2007年04月26日(木)

当然

テーマ:日々思うこと

 長期不法滞在していたものの、「子どもたちは全員日本で育ち、長期にわたって生活実態がある」などとしてビザを求めていたが最高裁で敗訴したイラン人一家が、進学のために在留特別許可を得た長女を除いて帰国した

 

 まぁ、当然でしょう。

 

 いくら日本に生活実態があって、子どもたちが日本語しか話せないといっても、こんなことが許されるならイミグレーションは何のためにあるんだという話になってしまう。

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2007年04月14日(土)

はぁ……

テーマ:私生活的ブログ

 某番組で、「9男6女の大家族」というのを観た。

 あれはいったい何なのだろう?

 

 猫じゃあるまいしボコボコボコボコ子どもを生んで、家の中は散らかり放題でめちゃくちゃで、ドーナツを2つ取ったといえば殴り合いになり、姉は意味もなく弟の頬を張り、子どもたちはお金がないから中学を出たら働きに出ている(前にも書いた覚えがある。私は多分苛立っているのだ)。

 家の中では四六時中、誰かが泣くかわめくか怒鳴るかしている。それはしばしば暴力を伴い、弱い者が理不尽に犠牲になる。

 破られた襖は直される気配がなく、昼食はきょうだいの誰かが小遣いで買ってきたハンバーガー。

 これを劣悪な環境と言わずして、ほかに何と言うのだろうか。

 もはや人間の家族の情景などではない。修羅だ。

 

 父親は多くの子どもを遺して、ポックリ死んだようだ。

 生活が変わった形跡はないから、生命保険にも入っていなかっただろう(ちなみに仏壇はなくタンスの上が仏壇代わりだった)。

 格差社会の中で、子どもを育てるための資金が心配であるばかりに「子どもを持たない」という選択をする夫婦も増えているのに、いったい何を考えていたのだろう?

 

 この劣悪な環境で育った子どもたちは、あまりまともとは言えない人生を送っている。

 当たり前だ。こんな劣悪な環境の中でまともな人間が育つわけがない。

 長女は中学卒業後、家計を助けるために昼は清掃の仕事をして夜は水商売。その後妻子ある男の子どもを宿し、後先考えず生む。その後別の男と結婚をするが、その男との間の次男が生まれると直後に離婚。しかもその子は、高熱を出したとかで障害を持つ(大方、医者に掛けるのが遅れたのだ)。

 次男に手が掛かりきりだから、仕事は辞めた。働かずに食っていけるわけはないから、福祉の世話になっているのだろう。

 男のきょうだいの1人は、中学でグレ始め、児童自立支援施設に入所する。

 きょうだいの別の1人は、知的障害者である。

 ほかにもできちゃった結婚だとかなんだとか、3世代の間にはそんな話がゴロゴロしている。

 

 ナレーションは言う。「長女の人生の前半は苦労の多いものだったが…」。

 何と言うか、この家族はしなくてもいい苦労をわざわざ選んでいる感じだ。

 本能だけで生きているのだろうか。


 この家族では唯一高校に進んだ娘が、汚い言葉を吐く。

 「夢じゃねえ! ばっかじゃねえ!」 

 別の中学生の娘が言う。

 「愚痴るんじゃねえよ。カメラ回ってんだよ」

 稼ぎ頭の息子が汗水たらして稼いできた金を母親は「ご苦労さま」の一言もなく受け取り、娘が支払いに追われているというので母親が用立てた10万円を、娘は「ありがとう」の一言もなく受け取る。

 何かが、どこかが狂っている。


 人間は、ここまで堕ちることができるのだろうか。
 番組を観ている間じゅう、私はこみ上げるため息と吐き気とを抑えることができなかった。

 インドのスラムじゃあるまいし、これが日本の光景なのか?

 

 当たり前だが、子どもたちが悪いわけではない。

 大人が悪いのだ。

 それぞれの親には、それぞれの事情があるだろう。子育てにともなう経済力や体力、精神力などだ。

 そうした事情によっては、3人欲しいところを1人で我慢したり、子どもが欲しいところを持たなかったりする。

 それをサカリのついた猫じゃあるまいし、ボコボコボコボコ考えもせずに生んだ挙句がこの有様だ。

 

 目を疑う私に、さらにナレーションが覆いかぶさる。

 母親の50歳の誕生パーティーのようだ。

 「い~い子どもたちに育ちましたね。おかあさん」。


 はぁ……………。

 

 つくづく、ビッグダディはすごい人だ。

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2007年04月14日(土)

「集落」=「世間」≠「コミュニティ」。

テーマ:私生活的ブログ

 だいたい離島の集落で「敬老会」などという行事が、98回の長きにわたって営々と執り行われているということが異様だとは、誰も思わないのだろうか。大人たちは総出で会場を設営し、老人たちは総出で正装で着飾って出かけて行き、子どもたちは総出で催し物を披露する。

 

 こうした環境下では、おじいちゃんおばあちゃんよかったねと、家の中でひっそりと個人的に敬老を祝うことは、決して許されない。「敬老会」への参加こそが、「集落=世間」に忠誠を示していることの証とされるからだ。

 そしてあたりまえだが不参加に対しては、共同体からの「村八分」という制裁がある。

 

 離島の集落の敬老会の夜には、祝うほうにも祝われるほうにも、厳粛なしきたりがある。

 祝われる側は「三膳」なる縁起物の料理を作って出迎えなければならないし、祝う側は祝儀を持って訪問し、その出された三膳を、それぞれ意味づけのある順序どおりに、正しく食べなければならない。

 

 住民は「年間を通してほかにも行事がいろいろと多い」と言っていたが、こうした風習はまったくのところ共同体の結束を強めるための「儀式」にほかならないものだ。そしてその特殊性と排他性をもって集団内部の結束を強めているという点で、実は暴走族の集会と本質的には変わるところがない。違うところは「掟」を破ったときの制裁が、リンチか村八分かということぐらいだ。

 

 ただこうした「儀式」は、この先2つの点でおのずから崩壊していく可能性がある。

 ひとつは財政が立ち行かなくなった自治体が、Iターンのような制度を作って自らを外部に対して開いた結果内部の風通しがよくなり、共同体に変質が起きること。つまり異なる価値観を持った他者の参入で、今までのものと他者が持ち込んで来たものとの間での文化比較が起こり、自分たちの慣わしが不合理なものであったと気づき、自然消滅すること。

 そしてもうひとつは、マスメディアやインターネットの普及で若い世代が当然のように多様で個人的な価値観にさらされて、それを受け入れて育っていること。具体的には、いざ儀式の支え手となったときに彼らが、「大変だしもうやめようよ。みんなそれぞれで祝えばいいじゃん」と言い出す可能性である。


 私がもっとも言いたいことは、まかり間違っても特殊で排他的であることを、「人情味とあたたかさ」などと混同してはいけないということだ。O集落における、「人間関係の異常な近さ」は、現在でも廃れていない人情でもあたたかさでもなんでもない。

 ムラの結束のその結果が、「人間関係の異様な近さ」となるのであって、一見の部外者にはそれが「人情味とあたたかさ」と映るに過ぎない。

 

 都市部において、多くの生き方の多様性や価値観の多様性を受け入れ、1度でも「個」として生きた経験のある人なら、そのことを看破できるだろう。

 

 たとえば民主党は「コミュニティの崩壊こそが問題」などというが、私も「コミュニティ」の存在そのものを否定するものではない。

 地域の防犯や老人の安全、青少年の健全な成長などのためにも、近隣に対して「適度な」関心を持って、その適度な関心と適度な交流の集合体がコミュニティと呼ばれるものであるのなら、まったく異論はない。

 しかし日本には元からコミュニティなどなく、「無関心」の対極は即、「ムラ社会」であったのだ。狭い地域での相互監視のもと、陰口を叩き合ったり足を引っ張り合ったり、プライバシーが筒抜けだったり、そうした彼我の区別がつかない社会は間違いなく異様だ。

 社会のありようがムラ社会よりは無関心のほうがまだ近代的だというのは、そういう意味である。

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2007年04月11日(水)

ビッグダディⅡ。

テーマ:私生活的ブログ

 ビッグダディ Ⅱが放映された

 家族の見事な統率ぶりと民主的な意思決定、暴力を伴わない教育、手の込んだ愛情料理にマンガの才能など、本当にすごい人だ。

 家族運営と仕事を見事に両立し、さらにそこに加えての濃密な地域参加とくれば、見ているほうが心配になってくる。

 

 思うのは、これからこの家族は、それぞれが未曾有の問題に直面していくことになるんだろうな、ということだ。

 それは、「大家族の中での子どもたちの自我の確立」ということである。

 ビッグダディも今までは、幼い子どもたちを率いてがむしゃらに前に進むということが可能だっただろうし、子どもたちもただただ父親についていくということが可能だったのかもしれない。

 しかしこの四男四女たちは、これから本当にむずかしい年頃を迎えつつある。

 

 思春期に差しかかった四女たちは、他のメンバーからのプライバシーを強く求めるようになるだろうし、反抗期に差しかかった四男たちは、ビッグダディに反抗するようにもなるだろう。

 幼かったきょうだいたちはこれまで男女の別なくじゃれあってきたが、これからはそれぞれの性差を意識するようにもなるだろう(すでに長女は始終腕組みをしてカメラの前で胸を隠すようにしていたし、合格後の胴上げにも男のきょうだいはあまり乗り気ではなかった。たぶん本人が体に触れられることを嫌がるのだろう)。

 ビッグダディ自身も、年を取っていく。年を取るごとに気力と体力が増進していくという大人は、あまりいない。

 ようするに、今までのこの家族を支えてきた「家族一丸」という根拠が、子どもたちの成長とともに、徐々に希薄なものになっていこうとしているのだ。

 濃厚濃密この上ない環境で生きてきたそれぞれのメンバーにとって、その「希薄さ」こそは未知であって、その希薄さにそれぞれが今まで遭遇したことがないという意味で、未曾有なのである。

 ビッグダディ一家がどう変化していくのか、それをどう乗り越えていくのかを、私は見てみたいと思う。

 

 私の目から見て、ビッグダディにとって可哀相だったのは、集落の濃密過ぎる人間関係だった。

 年間を通して何らかの行事や寄り合いがしょっちゅうあり、それはもうほとんど酒宴の席であって、酒の飲めないビッグダディは、なんと6時間もしらふで付き合っていた。

 もし中座をしたならしたで、「付き合いが悪い人間」との悪評が立ち集団から疎外され、以後、地域の中で生活することが困難になってくる。

 いわゆる「世間」と呼ばれる、日本の地域共同体の負の側面である。最近は「コミュニティの崩壊」などといって、地方でも世間は消滅しつつあるようだが、それでも「離島の集落」には、まだそれがしつこく土着しているように私には見えた。

 

 日ごろのムラ社会への参加や貢献を条件に加入が許されることになる、いわゆる「世間」には、メリットもある。

 夫婦間のもめ事の仲裁、結婚の仲介、就職の世話、子どものしつけ、子守り、留守番、老人の介護等。

 抜け駆けを許さない相互監視に参加する見返りに、世間はその地域で生活するうえでのメリットを与えるわけだ。

 だから「コミュニティ」なるものが残存していることをもって、人々があたたかく人情味があって…などということは、はなはだしい誤解と錯覚であると言うべきである。

 「都会では隣で人が死んでいても気づかない」ということがよく語られていて、「だから都会は冷たい」ということになるのだが、どうしてそうなるのだろう? そういう無関心さは、人口が都市部へと移動し地縁を引きずらない人たちが都市を構成していることと無関係ではない。またバブル崩壊によって起こった価値観の多様化と生き方の多様性が認められた結果でもあって、無関心がいいことだとも思わないが、それは成熟した社会のひとつのありようだとも言える。

 馬鹿馬鹿しい。いい人は都会にだっているし、嫌な奴は田舎にいたって嫌な奴なのである。

 

 話が横道にそれたが、だったら思い切って、ビッグダディもとことん世間の世話になればいいと思う。

 まだ移住して8ヶ月だから、その段階にはないのかもしれないが、おいおい、遠慮せずになんでも共同体の世話になっていい。

 地域共同体への参加と貢献だけを要求されて、共同体はビッグダディに何のメリットも与えてくれないというのでは、いつまでたっても彼らにとっての「よそ者」でしかないからである。

 

 続編に期待する。

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2007年04月03日(火)

外来に行った。

テーマ:入院☆日記

 入院していた病院の外来に行った。

 サエキさん を見舞うつもりで病棟に上がっていって、驚いたことがある。

 それは、私が退院するときにもうあまり長くはないだろうなと思っていたあの老人 が、まだ存命であったことだ。

 ただしもう意識はなく、人工呼吸装置と絶え間なく電子音を発する心拍モニターをつけた姿だったが。

 

 意外だったのは、臨終の際にいる本人を取り囲む親族の姿や雰囲気というのは、私はすごく沈鬱なものだと思っていたのだが、それに反して明るかったことだ。

 そのころ老人の孫に当たる幼い姉妹の妹がはしゃぐと、お姉ちゃんのほうはしー! と諌めていたのに、今日は2人でじゃれあっていたし、そのように子どもたちがはしゃぐと親である娘さんは怒ったのだが、それもやはり怒らなかった。

 ということは、あれは同室である私たちへの配慮ではなく、「おじいちゃんの眠りを覚まさないように」という配慮だったのだろう。

 娘さんは微笑みを浮かべてさえいたが、どういう心境の変化なのだろうか。

 

 その明るさの意味を私は、たぶん、「自分たちにやれるだけのことはやった」という満足感なのではないかと思っていた。

 そう知人の医師に話してみたところ、「そうではなくて、ご家族は家族の死ということを受け入れたのだと思う」と言っていた。

 言われてみればそうなのかもしれない。

 あれからもう1ヶ月になる。

 その1ヶ月の間に、妻・娘・孫というそれぞれの立場で、この男性の「死」というものを、「受け入れた」のだろう。

 

 知人は続けて言った。

 「医療者の立場で言うと、入院してから亡くなるまでの間には、最低1週間はほしい」

 「その間に、医者の立場からは患者さんが芳しくない状態であることをじっくり説明して差し上げられるし、それを聞いたご家族も「死」を受け入れる準備ができるから」

 「入院してまもなく死んでしまった、というような場合は、家族に「死」を受け入れられる時間がなかったということ。そういう場合は往々にして、看護者に怒りが向かいやすい。なにか医療事故があったのではないか、とか、そういう疑念を患者さんのご家族が持ちやすい」

 

 現在、回復の見込みがない患者の、延命措置の中止を医師の判断で行なえるようにするための、ガイドラインの策定が進められている。

 確かにそれもあるシチュエーションにおいては必要だが(患者本人や家族の依頼があったとしても、現行法では殺人罪で罪に問われかねない)、「残された者の心理的充足」ということを考えると、延命治療はただ本人のためでなく、その家族が、事後心安らかに過ごせるのならば、「回復の見込みがない患者に対する延命治療」にも、その意味は大きいのではないだろうか。

 

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