすれば勝機はあるが、そこを責められたら状況はまずいだろう」とか、そうした視点からの報道がなされなかったのである。

 サッカーW杯のようなお祭り騒ぎでも、いつでも繰り返される、日本人のクセのようなものだ。

 

 そうして盛り上がって、根拠もないのになんとなく勝てるような気がしてくる。

 カミカゼが吹くかも、なんていう、妙な期待を抱いて。

 結局負け戦に終わって、いま残っているのは「何だったんだろう」という虚脱感である。

 

 こうして書いていて、自己嫌悪に陥ってきた。

 実はあの戦争を経ても、われわれのDNAは何も変わっていなかったのかもしれないな、と。

 そのくせ、こと経済に関しては悪い予測ばかりを並べたがる。

 まだ起こってもいない経済不安を予測して、毎日不安がっている。

 

 日本人のメンタリティって、いったいなんなんだろう。

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2008年08月24日(日)

安全幻想を広めた犯人

テーマ:日々思うこと

 いま思いつくだけでも、いわゆる「健康番組」と言われるものは山のようにある。

 た○しの本当は怖い家庭の医学、主治医が見つかる診○所、カ○ダのキモチ……等々。

 

 するとその番組に、「医療関連産業」が、スポンサーとして大挙して群がる。

 経鼻内視鏡を開発・発売したメーカー、痛くない注射針やプレフィルドシリンジを発売しているメーカー、国内・国外、先発品・後発品もろもろの製薬会社。

 製薬会社にいたっては、直接に製品名を出したり、効能効果を謳ったりすると薬事法に触れるから、「こうした症状があったらお医者さんに行きましょう」とか、「うつは治る病気です」とか、婉曲かつ巧妙に自社製品の使用を促している。

 番組においては「○○病の可能性もありますからぜひお医者さんで検査を受けてください」、CMでは「それは病気ですから服薬治療が必要です」と、視聴者は番組内容とあいまって、巧妙にその「病気に対する恐怖心」「健康に関する不安感」を煽られている。

 

 しかし診察を受けたり、検査を受けたり、薬局で薬をもらったりすれば、それは財政出動を伴う。

 要するに、ただでさえ困窮している医療財源を、さらにひっ迫させるわけだ。

 

 国は、「がん難民」と呼ばれる人びとを出すほどにまで、医療財源の蛇口を絞りに絞っているから、国が現状の「安全幻想」の主導者であるとは考えにくい。

 むしろ取り立てて症状もないのに、番組やCMを見て不安を煽られ、「病気ではないことを確認する」だけのために病院に行く人が増えて、「○○疑い」と病名が付いて、医療財源が湯水のように出て行く状況など、国は死んでも作りたくないはずである。

 では、この矛盾する状況は何を意味しているのだろうか。

 

 それはおそらく、「医療関連産業」の暴走である。

 さらに言えば、外資系製薬会社の“たくらみ”から、日本の医療関連産業全体が暴走し始めたのではないかと私は考える。

 

 私の記憶が正しければ、新聞の全面広告やテレビCMなどで、華々しく「お医者さんに行きましょう」などと宣伝され始めたのは、外資系G社のSSRI系抗うつ薬「P」からだ。

 「P」の日本発売年は、2000年である。

 それから雪崩を打つように、外資内資であるとを問わず、やれ爪の水虫だとか、高血圧だとか、慢性腎症だとか、社会不安障害だとかの医薬品や、内視鏡、注射針、充填済みの注射器などの広告が、あふれんばかりに登場するようになったのである。

 そして前回述べたように、こうした一連の広告には、「医療に伴う危険性」は爪の先ほども述べられていない。

 

 「どんどん病院に行きましょう」ということと、「医療は安全で健康を保証する」という刷り込み。

 そう思い込んで病院へ行く人が増えれば増えるほど、薬剤の消費量は増え、検査機器や治療材料は売れる。

 これが、現在の日本に蔓延する「医療安全幻想」の正体ではないか?

 

 かつての日本人の価値観は、あくまで健康が日常で、病気は「非日常」だった。

 平穏な日常の中で突発的に生じたトラブル、「病気」も「病院」も「医薬品」も、そうしたイメージだった。

 それが現在では日常と非日常が逆転し、何らかの病気を疑いながら生活するのが当たり前になっている。

 この転換点は、いつだったのだろう?

 

 私は医療関係者ではないのでよくわからないが、医療関係(特に病院勤務)の方々は、「2000年ごろから」という感想をお持ちではないだろうか。

 もしそうだとすれば、以上の仮説の信憑性は増す。

 

 「医療安全幻想広告」を信じ込んだ国民が、「医療は安全で確実」との確信を抱いて病院を訪れる。

 しかし現実の医療は、安心でもないし完全でもない。

 その医療者と患者の間の「危険性の認識のズレ」が、かつては見られなかった類の数々の対立を生み出してもいるのではないか。 

 

 恐ろしいのは、財政出動を嫌うはずの国が、この状況をコントロールできていないことである。

 メーカーにより人為的に作り出された「安全幻想」の中で、一線の医師が疲弊し、患者は患者でいら立ちをつのらせている。その意味では、医師も患者も「状況の被害者」なのである(厳密に言えば医師は患者が増えることで得をしているから、患者の被害のほうが大きい)。


 「医療関連産業」を相手に、いくら意識の高い真面目な医師であっても、1人で立ち向かえるだろうか。

 無理であれば徒党を組んで、「この状況はおかしい!」と声を上げてほしい(出入りのMRに愚痴るぐらいじゃダメですよ)。

 繰り返しになるが、「医療は安全でもないし確実ではない」「そもそも医療は危険なものなのだ」ということを周知徹底させることにしか、現在の状況の打開策はない。

 もしそれができなければ、この先に待っているのは、マイケル・ムーアの「シッコ」に描かれたような“医療制度の破綻”である。

 

 医師がエビデンスのないことを嫌うのは承知しているが、この仮説について、ぜひとも感想をお伺いしたいと思う。

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2008年08月22日(金)

県立大野病院事件(「医療不信」に関する一考察)

テーマ:日々思うこと

 福島県立大野病院の出産時産婦死亡事件に、裁判所の判断が下った。

 患者の遺族と医師の主張が真っ向から対立したが、その焦点は双方の「医療に伴う危険性の認識のズレ」にあったと思う。

 そうした「危険性の認識のズレ」は、患者の視点から見た場合には、「医療に対する不信感」の一因となる。

 今回はそのことについて考えてみる。

 

 まず、どういう状況で医療不信が起こるかということについて考えると、「医療の結果や経過が思っていたものより悪かった」という場合に、医療不信が起こるといえる。

 医療不信を惹起した事件は、最近では福島県立大野病院事件や東京女子医大事件、杏林大割りばし事故事件、日本医大ワイヤ事件等だから、こうした設備とスタッフの整った地域中核病院や医学部付属病院での医療が「思っていたものより悪かった」ということは、日本人が思い描いている医療の「安全性」が相当に高いレベルにあるということの裏返しでもある。

 

 しかし日本人が医療を安心で安全なものと思い込むようになった理由を、例えば「日本人の死生観が変化した」などというように、患者の側に求めることに私は反対である。

 日本人が医療を安心なもの、完全なものと思い込むようになった大きな理由には、「医療関連業界挙げての印象操作」があったと思うからだ。

 

 例えば「細径のデジタル内視鏡」 に関する広告では、「苦痛が少なくてデジタルだから画像が鮮明、信号処理で小さな病変も発見できる」などと謳う。

 しかしそこでは、検査自体で器官を損傷する可能性や、スキルスなどの特殊な病変を発見できない可能性など、マイナスの面については触れられていない。

 筑紫哲也や鳥越俊太郎のガンを発見したということで話題の「PET検査」にしても同様で、PETで見つけられないガンもあるということは、前提として語られていない。

 製薬会社の広告では、病変写真を載せたり、症状を列挙して、「こうした症状があればお医者さんにいきましょう」 と煽る。

 まるで薬を飲めば治ると言わんばかりだが、副作用の可能性や、薬が奏功しない可能性もあるということについては触れていない。

 

 当の医師たち自身も「日本の医療は世界最高水準」であり、「世界一の長寿は医療の発展による」と言い続けてきた。

 たしかにそれはそうなのだろうが、その反面で誤診があったり、ヒューマンエラーがあったり、術中死や手術直接死があったり、看護における医療事故があったりといった、すべての医療行為には当然に内包されるはずのリスクを、あくまで「例外」として、国民の目の届くところに置いてはこなかったという経緯がある。

 

 私が挙げたのはあくまでごく一例に過ぎないが、このような医療に関する印象操作が長く行なわれてきた中で、日本人は「医療は安全で完全なもの」と「思い込まされてきた」のではないかと思う。

 そうした状況下では、病気になってインフォームドコンセントを受けたり、医療事故の当事者となったりして初めて「医療にはリスクもある」ということを知らされるわけだから、もし思わしくない経過や結果に関して立腹する人がいたとしても、それは当然のなりゆきなのではないだろうか。

 危険性を感じさせる情報からは遠ざけられ、医療は安全であると思い込まされている人が、ある日突然「実は危険なんです」と知らされるわけだから、それが単なる医療者の言い逃れにしか聞こえずに、「話が違う」と立腹する人がいても、それは至極当然であろうというわけだ。

 

 今回の福島県立大野病院の事件の本質は、まさにそうした医療者側と患者側の「医療に伴う危険性の認識」が乖離していたがゆえの紛糾である。

 医療者側に言わせれば「しょせんは素人だから」「専門知識がないから」ということになろうが、私はそうではないと思う。

 日本人が素人だから問題の本質がわからないのではなくて、思い込まされてきた医療の安全性を前提としているから、本質にたどり着けないのである。

 要するに今日の「医療不信」は、「国民の医療に対する無知」に起因するわけでも、あるいは「死生観の変化による自分が不死身であるかのような錯覚」に起因するわけでもなく、まずは「安全性ばかりを強調しすぎた医療界の戦略」に最初の問題があったのではないかと思う。

 小松秀樹が「医療の限界」において、「医師側も安易なリップサービスをやりすぎたところがあります。患者に安心・安全の幻想を振りまきすぎました(23頁)」と、わずか2行にも満たない文章で姑息に言い逃れたことこそが、今日の混迷の最初にして最大の原因であるわけだ。 

 

 国民は、普段は甘い顔をしておきながら、いざ問題が発生すると途端に冷酷な一面に豹変する「医療」という「怪物」を、もはや信用していないのではないだろうか。

 冷酷な一面に豹変するとは、東京女子医大事件にみられるようなカルテの改ざん、虚偽説明のようなありとあらゆる手立てを講じて、自分たちを有利に、患者を不利に仕立て上げる姿勢のことだ。

 あるいは、普段は日常的に新しい治療法を喧伝して希望のみを伝え、実際に医者にかかって生命の危険が予測される場合になって、突然「医療にも限界はある」などと言い出す姿勢だ。

 そのようにしばしばみられる「医療の豹変」が、「医療者に激しい敵対心を露わにする患者が増えた」ということの、理由のひとつでもあると思う。しかし患者にしてみればそれは、医療という怪物に対しての「自己防衛本能の発露」にほかならないのではないか。

 

 職業医師と一般国民の間の「医療に伴う危険性の認識のズレ」を放置している限り、福島県立大野病院のような問題は、今後何度でも起こってくるだろう。

 国民が「医療行為に伴い通常考えられる危険性」を、真に身近なものとして理解しない限り、「どうにかできたはずだ」という怒りにも似た感情は引き続き噴出するであろうし、その持て余した感情は代理処罰への期待となり、捜査機関が医療現場に介入していくことを、さらに強く望むようにもなるだろう(当然だがこの捜査機関に対する期待には、医療界の身内に甘い体質や、隠蔽体質といったものへの「断罪」の期待が含まれる)。

 国民が望んだ捜査機関の介入は医療現場を萎縮させ、それはリスクの大きい診療科の忌避や、小松がいうところの「立ち去り型サボタージュ」を招来することになり、日本の医療をじわじわと崩壊させていくであろう。

 

 そうした状況の打開策は、2つある。

 

 1つは、医療関連業界みずからが「医療に関連する危険性は程度の差こそあれ、すべての医療行為に内包されている」ということを、あらゆる機会を捉えて、国民の目に触れさせることだ。

 それは「病院に行ったからといってすべての病気が治るわけではない」、「医療には命の危険が伴う」、「検査を受けたからといって病気が必ず発見できるわけでも、また治療を開始したからといって必ずしも治癒するわけではない」という、ごく単純な事実の周知徹底である。

 「そもそも医療行為は危険で不確実なものなのだ」という前提としての価値観が、日本中で共有されて初めて、医療をめぐる問題の国民的論議が可能になるのではないか。

 その効果は例えばゲフィチニブ投与のメリットとデメリットが冷静に話し合えるようにもなるであろうし、呼吸器外しや延命治療の是非が冷静に話し合えるようにもなるであろう。

 「前置胎盤」の危険性が、「当然ある」ものとして理解されるようにもなるであろう。

 このように「医療行為は安全でもないし確実でもない」ということを周知徹底させることのメリットには、計り知れないものがあると思う。

 

 もう1つは、「医療安全調査委員会(第三者委員会)」を、早急に設置することである。

 第三者による紛争事例の専門的な検討は、行なわれた医療の透明性を確保し、患者に対しては公平性を担保するが、それだけではなく、この制度は「患者の医療者に対する性急な告発」の抑止力としても機能するだろう。

 ただしこの委員会には、「不審が認められる場合の捜査機関への通知権」を、必ず与えなければならない。

 「捜査機関が介入すれば現場は萎縮する」などと言って医療界は猛反発しているが、「手段としての刑事事件化」がなければ、明らかな医療過誤であっても、委員会の段階で闇に葬られてしまうからだ。

 抗がん剤を10倍量投与して患者を死亡させた医師がいたり、点滴に牛乳や消毒薬を混合して患者を死亡させた看護師がいたりなど、ときどき信じがたいようなミスを起こすのが日本の医療界である。

 だから「手段としての刑事事件化」がなければ、国民の医療安全は担保されずに、悪い言い方をすれば医療者の「やりたい放題」になってしまう。

 そもそも「捜査機関の介入による現場の萎縮」と、「医療ミスとその結果に対する責任」は、まったくの別物であるはずだ。明らかなミスにより患者を危険に陥れた医療者は、その責任は負わなければならない。

 

 逆に言えば現状では、「捜査機関への通知権が認められた第三者委員会」が設置されない以上、捜査機関は医療現場への介入に及び腰であってはならないと私は考える。 


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2008年08月18日(月)

「誰でもよかった」のはあたりまえ

テーマ:日々思うこと

 加藤ら「大義なきテロリスト」たちが一様に口にする言葉に「誰でもよかった」というのがあって、その言葉が意味する無差別ぶりに社会は恐怖しているようだ。

 

 だが「大義なきテロリスト」の犯行動機が、宮部の言うように「忿懣の、爆発的かつ凶暴な力での清算」だとしたら、「誰でもよかった」のは、むしろあたりまえなのではないだろうか。

 「自分の希望が奪われた」という忿懣は、あくまで「社会全体を発生源として自分に生じた怨念」であって、その「社会全体に対する暴力的な清算」は、特定の「誰か」や「何か」に向けられたものではないからだ。

 では、なぜその「暴力的な清算」の対象が、たとえば構造物や団体などではなく、「不特定の個人」だったのであろうか。

 

 加藤ら「絶望者」の一部は、自分の人生が思い通りにならない強大な不満から、思考が極めて視野狭窄的になっていた。

 しかもその「強大な不満」を抱くことになった理由には、一部の強者が富を寡占する「格差」や、「超就職氷河期に生まれてしまったこと」、「日雇い派遣の蔓延」といった、努力したところで報われない、自分ではどうすることもできない外部的要因が大きかった。

 そうした外部的要因に翻弄されたあげく、「自分の人生が軽いように、他人の人生も軽い」という、誤った結論を導き出すことになった人たちが、「人間を対象とした大義なき自爆テロに走った」ということが、一連の事件の本質のように私には思える。

 

 ある意味それは現代の「働く貧困層」の一般的な認識であり、だからこそ加藤がネットにおいて「神格化」されるほどの共感を得たのであろう。

 “良識ある”評論家などは、「若者よ、加藤を神格化するな」とか「うまくいかないことを他人や社会のせいにするな」などというような、もっともなことを言っているが、しかしそれは本質を見据えていない諫言であると私は思う。

 最大の問題は、現代を生きる人間が、従来ならば自分で解決してきたはずの「忿懣」を、もう自分では解決できなくなっているということなのだ。

 彼らが抱いている「絶望」は、酒をあおったり、カラオケで騒いだり、バッティングセンターで球を打って憂さを晴らせる程度の「忿懣」ではなくなっている、ということである。

 

 では無差別通り魔殺人への「スイッチが入る人間と入らない人間」はどう違うかということであるが、私の個人的な考えでは、それは「親しい他者の有無」が大きいのではないかと思う。

 理解ある親や親友、恋人、あるいは保護司といった「親しい他者」を持つ人間は、そのコミュニケーションを通じて、自分の内部に滞留したエネルギーや悪しき考えを、適切に放出したり軌道修正したりできるが、彼らには「親しい他者」がおらず、それゆえ、視野狭窄的で極端に暴力的な思考に陥ってしまったのであろう。

 「自分以外の外部」に、自分の人生を文字通り踏んだり蹴ったりに蹂躪されたあげく、「視野狭窄的で極端に暴力的な思考」を持つようになり、孤独あるいは孤立ゆえにそのエネルギーを適切に放出したり、軌道修正することができず、ついに通り魔殺人へのスイッチが入ってしまったのである。

 

 何週間前だか忘れたがフジ系の「サキヨミ」で、「加藤らは“特殊な人間”か“普通の人間”のどちらだと思うか」という投票アンケートがあって、4:6ぐらいの割合で“普通の人間”という回答が上回っていた。

 結果はともかくとして、実はこのような設問にはあまり意味がない。

 どんな場合でも犯罪は「正常なるものからの逸脱」であるものだから、その意味では犯罪者は常に「特殊」だからである。

 ついでに言えば、「普通の人間が唐突に信じられない事件を起こす」というような趣旨の報道は、無用な社会不安を煽るだけであって、弊害のほうが大きい。

 それよりも問題にするべきは、現代では「普通」と「特殊」を隔てる垣根が、あまりにも低くなっているということなのだ。

 

 仮に相談できる親しい他者がいなくても、一緒に憂さ晴らしができる友達がいなくても、社会に「希望の光」さえ見えていたなら、彼らが極端な「忿懣の、爆発的かつ凶暴な力での清算」に走らなかったであろうことは、強く推定できる。

 逆に言えば、「普通」と「特殊」の間の垣根を恐ろしいまでに低くしているのは、現代社会に蔓延している「再生不能な絶望」なのである。

 

 「これから先、お前たちが背負って生きぬいていく社会には、“本来あるべき自分になれない”“本来持つべきものが持てない”という忿懣(ふんまん)を、爆発的に、凶暴な力でもって清算する――という形で犯罪をおかす人間が、あまた満ちあふれることになるだろう」


 という言葉の後に、本間はこう続ける。


 「そのなかをどう生きてゆくか、その回答を探す試みは、まだ端緒についたばかりなのだ」

 

 繰り返しになるが、宮部がこの言葉を記したのは1990年だ。

 18年前にも、現在のこの状況は「見える人には見えていた」ということである。

 

 こういう状況になるのはずいぶん前からわかっていたはずなのに、何もしなかった人たちの責任は、限りなく重い。 

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2008年08月15日(金)

「希望」とは「再生の可能性」なのかもしれない

テーマ:日々思うこと

 「火車」は、生活費のちょっとした不足分をクレジットやサラ金で補ったりしたことから、雪だるま式に借金が膨れ上がる「サラ金地獄」がモチーフになっている。


 そのなかで、再三繰り返されることがある。

 それは、「膨大な借金で首が回らなくなったときには、自己破産という手段がある」ということと、「自己破産を知らない人がいる」ということだ。

 作中に登場する溝口弁護士も、「借金で逃げたり、死んだり、人を殺したり、犯罪に走る前に“自己破産”ということを思い出してほしい」と語っている。

 

 では本間刑事が言うところの、“本来あるべき自分になれない” “本来持つべきものが持てない” の、「本来」とは何だろう?

 それは、「借金がなければ」と言い換えることができはしまいか。

 要するに本間は、「これから先、さらに加速していくだろうクレサラ社会の中で、借金で希望を失った人間たちが、その忿懣を、爆発的に、凶暴な力でもって清算するようになる」と言っているのである。

 

 少なくとも18年前は、まだ日本的雇用慣行が存在していたから、主たる「絶望」の要因は「クレサラの借金」というのが代表格だった。

 しかし最近では、その絶望の要因は「働き方」の問題にまで広がっている(正社員になりたいのになれないなど)から、状況は当時の本間の予測よりも、さらに悪くなっていると言っても過言ではない。


 借金問題における自己破産の意味は、「人生のやり直しを可能にすること」、すなわち「再生」である。

 再生の可能性があれば、「絶望」は「希望」に変わりうる。

 

 では望まずして派遣労働者や日雇い労働者になっている人が「絶望」しているとして、その人たちにとっての「再生」とは何だろうか。

 それはやはり、「正社員就業」であるだろう。

 非正社員から正社員への転換の可能性は、「自分も安定した働き方へ変わることができる」という「希望」になりうる。

 

 ただし加藤のような、「サラ金に借金のある派遣労働者」という人もいるから、問題はそう単純ではない。

 むしろワーキングプアであるからこそ、借金の可能性は高まる。

 (小野真弓は“パート・アルバイトの方でもご融資できます”と言っていたような気がする)

 

 しかしできるところから「絶望」を「希望」に変えてゆく施策にしか、現在の状況に有効な手だてはないのではないか。

 逆に言えば、絶望を絶望のままに放置しておけば、今後も「大義なきテロリスト」が、「忿懣を、爆発的に、凶暴な力でもって清算する」事件は、繰り返し起こるということでもある。

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2008年08月14日(木)

希望のタネ。

テーマ:日々思うこと

 最近、宮部みゆきの「火車」を読んだ。

 その中に、最近立て続けに起こった「通り魔殺人」の本質を見抜いているような文章があって、非常に驚いた。

 本間という休職中の刑事が、飼い犬を同級生に殺された小学生の息子に、心中で語りかけている場面である。

 

 「自分の身に降りかかったことを、そういう形でしか“清算”できない人間というのはいるんだよ」

 「これから先、お前たちが背負って生きぬいていく社会には、“本来あるべき自分になれない”“本来持つべきものが持てない”という忿懣(ふんまん)を、爆発的に、凶暴な力でもって清算する――という形で犯罪をおかす人間が、あまた満ちあふれることになるだろう」


 本間のその言葉の後を、息子が引き継ぐ。

 

 「でね、そういう人は、自分の気に入らないことを見つけると、まずそれをぶっこわしておいてから、ぶっこわした理由をでっち上げるんだってさ」

 「えっとね、大切なのは、どんなことを考えたかってことじゃなくて、どういうことをしたかってことなんだって」

 「ひどいことをする人は、自分がどうしてそういうことをするのか、ちゃんと考えたことがないんだって。だからひどいことができるんだって」

 

 「火車」の初版は1990年だから、なんと今より18年も前に、宮部みゆきは一連の「個人的テロ」を「予言」していたことになる。

 文中の少年は当時10歳だから、「お前たちが背負って生き抜いていく社会」である現在は、28歳になっていて、この部分でも加藤らの「大義なきテロリスト」たちの年齢と、シンクロしている。

 だから以上の一連の文章は、現在起こっている問題の解釈に応用できると考えて、差し支えないだろう。

 

 そこで大事になるのが、次の一文だ。

 

 「(犬を殺した)あいつが自分のしたことをよおく考えて、それからあやまりにきたなら、カンベンしてあげなさいって」

 「そうだね。父さんもそう思うよ」

 

 重要なのは「カンベンしてあげる」ということではない。

 「自分のしたことをよおく考えて、それからあやまりにきたなら」という部分だ。

 これは、宮部の言うところの「忿懣を、爆発的に、凶暴な力でもって清算」しようとしている人間であっても、その人間が事を起こす前に、「自分がやろうとしていることをよく考え、反省し、自己矯正できる可能性」を、示しているものと受け取れる。

 すなわち加藤のような人間は、決して先天的な異常者でもなんでもなく、「考え方さえ正しくできれば(自己矯正)」、事件など起こさずにいられただろうというものだ。

 

 ならば、その「自己矯正」のきっかけとなるものはなんだろうか。

 私はかつて、そのきっかけは「希望」だと書いた が、それでは漠然としすぎているし、宮部もそこまでは書いていない。

 

 この作品はクレジットやサラ金などのローン問題がモチーフになっていて、作中で宇都宮健児氏がモデルと思われる弁護士が、「クレサラ問題が深刻化するのは、昭和50年代のサラ金地獄から」と書いている。

 宮部の指摘は当を得ているから、作中の記述や分析は、ここでも現在起こっている問題の解釈に応用できると考えてよい。

 もしそうだとすればその時点から現在まで約30年、宮部の指摘からも18年が経過しているわけで、今の事態は「長い時間をかけて、徐々に社会がおかしくなってきた結果」と言える。

 (しかし30年もの間、政治はいったい何をやっていたのだろうか?)


 「クレジット・サラ金問題」と、「忿懣の、爆発的かつ凶暴な力での清算」との間に、どのような因果関係があるのかはわからないが、私が言うところの「希望」のタネは、あんがいこんなところにありそうな気がする。

 

 その考察は、またあらためて。

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2008年07月14日(月)

存在しない駅の犯行予告で逮捕

テーマ:日々思うこと

引用ここから


 インターネット掲示板「2ちゃんねる」に「埼京線の上野駅で人を殺しまくります」と書き込んで警察官に警戒を強化させたとして、警視庁上野署は14日、偽計業務妨害の疑いで、板橋区成増の無職、崎山裕介容疑者(32)を逮捕した。上野駅に埼京線は乗り入れておらず、「存在しないから犯罪にはならないと思った」などと供述している。

 調べでは、崎山容疑者は6月28日午後7時半ごろ、掲示板に殺害予告を書き込み、2日間で延べ50人の署員を警備に当たらせるなどして業務を妨害した疑い。自宅のパソコンから書き込んでおり、すぐに浮上したという。

引用ここまで



 存在しない駅の犯行予告で逮捕なのだそうだ。

 

 北武急行電鉄 というのがある。

 ネット上にしか存在しない、完全に「存在しない」駅である。

 もし、ここの犯行予告をしたらどうなるのだろう?

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2008年06月16日(月)

加藤。

テーマ:日々思うこと

 例の秋葉原の事件である。

 

 私は加藤は、たんなる異常で冷酷な殺人者ではないと思う。

 加藤を通り魔殺人へと駆り立てたのは、ただの認知のゆがみではないのか。

 

 「認知のゆがみ」というのはもともと心理学用語で、実際には詳しい7兆候があるのだが、私はここでは単純に、「思い込みによって作られた悲壮な世界観」という意味で使っている。

 

 やはり大きいのは、家庭環境であっただろう。

 親は厳しかったようだし、加藤は日常的に「うまく○○できなければ見捨てられるのではないか」という、見捨てられ恐怖にさらされてきたはずだ。

 親が理想とする自分と、現実の自分との間で相当な葛藤もあったはずだし、そのギャップは加藤から「自信」を根こそぎ奪っていっただろう。

 

 加藤のように内面に不穏なものを抱えていた人間は、いつの時代にだっていたと思う。

 しかしその内面の不安定は、「正社員」という生活の安定によって、かろうじて支えられてきたのではないだろうか。

 一昔前までの働き方は、正社員かパート・アルバイトしかなく、アルバイトの意思を持たない人は、「そろそろ身を固めよう」と思えば、ブルーカラーであっても正社員として働くことができた。

 正社員だったら多かれ少なかれ「会社の看板」と「収入の安定」という社会的信用があって、かつ「福利厚生」もある。年功序列制で、長く勤めれば勤めるほど給料も上がった。

 多くの普通の人にとって、一度手に入れたそうした安定は簡単には軽んじられないもので、それは人を反社会的行為に走らせないための抑止力としても機能していた。ごく単純に言えば、「不始末を起こして会社をクビ」が怖いから、自然に自重していたのである。

 先の見通しの立つ「人生設計」で財形貯蓄をしたり、結婚して家庭を持ったりすれば、なおさらそれは強い自重へとつながる。

 それが簡単にクビを切られる「非正規社員」ともなれば、内面の不安定に、生活の不安定が重なってしまう。このような状況では、それがいつ抑え切れない「将来への悲観」へとつながって、「失うものは何もない」と投げやりになっても、何も不思議はない。

 

 いままではその行き着く先が「自殺」だったが、今回の事件から他人を巻き込む「自爆テロ」に変わった、という指摘がある。

 おそらくその考察は、あながち間違いではあるまい。

 同じような事件は、いつどこで起こっても、もはや不思議はないだろう。人ひとりの存在が「使い捨て」として軽んじられれば、「自分の人生が大事なように他人の人生も大事」という前提が、成り立たなくなるからだ。

 それが社会的であるにせよ、精神的であるにせよ、ほかの何かであるにせよ、「追い詰められた人間」というのは、例外なく視野狭窄に陥っている。

 いろいろと考えたあげく、「自分の存在が軽いように、他人の存在も軽い」という結論を導き出す人間が、今後も続くかもしれないことは、容易に想像できる。

 その視野狭窄に対する有効な処方箋のひとつは、「未来への希望を示すこと」だが、しかし私はその方法を知らない。

 

 加藤は「彼女」に固執していたが、加藤にとっての「彼女ができること」は、未来への希望の象徴だったのではないか。

 「そばに自分を好きな誰かがいること」で、閉ざされた未来の重い扉が少し開かれて、そこからかすかな光が射し込んでくるのではと、淡い期待を抱いていたのではないか。

 そう仮定すると、たとえば国家が「彼女以外の未来への希望」を加藤に示せていたなら、加藤は凶行に及ばなかったかもしれない。

 

 それはともかくとしても、私は加藤を哀れに思う。

 加藤を今回の事件へと駆り立てたのは、「自分は世界で一人ぼっち」という、悲壮な世界観である。

 しかしその思い込みは、私がかつてこれこれ で書いたように、おそらくすぐに打ち砕かれて、馬鹿ではない加藤はごく短期間のうちに真人間になるだろう。

 自分を裁くために、膨大な数の人間が、膨大な時間と手間をかけて動く。刑事・留置場の世話係・移送係・裁判官・検察官・弁護人・裁判所書記官・事務官。

 「自分のために誰かが動く」という経験は、加藤の目を覚まさせるに違いない。かつて私がそうであったように。

 「自分のために誰かが動く」という実感は、「実は自分は一人ではなかったのだ」という気づきにつながる。そしてそのあとに待っているのは、猛烈な後悔と反省だ。

 

 絶対に、加藤は死刑を免れまい。

 しかしその瞬間、加藤は猛烈な後悔と改悛の情を抱いたまま、ただの気弱な1人の真人間として刑に処されるはずで、私はそれを哀れに思うのである。


 それが7人を殺した人間の責任だろ、と言われれば、私には返す言葉もないが。

 

 

kato



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2008年03月15日(土)

パターナリズムの崩壊と新たなパラダイムの形成

テーマ:日々思うこと

 パターナリズムとは父権主義と訳される。

 家長のリーダーシップに、他のメンバーは付き従うという構図だ。

 

 例えば15年くらい前の医療現場では、父権主義が機能していたような気がする。

 インフォームドコンセント(診療に伴う説明と同意)という言葉がちらほら出てきはじめた時期ではあったが、定着はしておらず、「患者の権利」などというものを定めている病院も、ほとんど皆無だった。

 しばしば「密室医療」などと揶揄されてもきたが、診療方針は医師のみがほぼ独断で決め、患者はそれにただ付き従うというスタイルが、ほぼ標準的な医療スタイルだった。

 この時代、同意書なるものはせいぜい手術内容に関するものが1~2枚渡された程度だった。

 

 現在、この「医師によるリーダーシップ」は、ほぼ崩壊している。

 検査ひとつとっても同意書同意書の連続で、入院中に装用する医療用具の説明書や麻酔の説明と同意書、手術に関するものなどが、1回の治療で山のように渡される。

 「治療に患者が参加」するようになったことの、ひとつの側面である。

 

 やはり15年ぐらい前の学校教育でも、父権主義が機能していた。

 学級は家族であり、担任教師が家長であり、生徒は子弟という、言ってみれば「バーチャル家庭」というようなものが、学校教育だったわけである。

 教師が家庭訪問にくれば親はペコペコしていたし、教師の進路指導がその家の第一順位の意思であったような気がする。

 現在は「学校教育に家庭が参加」するようになって、子弟の教育内容に親が苦情を入れる時代になっているらしい。

 

 現在2つの現場に共通して存在するのが、「モンスターペイシャント」「モンスターペアレンツ」という存在である。

 「無理難題要求をする患者・親」ということだが、どこがどうモンスターなのだろうか。

 注意しなければならないのは、「モンスター」と映るのはあくまで医師・教師からの視点からであって、社会共通の概念ではないということだ。当事者以外の人からは、例えば犯罪者のようなわかりやすい「モンスター」ではない。

 

 医療や学校教育でいう「モンスター」というものの実態は、案外、「従来の価値観ではコントロールできない人」というところに納まるのではないだろうか(※)。

 医師・教師は、あくまでも以前からの継続として物事を見ているが、実際には患者は治療に参加をするようになった点で、また親は学校教育に参加をするようになった点で以前とは異なっている。

 しかしその「参加」という行為は歴史が浅いから、その仕方が洗練されていないし、加減の調節を分かっていない。それが時として「無理難題要求」として表出するのではないか。参加を要求されるようになったメンバーも、それはそれでとまどっているのだと思われる。

 このことは「医師」「教師」という、かつて強権的であった職業の人の職場でのみ起こっていることからみても明らかだ。かつての強権では処理できない人々を、欺瞞的に「モンスター」と呼称しているとさえも言えるかもしれない。

 

 こう考えてくると、何もモンスターペイシャントやモンスターペアレントと言われる存在は、社会が悪い方向に変化して出現したものではないし、決して話が通じない人でもないと考えることができる。

 医師が訴訟リスクに怯えるのは仕方のないことだが、しかしその直接的な理由を患者に求めるべきではない。背景は患者そのものにあるのではなく、社会の移行期に必然的に生じた一時的な弊害であるからだ。

 逆に言えば、今までの父権主義下で黙らせておけたものが黙らせておけなくなっただけの話である。

 学校教育に親が介入することについても、要は同じことだ。今まで黙らせておけたものが黙らせておけなくなっただけの話である(※2)。

 

 家父長が一方的に物事を決めてきた場面へのメンバーの参加は、必然的に父権主義を崩壊させる。

 比喩になるが、「旧秩序が崩壊したあとの焼け野原の混乱」というのが、現在の状況ではないだろうか。

 しかし「新参加」はいずれ社会に定着し、トライアルアンドエラーを経たのちに、双方の適切な関わり方や合意、共通認識というものが、そのうち自然に形成されるだろう。

 現在はあくまでも、その移行期に混乱しているだけだ。


 繰り返しになるが、モンスターペイシャントやモンスターペアレントという存在は、恐怖する対象でも忌避すべき対象でもなんでもない。

 現在対応に苦慮している方々には切実な問題であろうが、長期的に見ればこの混乱状況はいずれ必ず解消され、新しいパラダイムを迎えるだろう。

 そしてそこでは父権主義時代の盲目的追従よりもより温かな、相互信頼に基づく人間らしいコミュニケーションで物事を進めることができるようになるはずだ。

 

 なぜ父権主義が崩壊したかということについては、「時代にそぐわなくなった」という点に尽きる。

 聖職だとか仁だとか、父権主義が影響力を行使しうる、抽象的な価値観の影響を強く受けていた現場に、「サービス」という現実的な価値観が持ち込まれるようになったことが大きい。

 「サービス」が金銭的支弁の対価である以上、サービスを受ける側には「当事者としての参加」という権利が与えられたと考えることができる(※3)。

 その意味でいま我々の目の前にある混乱は、いずれ我々の誰もが突き当たり、そしてそれを甘受しなければならなかったことでもある。

 ある立場の人からは「モンスター」と見える人々も出現はしたが、全体としてみた場合、父権主義の崩壊はプラスのできごとではないだろうか。

 限られた人々が一方的に物事を決めて付き従わせていたよりも、コミュニケーションを土台とする双方の納得と合意で物事を進めることは、ひとつの近代化だと考えるからだ。

 

 

(※)「昼間だと混むから夜間の救急外来に来る」というようなことはモラルの問題であって、モンスターペイシャントとは厳密に区別されなければならない。

(※2)こう考えると、「患者様という呼び方が患者を増長させた」などという意見が、まったくの的外れであるということがわかる。

(※3)義務教育は、納税の対価としての「行政サービス」である。

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