66年前、昭和22(1947)1013日、11宮家51名の皇籍離脱が決定

写真は旧皇族/47Newsより、男系維持の為に皇籍復帰は必要か?

http://www.47news.jp/news/photonews/2010/10/post_20101013080102.php

 

19471013日、新憲法のもとで開かれた皇室会議で、14宮家のうち11宮家51名の皇籍離脱が決定した。皇室に残されたのは昭和天皇家と弟の秩父、高松、三笠の3宮家だけ。連合国軍総司令部(GHQ)の意向だった。宮家を離れた人々は18日、東京・赤坂離宮でのお別れ夕食会に出席した。

 

以下は11宮家

伏見家(世襲親王家の一つ。現当主は伏見博明。)

閑院家(世襲親王家の一つ。皇籍離脱時の当主、春仁王の死去により1988年(昭和63年)断絶。ただし師仁親王の子孫は現天皇家。)

久邇家(現当主は久邇邦昭。香淳皇后の実家)

山階家(皇籍離脱時の当主:武彦王の死去により1987年(昭和62年)断絶)

北白川家(現当主は北白川道久。)

梨本家(皇籍離脱時の当主:守正王の死後、未亡人の伊都子が甥の徳彦を養子とした。実子系統では断絶)

賀陽家(皇籍離脱時の当主:恒憲王の死後、長男:邦寿が1986年(昭和61年)に死去し断絶。ただし三男:章憲には男子の子孫[2]がある)

東伏見家(皇籍離脱時に周子のみ。彼女の死去により1955年(昭和30年)断絶。なお、久邇宮邦彦王の第三王子、東伏見慈洽が同家の祭祀を継承している)

朝香家(現当主は朝香誠彦)

竹田家(現当主は竹田恒正)

東久邇家(現当主は東久邇信彦)

 

女系天皇推進者の真の狙いは何か?

 

 

■唸声一言/韓国朴大統領の大風呂敷と増税?

朴大統領は以下のような公約を掲げていた。

65歳以上の老人に月額老齢基礎年金を20万ウォン≒18000円を支給

・ガンなど四大疾病への医療費負担

5歳児までの医療費無償化

・大学生学費半額無償化

 

但し、我が国の民主党のように財源も考えずにバラマキをすれば、すぐに国庫がカラになってしまう。そこで、大幅増税が必要なのだが、当然ながら反対にあい、増税案も大幅修正と初めから躓いている。

 

出来もしない公約で人気が落ちるのを防ぐためなのか?大統領就任当初から反日で人気を支えていた。ところが、反日をやり過ぎて、日本人観光客ががた減りし、観光収入が減り、日本からの投資マネーも減っている。現実的に反日は韓国経済に何のプラスももたらしていない。

 

但し、あれだけ、日本を嫌っていては、おいそれと気位の高い民族意識が謝罪をさせようとしている日本に謝罪する訳がない。つまり、最悪のシナリオを韓国は迎えようとしている。多くの日本人が瀕死の韓国を助けたいと思うかもしれないが、また元気になると反日を繰り返すのでは、いくら仏様のような日本人でも立ち止まってしまう。

 

今こそ、歴史を直視しなければならないのは韓国である。これはヘイトでも何でもない。靖国神社を放火するような不埒なバカモノがいたとしても、わが国はいつでも対話窓口は開けているのだから。ちなみに、日本人が安重根記念館を放火しようとして、シンナーを2リットル撒いたとしたら・・・。

 

 

■今週の映像/シカゴの夜景



■誕生日の音楽映像/イヴ・モンタン

イタリア出身、フランスの俳優・シャンソン歌手、1921/10/131991/11/9

 
写真はイヴ・モンタンとマリリン・モンロー/
Martineさんのブログより、この写真は1960年なのでモンローは既にアゴの整形手術後である。成形はアゴだけか???

http://oldfashionedplease.blogspot.jp/2012/12/marilyn-monroe-yves-montand.html

 

音楽はYves Montand - Les Feuilles Mortes 1951

http://youtu.be/JWfsp8kwJto

映画"Parigi è sempre Parigi”=パリはいつだってパリから

 

イヴ・モンタンは農民の子としてモンスンマーノ・テルメで誕生。母は敬虔なカトリック教徒であったが、父が強固な共産主義支持者であったため、当時台頭してきたムッソリーニのファシスト政権を嫌い、1923年に家族でフランスに移住した。マルセイユで育ち、港で働いたり、姉の経営する美容室で働くなどしていたが、次第にミュージック・ホールで歌うようになる。1944年にエディット・ピアフに見出され、彼女はモンタンにとって助言者また愛人となり、2人の関係は数年の間続いた。

 

1945年に映画デビュー。1946年に出演した『夜の門』で、主題歌の「枯葉」を歌ってヒットさせた。

 

1951年に女優のシモーヌ・シニョレと結婚。2人はいくつかの作品で共演している。夫婦でフランス共産党の活動に参加していた。1957年には妻シニョレ同伴で東側諸国全てでコンサート・ツアーを行った。

 

1961年に米国映画『青い目の蝶々さん』撮影の為に来日している。111日にパンナム機で羽田に到着したのち鎌倉、奈良、京都、などに約2ヶ月間にわたって滞在した。

 

モンタンの浮気がスキャンダルになったことが何度もあったが、マリリン・モンロー(『恋をしましょう』(1960年)で共演)の時は、シニョレが自殺未遂を起こしている。しかし、1985年に彼女が亡くなるまで一緒だった。モンタンはその後1987年、彼のアシスタントだった38歳年下のキャロル・アミエルと結婚、1988年に唯一の実子ヴァランタンをもうけた。

 

1991 119日、『IP5/愛を探す旅人たち』の撮影直後、心臓発作で倒れ、死去。―ウィキより―