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2007年01月29日(月)

前科者カード

テーマ:保護観察

 保護観察中には、「連絡カード」、通称「前科者カード」 というのを持たされる。

 「13階段」には、常時携帯を義務付けられていると書いてあったから、私もまた律儀にカバンの中に入れて、この2年というもの常時持ち歩いていた。

 

 ところが前回ふと思いついて、保護司に「これ持ち歩かなきゃいけないんですか?」と聞いてみたら、即座に「そんなもの持ち歩かなくていいわよー」と言われた。

 「もし持ち歩いて、失くしたらどうするの」、「まぁこれにはあなたの名前は書いてないけど、もしそのカバンごと盗まれたりしたらあなたのものだって分かるし、それはあなたにとって都合のいいことじゃないでしょう」と言う。

 「保護観察所のほうでも持ち歩かなくていいってことになってるんですか?」と聞いたら、「そうはなってないけど、私はそれでいいと思う」と言ってくれた。

 

 「連絡カード」は保護観察の記録をつけておくのが第一義であると思うが、保護観察所と担当の保護観察官、保護司の連絡先が記載されていることから、「なにかあったらすぐに連絡するように」という、言ってみれば「名刺的な」意味もあるようだ。

 私の場合はもう、携帯に保護観察所と保護司の電話番号が登録してあるから、その意味では連絡先を常に持ち歩く必要もない。だからとりあえずカードは家の引き出しに入れておくことにした。

 

 ちなみに携帯に登録した名称は、保護観察所は○○(地名)、保護司は××さんとしてある。

 携帯を紛失することも、十分ありうるからである(ずいぶん前に1回あるし)。

 

 そういえば前回は、またお米を持たせてくれた。4,5キロはありそうだ。

 保護司はその日、米を粉にして上新粉にし、団子を作ったのだそうだ。

 私はまだ手作りの団子というのを食べたことがないので食べてみたいといったら、「なんだそれだったら、冷凍にしてあるから次のときに作っておいてあげる」とのことだった。

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2007年01月27日(土)

それでもボクはやってない

テーマ:日々思うこと

 ―――十人の真犯人を逃すとも一人の無辜(むこ)を罰することなかれ(法格言)

 ―――裁判は本来、検察側の有罪立証に対して、弁護側が合理的な疑問を差し挟むことができれば無罪なのだ(周防正行)



 周防正行監督の 「それでもボクはやってない」 が公開された。

 徹底的に刑事司法のリアリティにこだわって製作されたと話題の作だ。

 

 周防監督は、「現役の裁判官、検察官、警察官には、話を聞こうとしても聞けなかった」、「だから『警察の取調べを受けた人』に話を聞くことになったが、事件や場所や時間を超えて、誰に聞いても同じ話を聞くことになった」、「それはそうした取調べの方法が、日本では手段として定着しているということだ」と言う。

 そして、すべての原因は「自白証拠への偏重」「否認すれば、何十日も勾留される人質司法「99%という異常な有罪率」にあると喝破する。

 

 私が警察署の留置場に、140日余り勾留されていた最中にも、そんな光景は何度も見た。

 本当にやっていないことまで「認めろ」と迫られ、「認めれば捜査を終わりにしてやる」とアメをチラつかされる反面、「認めなければ裁判に娘を証人に呼ぶ」と脅された保険金詐欺 。彼は結局やっていないことまで認めさせられる羽目になったが、彼の留置場への勾留期間は、この時点で6ヶ月を超えていた。

 「男」は、供述調書の類を一切作らせず、また署名指印を拒否したので、その調べは徹底的に苛烈を極めた

 秋田の事件では、任意での取調べがほとんど24時間続いていたことは、以前書いたとおりだ

 私自身も理不尽な調べを受けた し、その「脅しに屈したこと」については、今でも悔しさで煮えくり返る。

 刑事だけでなく検事も脅すから自白誘導にわかっていながら乗らなければならない。

 そうして、そうやって有形無形に脅されて、任意ではなくほとんど強制をもとに作られた供述調書には、これまた圧力により「認める」という意味の署名指印をさせられ、法廷に提出されて晴れて「証拠」となるのである。

 提出されたあとに内容について法廷で否定しても、「じゃあなんで署名指印したんだ!」と、検事に怒鳴り飛ばされるのがオチだ。

 

 「有罪率99.9%という日本の現状は、世界の常識から見てとんでもなく異常」と周防監督は言う。

 警察や検察の描いた絵に沿って自白させ、後付けで証拠を出す(=現行の刑事訴訟法では、検察側は集めた証拠をすべて提出する義務はない。よって不利な証拠は意図的に排除することができる)方法も一因だし、国連から何度も改善を勧告されている代用監獄の存在や、不透明な取調べ方法など、いろいろな要因が絡み合って、いまの前時代的な刑事裁判が存在しているのである。

 

 「本当にやっていないことまで「認めろ」と迫られ」と書いたが、なぜそういうことになるのかというと、共犯者の自白との整合性からである。
 ある犯罪者Aに共犯者Bがいて、その共犯者Bが先に捕まった場合、「○○の件はAに指示されてやった」、「××の件はAが1人でやったことだ」と「自白」して、それが証拠採用されて確定判決となった場合、捜査機関にとって何が真実であるかはもはや関係がない。
 Bの自白を取った自分たちの捜査との「整合性」だけが問題になるのであって、真実は無視され、Bの供述通りにAの自白を「導く」ことになる。
 だから「本当にやっていないことまで「認めろ」と迫られ」ということになるのだが、こんなことは日本中で、実は日常茶飯事のように行なわれているのだ。

 

 最初に戻るが、これが日本の刑事司法が「自白証拠へ偏重」していることの副次的な弊害である。

 自白調書が安易に証拠として採用されるがゆえ、立証するために「否認すれば、何十日も勾留される人質司法となり、たとえ真実ではない証拠でも立証されさえすればそれが「作られた真実となるがゆえに、「99%という異常な有罪率」を生み出しているのだともいえる。

 もしかしたら裁判員制度は、この部分に光を当てうる可能性があるかもしれない。不自然なことを不自然だと思う「市民の目」を、否応なしに捜査側も裁判所側も意識せざるを得なくなるからである。

SmaSTASION ! ! を見ていたら、池上彰氏が「それでもボクはやってない」について、「もし自分が勾留された場合にこういう精神状態になるということは、知っておく必要があると思う」と言っていたのが、わが意を得たりという感じだった。

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2007年01月21日(日)

そのまんま東が知事当確

テーマ:日々思うこと

 そのまんま東が宮崎県知事に当確だそうだ

 思わずエーッ! と驚いてしまった。

 

 少し前に、経団連の奥田碩会長が「地方では談合もやむを得ない」という発言をして、物議をかもした。

 それは思っても、絶対に口にしてはいけないことであった。談合は犯罪行為だからである。

 談合は、価格競争原理を働かなくさせる。新規参入も拒まれ公正な競争ができなくなるし、その結果不当に高い価格で公共工事等が落札されることになり、それはわれわれの納めた税金が無駄に出費されるということだ。

 

 だから談合は法律で罰せられる犯罪なのだが、そのまんま東も選挙戦の滑り出しに、「談合も理解できる」という意味の発言をして、直後に陳謝した。

 そんな発言は少し考えればしなくてもいい失点だったのになーと、歯がゆい思いをしたものだ。

 しかし結果は当選であった。

 

 そのまんま東は、何にどう目覚めたのかは知らないが、早稲田の二文や政経(中退)、専修の経済に入ったりもしている。

 政治家経験がないということは、一面において「実際の政治を知らない」とも言えるが、今回の宮崎県の場合はそれはプラスにはたらくのではないだろうか。

 プラスにはたらくとは、「原理原則に忠実である」ということだ。原理原則に忠実であれば、応用はききづらいだろうが、少なくとも大きく道を踏み外すことはないであろう。

 

 ひとつ気になったのは、当確を打たれた直後のテレビ中継で「宮崎プリフェクチャー」と言ったことだ。

 プリフェクチャーとは、そのまんま「県」のことであるが、なぜ宮崎県ではいけなかったのだろう。

 周囲を見ても、「日本人のファイナンスが…」とか「ファンダメンタルズが…」とか突拍子もなく横文字を並べて相手を煙に巻こうとする人は、主に知識や教養面でコンプレックスを抱いていることが多いような気がする。

 だから、それが気になるといえば気になる点だ。

 自公相乗り候補を破ったのだから、議会運営では今後激しい反発を受けることも予想される。

 

 宮崎フェニックス・シーガイア・リゾート は、三セクで膨大な赤字を出したあと、今は外資の手に渡ったが、建設当初は「近くに海があるのになんで温水プール?」と思ったものだ。

 だいたいアクセスが悪すぎた。今は九州新幹線があるが、当時は特急にちりんあたりで時間をかけて行くしかなかった。

 物価の安い地方都市で、不釣合いな料金を支払うことの違和感。それがバブルだったと言ってしまえばそれまでだが、同じカネを遣うならソウルあたりで焼肉食ってこようと、人々は今なら思うだろう。

 そういう理屈に合わないことを強行したのが、土建屋優遇の保守政治だったが、そのまんま東はそういう土壌そのものを変えていきうる可能性を秘めている。


 そのまんま東といえば、フライデー襲撃事件や未成年者との淫行事件、後輩芸人への暴行事件などで、何度か警察の世話になっている人である。

 ぜひとも多くの前科者の再チャレンジというか、人生の更生やリカバリーの代表として、頑張ってほしいとも思っている。

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2007年01月20日(土)

TVは平気でウソをつく

テーマ:日々思うこと

 私の地元でも、納豆が品薄を起こしている。「発掘!あるある大辞典Ⅱ」のせいである。

 通常1個88円程度で売られていたものが、166円と2倍の値段で売られている。

 いつも半額セールのものが定価で売られているだけだと思うが、群集心理というのは恐ろしい。

 少し前は、寒天でもそんなことがあった。

 

 しかしここへきて、事態が変わった。

 なんと番組に誇張があったというのだ

 

 記事では「誇張」としているが、実際には虚偽であり、ウソだ。

 しかも、「納豆を取ると若返りホルモンであるDHEAが増加する」と放送していたのに、そのDHEAを測定していなかったというのだから、もう捏造というよりほかない。

 

 話を蒸し返すようだが、到底このようなテレビ局の作る番組は信用できないと思う

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2007年01月15日(月)

言葉遣いが悪いな(6)

テーマ:日々思うこと

 「男」が、「こういう所へ来る人間の言うことの、ほとんどはハッタリだ」と言っていた。

 「車を5台持ってる、という人間が軽自動車1台だったり、パトカー7台が家を包囲していた、という人間が実は万引きで警察に突き出されただけだったりする」、「ハッタリで、自分を大きく見せようとするわけだ」ということだった。

 そういえば私自身もそんな話を聞かされたことがあった

 ネットでも、不良少年の語る武勇伝はほとんどが「ハッタリかデタラメ」であるという意味のことを書いている人もいる

 

 もし「ハッタリ」が、ヤンキーを始めとした人たちの習性というか、行動パターンだったとしたらどうだろう。

 義家氏の「子どものころは神童と呼ばれていた」だとか、「司法試験を目指していた」だとか、「家に帰ってからはずっと猛勉強していた」だとかいう大仰なエピソードの数々や、「4年次に教師を目指した」とかそういう不整合な一連の言動のすべては、単なるハッタリに過ぎない可能性もある。

 

 それどころか、「ヤンキー先生」としての「いじめ」に関する発言や行動の数々が、社会を相手にした壮大な「ハッタリ」の一環だとしたら?

 それは非常に恐ろしい想像だが、もしそうだった場合には、「ヤンキーはハッタリをかますもの」だから、「ヤンキー先生がハッタリをかますこと」は、すでに「織り込み済み」ということになるのだろうか。

 そのようなことが許されるわけはない。

 

 私はじつは義家氏の著作を1冊も読んだことがないし、ドラマも観ていないし、ラジオを聴いたこともない。

 それはたしかに知識不足ということも言えるが、反面においては、余計な先入観を抱かなかったということも言える。

 私はただ「SMAP×SMAP」を見ているときに感じた、「言葉遣いが悪いな」という違和感だけをもとに、推論を積み上げる方法で「ヤンキー先生」をできるだけ丁寧に考察してきたつもりだ。

 その結果、現段階で私が「教育再生会議担当室長」義家弘介氏に下した結論は、「信用できない」である。

 

 前述の通り、私は特に義家氏のファンではないものの、だからといって特に悪意に満ちた私情を持っているわけでもない。

 しかも私自身有罪判決を受けている「はみだし者」の身であるから、どちらかといえば「ヤンキー」の心情も理解できるほうだと思う。

 しかしそうした私のような立場でもそのような結論になるのだから、義家氏を信用できないと思っている「中間層」は多いのではないだろうか。

 

 今後私たちは公人であるヤンキー先生の、その行動や言動の整合性や正当性が信用に値するものであるかどうかを、十分に検討および観察していく必要があると思う。

 その一方で義家氏自身も、経歴を始めとする自分自身の事柄に関して、何よりも正確さに留意して情報公開を積極的に行なっていくべきだ。それが少なくとも、いじめられる子どもたちの側に立とうとする「先生」と呼ばれる人間のつとめだ。

 自分の発言の信用性を増加させることは、自分の教育やいじめ問題に関する言葉の重みを増加させることと同じだからだ。

 本当はこんなことはわざわざ言うまでもないぐらいの、馬鹿馬鹿しいほどに当たり前のことだ。ごく普通に、等身大に生きていれば、わざわざ弁明する必要もないことだからである。

 

 このような批判が起こることに関して、義家氏は「俺に対するいじめだ」と言うだろうか。(了)

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2007年01月14日(日)

言葉遣いが悪いな(5)

テーマ:日々思うこと

 13日夜放送のテレビ朝日系「Sma STASION!!」にも義家氏が出演していたが、2つ、どうしても解せない不可解なことがある。

 

 ひとつは義家氏が教師を志した理由についてだ。

 番組では「弁護士になって社会に挑戦状を叩きつけてやるつもりで、明治学院大学法学部に入学した」、「しかし4年次にバイクで事故に遭い死にかけた」、「そのときに高校時代のかつての恩師が、あなたは私の夢だから死なないでと一晩中手を取り泣いていた」、「そのときに『自分は彼女が歩いてきた教育という名の道の続きを歩きたい』と思って、教師になった」ということだったが、少し待ってほしい。

 以前書いたとおり 、教員になるには1年生の時点で教職課程を選択する必要がある。4年になって教師になろうと思っても、単位的には間に合わないのだ(他大学に入り直すとか学士入学という方法もあるが、そういう話は出ていなかった)。

 「学歴詐称というわけではないんだから別にいいじゃないか」というのは、あくまで大人の理屈だ。子どもに対しては、ウソにほかならない。

 「教員免許はあって困るものではないし、タダだから取っておいた」というのなら、そういう人はいっぱいいるのだし、それはそれで一向にかまわないと思う。その後に衝撃的な出来事があってそれで本当に教師になったというのなら、それもそれで、1人の人間の精神の歴史のうえでは、真実だ。誰に責められるものでもない。

 なのに、なぜそういうウソをつくのか。 


 そしてもう1つは香取慎吾の発言だが、冒頭の香取の発言を忠実に書き起こすと、以下のようになる。

 「さて、今週の月曜日に放送されたSMAP×SMAP特別編で草なぎ剛が、いじめ問題を取り上げていました」

 「その放送を見て、えー前々から僕も気になっていたんですが、えーいろいろと考えさせられました」

 「そこで今夜のSma STASION!!では、えーその番組で草なぎ剛が熱く語り合っていたヤンキー先生こと、義家先生をお招きして、いじめ問題、そして義家先生とはどんな人なのか、いじめ問題とはどんな問題なのか、そのあたりをじっくり取り上げたいと思います」

 

 ようするに香取は、月曜の放送を見て土曜の番組で取り上げたと言っているわけだ。

 テレビ番組の制作とは、同じ週内で思いつきのように作れるほど、簡単なものなのだろうか。

 なぜ、そのようなウソをつくのだろう?

 せいぜい見ている子どもたちには、「大人はウソつき」と思われるのがオチではないか。

 

 フジテレビとニッポン放送の間には密接な利害関係があるが、フジテレビとテレビ朝日は競争関係にある。

 熾烈な競争関係にあるテレビ局間で、互いの番組を取り上げあうことは、いくら同じアイドルグループのメンバーだからという理屈では説明できない。

 

 両番組のVTRには、いじめ被害の当事者である本人以外に、その子たちの「親」が多く登場していた。

 小中高生は有権者ではないが、その親は選挙権を持つ。

 このことは、いったい何を意味しているのだろう?

 

 万が一にもこの想像は当たってほしくないが、もしかして、いじめを食い物にしているものの本当の正体とは…。

 7月に参議院選挙がある。

 もしこの参院選に、義家弘介氏がある政党から立候補したら、フジテレビとニッポン放送とテレビ朝日に、選挙に有利な番組を作らせたものの正体」、そのとき明らかになる。

 その出所を隠すために、香取慎吾は上記のウソをつかなければならなかったが、なにぶん「なぜかSMAPがいじめ問題を取り上げる」という設定に無理があったために、あのような不自然さになったのではないだろうか。

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2007年01月13日(土)

言葉遣いが悪いな(4)

テーマ:日々思うこと

 ヤンキー先生は、義家弘介氏の言わずと知れた代名詞だが、そもそも「ヤンキー」と「先生」は、両立し得ない概念なのではないか。

 ヤンキーの定義は知らないが、一般的には「不良」「暴走族」「チーマー」といったイメージで使われていると思われる。

 その本質は、強い反社会性と暴力性、非常識や反発などにある(内部では礼儀と掟に厳しいらしいが、それは内部の秩序を保ち結束を強めるための手段であって、外部に対する社会性とはまったくの別物である)。

 対して先生とは、短絡的に暴力に訴えることのない社会性を身につけさせたり、常識を教え、指導に従わせる存在だ。

 このように相反する対立概念が、同一人の中に共存していることがそもそもおかしい。

 だから「ヤンキー先生」とは、究極のパラドックスであり、自己矛盾の極致なのである。

 義家氏自身も、教師となる時点でヤンキー先生などというラベリングは、断固として拒まなければならなかったし、現在も自分の代名詞とされることは、拒むべきなのだ。進んで使うとなれば、もう論外である。

 この自己矛盾を解決する方法は、1つしかない。

 それは、「元ヤン先生」と改称することである。


 録画を見ていて思ったが、義家氏の論理そのものは別におかしくないし、むしろ正当なものだ。

 私が深くうなずいたのは、「問題があることといじめることとは分けて考えろよ」という部分である。

 まさにその通りで、「問題がある」ことと「いじめる」ことは、絶対に直結しない。

 ではなぜ現実では両者がすぐ結びついてしまうのかというと、それが「異質なものを排除しようとする」、人間の本能的な感覚に根ざしているからだ。

 ならば、「異質なものを排除しようとしない」教育を行なうことで、社会を「いじめの起こりにくい環境」に変えていくことができるのではないか。

 

 青木雄二氏は、「異質な者を排除することが教育だと思い込んでいる大人が多過ぎます」と述べている(「ナニワ金融途」第4巻前書き)。

 青木氏はすでに異質なものを排除することを助長する教育が行なわれてきたことを看破していたが、それこそが「いじめ」の起こりやすい環境の温床となってきたのではないか。

 「いじめなんていうのは昔からあった」という発言を聞くことがある。

 だとすればそれは、旧来の教育が間違っていたということだ。

 

 「教育再生会議」の再生とは、「かつては正しい教育が行なわれていたことを前提にそれを再生する」という意味だ。

 だから官僚は、当然に旧来の枠組みを維持しようとするのだ。

 しかし、それでは「いじめの起こりやすい環境」をも維持し続けることになり、状況は絶対に変わらない。

 本当に必要なことはかつての教育が正しかったことを前提とする再生ではなく、今までにはなかった、異質なものを排除しようとしない新しい教育の「創造」である。

 その意味で義家氏の所属する会議の名称は、「新教育創造会議」とすべきなのだ。

 そのことによって、これから進もうとする教育の将来像が明確に示されることになるのではないだろうか。

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2007年01月13日(土)

言葉遣いが悪いな(3)

テーマ:日々思うこと

 コマーシャリズムと教育問題とは、相容れるものなのだろうか。

 言い方を換えれば、教育再生会議の委員は自分が深く関与する媒体を、教育問題のために無制限に使うのかということだ。

 

 もしそうであるなら、浅利慶太はキャッツの幕間に教育に関する演説を打ち上げ、渡邉美樹は和民のメニューに教育論を書き連ねるだろう。

 だから義家弘介が「SMAP×SMAP」に出演したことには、特段の理由がない。

 

 だいいちフジテレビは、なぜ「いまいじめている君へ」が、「SMAP×SMAP」の特別編だったのかという理由について、何もアナウンスをしていない。

 なぜパーソナリティが中居や香取ではなく、草なぎだったのか?

 なぜ「はねるのトびら」や「こたえてちょーだい!」や「報道2001」の特別編ではいけなかったのか?

 こうした問いに対する答えが、この番組がコマーシャリズム以外の何者でもなかったということの証左になるだろう。

 ひとつ明確に言えることは、フジテレビは「いじめ」を食い物にしたということであって、その罪責は万死に値するということだ。

 さきに私は、「義家氏の人生は一人相撲に近い」と書いたが、それは氏の経験が結局のところ個人的な物語に帰結するからだ。だから「ヤンキー母校に帰る」というのは、実際のところただのニュースであって、それ以上でもそれ以下でもない。

 そのことを踏まえて、われわれが心に留めておかなければならないことは、われわれは義家弘介氏に過剰な期待をしすぎてはいないだろうかということである。

 氏の特異な経験とその経験則に基づく教育論は、もちろん一定の評価に値するものだ。熱く激しい人生経験と、そこからほとばしる教育への巨大な熱情は、多くの人を惹き付けもする。

 しかし「義家氏は日本の教育の何かを変えてくれるのではないか」とか「義家氏は現在の教育の何かを変えうるのではないか」とか、われわれはそういう畑違いの期待を義家氏にしてはいけないのである。

 それは氏の存在が、あくまで「ヤンキー母校に帰る」という個人的な物語に依拠しているからなのであって、そうした限定的な物事からは、普遍的な教育論を導き出すことはできないからである。

 ところで、ガガガSP の「尾崎豊」という曲には、「盗んだバイクで走る前に割ったガラスを弁償しろよ」という歌詞がある。

 義家氏は、教育について語る前に、殴った相手に謝ったのだろうか?

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2007年01月12日(金)

言葉遣いが悪いな(2)

テーマ:日々思うこと

 だいいち、「ヤンキー先生」の何がどうすごいのかが、私にはよく分からない。

 自分から進んでヤンキーになって(そうしないという選択もあったのに)、そこから立ち直って教師になったからといって、何か特別なことがあるのだろうか。

 義家氏は公式ホームページ で、「教育が自分を救ってくれた」と言う。

 しかしヤンキーになったことも、その後恩師と教育とに出会ったことも、自らが母校で教師となったことも、結局は「一人相撲」の感が否めない。もし「ヤンキー先生」というだけで社会に対して何らかの訴求力を持つなら、それはヤンキーにならなかった人たちに失礼というものだ。

 

 犯罪者の更生が期待されることはもちろんだが、だからといって更生した犯罪者がけっして褒められたことではないのと同じことだ。

 犯罪は犯さないのが当たり前だからだ。

 

 熱意は伝わってくるものの、ヤンキー調で子どもを居丈高に怒鳴りつけることには賛成できない。

 人は誰かから一方的に怒鳴りつけられれば、まず反感が湧くのではないだろうか(ヤンキーはそうではないのだろうか?)。

 また誰かを一方的に恫喝するという行為には、相手の言い分を聞き、自分の考えを伝え、話し合って理解しあうというプロセスが欠落している。

 ほんらい怒鳴るという行為は、時として話し合いの過程やその後に出てくるものであって、コミュニケーションの最初にあるものではないはずだ。

 

 番組では激するヤンキー先生を、草なぎ剛が即座に止め、さらに子どもたちをかばった。

 このことからは、制作者の意図が透けて見える。

 大人が子どもを、しかも先生が生徒を怒鳴りつけるという構図は、叱られる子どもを一方的に完全な悪として位置づける。ましてやそれが電波に乗り放送されて、そのために番組で悪とされた子どもが「いじめられる」ことにでもなれば、大問題だ。

 だから制作者は、草なぎにヤンキー先生を「止めさせて」、また子どもたちを「かばわせた」のであり、ヤンキー先生を必要以上に「怒らせなかった」のである。「必要以上に」とは、番組で欲しいおいしい絵以上には、ということである。

 ヤンキー先生というカリスマは、SMAPというカリスマに制止されると、特に反論することもなくすぐに黙った。草なぎの言い分に納得して黙ったのではなく、「番組的に」黙ったのである。

 こんな子どもだましの茶番が、どこの子どもの心に届くだろうか。いや、子どもだからこそだまされないのではないか。

 

 ヤンキー先生は、ニッポン放送で番組を持っている

 ライブドア事件で有名になったように、ニッポン放送はフジテレビの子会社である。

 「SMAP×SMAP」と「ヤンキー先生!義家弘介の夢は逃げていかない」は、相互の視聴率と聴取率にシナジー(相乗効果)をもたらしたことだろう。結果としてヤンキー先生は、両番組の広告塔の役割を果たした。

 かつて神童と呼ばれたクレバーな「ヤンキー先生」は、自分に期待される役割をよく理解していた。

 その役割とは、「ヤンキーらしく振舞う」ということだ。

 そのヤンキーらしさが、あの怒りの「パフォーマンス」であった。

 

 教育再生会議が今後どのような道筋をたどるのかは分からないが、「官僚主導だったから仕方がなかった」という言い訳だけは聞きたくない。

 義家弘介氏がヤンキー先生という、単なるパフォーマーで終わらないことを、切に願う。

 

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2007年01月11日(木)

言葉遣いが悪いな

テーマ:日々思うこと

 ヤンキー先生と呼ばれている義家弘介(ひろゆき)氏 が、「SMAP×SMAP」の特番、「いまいじめている君へ」に出演していた。

 観覧者には、134人の小中学生が同席していた。

 

 彼らから「いじめられる方にも問題があると思う」という意見が続いた後のことだ。

 義家氏は激昂した。

 

 「俺はお前らのこと、絶対に許さねえぞ!」

 「そういう考え方は、絶対に許さねえからな!」

 

 集団が個人の心を踏みにじることはどういう理由があっても絶対に許されないという主張で、それ自身は正しいものだが、言葉遣いが悪い。

 元ヤンキーが母校へ帰って、北星余市高校で荒れた生徒と対峙するという場面でなら、そういう言葉遣いも許されるのかもしれないし、「生徒と同じ目線」という視点なら、時と場合によっては、むしろ好ましいのかもしれない。

 しかし義家氏は、かりにも教育再生会議担当室長という公人である。いくら肩書きがヤンキー先生であろうが、性根がヤンキーであろうが、この期に及んでは、そうした言葉遣いはどのようなシチュエーションであろうが、固く封印するべきだ。

 

 声が大きい人間が常に勝つのなら、それは弱者軽視につながる。

 乱暴な言葉で恫喝するのが身上なら、それでは暴力団である。

 

 教育再生会議担当室長であるヤンキー先生に対して、国民はヤンキーの部分を求めているわけではない。

 ヤンキー時代も含めて心の経験が豊富な先生ということであって、あくまで、先生の部分を求めているのである。


kamechichi

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