前回は「医者に行かなかった自分が悪い」ということを書いたが、しかしこの女性には同情すべき事情もある。
それは彼女が「入職後間もなかったこと」だ。
労働基準法では入職後6ヶ月経過しないと、年次有給休暇が付与されない。
また仮に入社時の一斉付与などの制度があったとしても、「新入社員が休暇を取る」ことは現実的には難しい現状がある。
本来は根拠のないことであるのに、現実には半ば強制力を持っている「周囲の目」というものがあるからだ。入社後間もないのに休暇を取ったり、早退することを許さない風土がこの国にはある。新入社員に限ったことではないが、家庭や自分よりも会社に奉仕することが美徳とされた、高度経済成長からバブル景気までに広く存在した風潮のなごりだ。
職種がシステムエンジニアであったことも彼女には災いした。
IT企業(特にベンチャー)では労働契約条件が遵守されず、サービス残業や休日出勤、超過勤務が日常化していることが多いからである。
小さい子供がいるOLの話を聞いたことがあるが、その人は「うちの会社は子供が熱を出したときとかに『いいからもう帰りなよ~』と言ってくれるので、恵まれているほうだと思う」と言っていた。
しかしそういうものは本来、当然のこととして社会的なコンセンサスが形成されていなければならないものなのだ。
多くの人が育児や介護と仕事とを両立させることの困難に直面していて、実は「自分の体調が悪いから病院に行く」ということも、その同一線上にある。
新聞の医療面などでよく目にする、働き盛りの男性が手遅れで死んだりする話がある。そこまでになってしまった理由の大半が「仕事が忙しくて医者に行けなかった」というものだ。
早期発見・早期治療のための運動や、がん対策基本法などの制度を真に実効あるものにしようとするならば、労働環境から変えることが早道ではないだろうか。
育児・介護休業が法整備によってようやく実現されたように、必要ならば「診療休業」にも、法制度によって強制力を持たせるべきだ。
実際の通院は年休(半休含む)で行なっているという人も多いが、繁忙時には取得できなかったり、会社の年休に対する意識が低くて取得しづらいような会社では、診療のために休業することがままならない人もいるからである。そのために1日単位で診療のために休業できる制度がほしい。
そうすれば、繁忙期に時季変更されているうちに治療の機を逸してしまったなどという最悪の事態も避けられるだろう。
「病気になるなんていうのはたるんでる証拠だ」「日頃の自己管理がなってない」「俺は大きな病気などしたことがない」などと言ってふんぞり返っている無知な輩に、意識変革を迫る副効果もあるかもしれない。
医療費の問題も大きい。
私の受診では、診察と検査を合わせて3割負担で7千円近かった。他院にも通っている私の今月の医療費は、1万円を大きく超えるだろう。
今回薬は必要ないということであったが、もし服薬すれば薬局で別に薬代もかかる。入院とか手術とかということになれば、その費用は膨大だ。
がんによらずあらゆる病気の治療のカギは、「早期発見・早期診断・早期治療」にある。
しかし前述のように「治療が遅れる」ことは、複数の要因が複雑に絡み合った結果であることが多いから、単純に「意識を向上させる」だけでは早期治療につながらない。
がん死する人を減らそうとするならば、関連する問題を総合的に考えなければならない。
「診療休業」という風土が根付いたり、あるいは制度化されたりするまでには、まだ相当の時間がかかるだろう。
そこでもし私たちにできることがあるとするならば、それは「自己防衛」である。
具体的には「余命1ヶ月の花嫁」の場合には、例えばハードな職種を選ばないとかバイトから始めて様子を見るとか、そういうことも選択肢としてはあったのではないかと私は考えるのである。
昨年の5月には(±)だった尿タンパクが、11月には(3+)になっていた。
蛋白定量という尿中のタンパク量を量っても、増えていく一方で減る兆しはない。内科では原因がわからず、診療所のかかりつけ医が地域中核病院の腎臓内科に紹介状を書いてくれた。それが11月末。
ところがいろいろとバタバタしていて、行かなきゃなと思いつつもずっと先延ばしになっていた。
サエキさんのこともあり、私はもともと腎機能障害に恐怖感を抱いていた。
正月に「タンパク尿」でネット検索すると、慢性腎不全だとかIgA腎症、人工透析といった不穏な言葉が続々と出てくる。
腎生検になるのかなとかもう手遅れじゃないだろうなとかいろいろ思いつつ、1ヶ月前の紹介状を持って腎臓内科を受診した。
結果は大きな異常はなく「一応詳しい検査もしますけど、体重を減らせば治ると思いますよ。薬も必要ありません」とのことだった。
そんなわけで、けっこうハラハラしながらこの1ヶ月を過ごしていたが、その合間になんとなく思い出したことがあった。
「余命1ヶ月の花嫁」 の話である。
母親を早くに亡くし父1人娘1人の家庭に育った女性。
23歳のときに乳がんを発症し、治療の甲斐なく24歳で夭折する。
死の直前、友人たちは元気付けようと女性が交際していた男性との結婚式を挙げさせることにする…。
そんな話だ。
かわいらしい私好みの女性で、あまり悪口はいいたくないのだが、それでもやはり「でも自分が悪いよね」と思ってしまう。
女性はすでに1度乳がんで手術を受けていて、その後社会復帰していたのだが、ある日体に変調をきたす。ところが再就職先の職場は忙しくずっと異変を放置していて、我慢しきれずやっと受診したときには、再発した乳がんがすでに末期状態だった。
ナレーションは「最後まで生きる希望を捨てず病魔と闘い続けました」と言う。本人も死の床で恋人に「生きたいよ」というメールを送ったりしていた。
しかし生きたいなら生きたいなりにもっと早くどうにかできたはずで、手の施しようがない状態にまで放っておいて、いざ手遅れになってから生きたいと言われても、周りだってどうしようもない。
病院に行ったら残酷な真実を突きつけられるかもしれないし、それを考えたら足が遠のいてしまう気持ちもわかるが、病歴を考えたら放っておけば悪くなることはあっても自然によくなるとは到底考えられず、いずれは自分で向き合わなければならないことだった。
当然するべきことをせずに自分でどんどん状況を悪くしてしまったわけで、はたしてこれは美談なのだろうか?
最近本が出たらしい 。
オビには「皆さんに明日が来ることは奇跡です。それを知ってるだけで、日常は幸せなことだらけで溢れています」と書かれているようだ。
たしかにそうかもしれないけど、でもあなたに言われてもね…。
だって自分が悪いんでしょ? もっと早く病院に行くなり、定期的にフォローするなりしていれば、助かったかもしれないんだし…。
がんになったのは不運としか言いようがないが、しかしその後の「余命」を決めたのはむしろ自分ではないか。
乳がんの既往があるハイリスク群でありながらも、定期受診などの適切なフォローをせずに放置したのがこの結果なのだから。
乳がんの早期発見・早期診断・早期治療の大切さを訴えるピンクリボンキャンペーン の関係者がこれを見たら、きっと怒るだろう。
TBSの厚顔無恥なところは、「ヤンキー母校に帰る」にせよ「余命1ヶ月の花嫁」にせよ、よくよく考えれば何の意味もない個人的な物語を、さも意味があるかのようにもったいぶって見せるところだ(昔の人はそれを「お涙頂戴」といった)。
勝手にヤンキーになった人間が更生して母校で教師になったのも、幸せを夢見ていた若い女性が自分の責任で手遅れで死んだのも、それは単なる個人的な出来事に過ぎないのであって、実はそこには何の意味もない。
こちらからすれば「勝手にやってろ」という話なのであって、遺されたお父さんが気の毒ではあるが、感動するような話ではない。
こんなものを「さあ泣いてちょんまげ」とばかりに見せられる視聴者は、ようするにバカにされているのだ。
ご本人も天国で反省されているだろうからこれ以上は書かないが、もしあの話に教訓めいたものがあるとするなら、「具合が悪いときには早めに医者に行きましょう」ということだけだ。
時間の都合や医療費などいろいろ問題はあるが、それはまた別の話で、とりあえず私は「医者は早めにかかろう」とあらためて思ったのである。
新年あけましておめでとうございます。
皆様に新年のごあいさつをさせていただくのも、これが3度目となりました。
元日である今日、面接のために保護司さんのところへ行ってきました。
年の瀬で何かとバタバタしていた私は、12月初旬の面接以降すっかり保護司さんに連絡するのを忘れてしまっていて、気にかけてくださっていたようです。心配するお電話を頂戴しました。
老夫婦である保護司さんのところへは、とりたてて訪問者もなく、元日でもこころよく迎えてくださいました。
おせち料理も、ふるまってくださいました。
ひとり暮らしの私は、気分ばかりの「緑のたぬき」で年越しそばを済ませ、100円ショップで買った正月飾りをあわただしく大晦日に下げただけの正月だったので、お心遣いが大変胸に沁みました。
保護司さんが作るおせちは、全部手作りだそうです。
形どったハス、たけのこ煮、やつがしら煮つけ、きんぴらごぼう、なます、黒豆…。
やつがしらはちょっと口に合わず、難渋しましたが、おいしくいただきました。
「連絡カード」の余白がなくなって、新しい連絡カードが届いていました。
観察期間終了日の日付が、今年の日付になっていました。
執行猶予の期間が終わることを、私はなによりも心待ちにしています。
皆さまに、よき年が訪れますように。
本年も「監獄☆日記」を、よろしくお願い申し上げます。