見せびらかすことなく善を行うことには大きな価値があります。与える手を隠すことはさらに価値のあることです。それは確実な道徳的優位性の証ですが、と言うのも、世間の人々がそうするよりも、より高いところから来る物に対して目を向けるということは、今生から自分を切り離し、来生に身をおくことが必要となります。一言で言うならば、人類の上に身を置き、人間の証言によって得られる満足を棄て、神に認められるのを待つことです。神にではなく、人々に認められることを好む者は、神にではなく、これらのことの方を信じているということであり、未来における生活によりも、現世により価値を置いているということになります。もしそうでないと言うのであれば、自分の言っていることを信じていないことになります。与えた物を受け取った者が、その恩恵を声を大にして言い振らしてくれることが期待できなければ人に与えない人がどれだけいることでしょうか。公の場では多くを与えながらも、隠れた場所では、小銭一枚さえも与えない人がどれだけいるでしょうか。だからこそ、イエスは言ったのです。「人に見せびらかすように善を行った者は、すでにその償いを受けているのです。」誠に、善行によって自分自身の栄光を地上に求める者は、既に自分に対してその支払いを行っているのです。神にはその者に対しもはや何も負うものがありません。その者には唯一その自尊心への罰が残されているのです。右手が行うことを左手に知られてはなりません、と言う言葉は謙虚な善行の特徴を見事に示しています。しかし、真の謙虚さが存在するとすれば、偽りの謙虚さ、見せかけの謙虚さも存在します。与える手を隠しながらも、そのほんの一端だけが見えるようにしておき、周りを見回し、それを隠すのを誰かが見てくれているかどうか気にかける人がいます。これは恥べきキリストの金言のものまねです。自尊心の強い善行者が人間の間でさえもその価値を下げられてしまうのであれば、神の前でもそうではないでしょうか。これらの人々も地上に置いて既にその償いを受けているのです。人々に見られることにより、彼等は満足しているのです。彼等が受け取ることができるのはそれが全てなのです。では、善行の恩恵を受ける者にその重さを受益者に負わせ、恩恵を受けていることを認識していることの証を示すことを強要し、その置かれた立場を意識させ、恩恵を与えるためにどれだけの犠牲が図られているのか、その値段の高さを自慢する人々は、どのような償いを受けることができるでしょうか。おお、こうした者からは、その自尊心に対する最初の罰として、その者の名を人々に祝福され口にしてもらう機会さえも奪われ、地上における償いを受けることはできません。虚栄心のために乾かされた涙は、天に昇っていくのではなく、苦しむ者の心に再び落ち、その心を痛めることになります。そうして行われた善からもたらされる益はなにもなく、そのことをその者は嘆くことになりますが、嘆き悲しまれた恩恵とは偽りの価値のない貨幣でしかありません。見せびらかすことなく行われた善行には二重の価値があります。受益者の敏感さを守るのであれば、受益者は人間としての威厳を保ち、その自己愛が不快を感じることなく受益者は恩恵を受けることができ、そうであるならば、その善行は、物質的な慈善であるばかりでなく、道徳的な慈善でもあります。と言うのも、ある仕事による営利を受け取ることと、施し物を受け取るのは大いに違っているからです。一方、仕事を施し物の形に変えることは、その方法によっては、恩恵を受ける者を侮辱することであり、他人を侮辱するとき、そこには常に自尊心と悪意が存在します。真なる慈善とはそれとは反対に、善行を隠したり、気を悪くさせる可能性のある最も小さなことさえも防ぐ上で細やかに気を使い、工夫を凝らさなければなりません。なぜなら、どんな小さな道徳的な不和でさえも必要性からくる問題を大きくすることになるからです。自尊心の強い者の慈善は受益者を圧迫しますが、真なる慈善は温和で優しい言葉を見つけ、それによって受益者を善行を働く者の前に気楽にさせます。本当の寛大さは崇高で、善行者はその立場を反対にし、善を働く相手の前に自分が受益者であるのだと感じる方法を知っています。これが、「右手が行うことを左手に知られてはなりません」ということの意味なのです。

スピリティズムによる福音」第13章、3より抜粋
現在見れなくなっています。必要な方はPDFを送りますので、テーマ「お問い合わせ先」にあるアドレスまでメッセージを送りください(^-^)

今日のレッスン

長いですが、とても読み応えのある章です。
感想は、ごもっとも!と何度読んでも思います。
日頃の行いは神様がちゃんと見てくれています。
確かに頑張ったりしていると誰かに労ってもらいたい、知ってほしいと思うことがあるけれど、
そういう時は神様や守護霊に話しかけてみるのもいいかもしれません。
"私、頑張ったよね。良い事したよね。"
これがいいかどうかわかりませんが、でも人に自分の行いを伝える(自慢する)より、心の中で処理し続ける事で虚栄心を我慢する練習になりますよね。
まだまだ私も未熟者です。
AD
もしあなたが祭壇の前で供え物を捧げようとした時、そこで自分の兄弟があなたに対して反感を抱いていることを思い出したのであれば、あなたの供え物を祭壇の前に置き、まずあなたの兄弟と仲直りをしに行き、その後で供え物を捧げに来なさい。(マタイ、第五章:二十三―二十四) 

「まずあなたの兄弟と仲直りをしに行き、その後で供え物を捧げに来なさい。」と言うことにより、イエスは神にとって最も喜ばれる犠牲とは一人一人の悪い感情であるということを教えたのです。神に赦しを求める前に他人を赦すことが必要であり、兄弟に対し何だかの悪を働いているのであれば、それを改めることが必要なのです。そうすることによってのみ供え物は喜ばれることになります。なぜなら、その供え物はいかなる悪い考えにも汚されていない純粋な心から送られたことになるからです。ユダヤ人には物質的な供え物を捧げる習慣があり、イエスは人々の習慣に自分の言葉を一致させる必要があったため、この教訓を具現化したのです。キリスト教徒は供え物を精神化するため、物質的な供え物を捧げたりはしませんが、キリスト教徒に対しこの教訓が何の力も持たないわけではありません。魂を神に捧げるときには、清らかな形で捧げなければならないのです。神の宮に入るなら、あらゆる憎しみや反感、兄弟に対する悪い考えをも宮の外にやらなければなりません。そうすることによってのみその者の祈りは永遠の神の足元に届くことができるのです。もし神に喜ばれたいのであれば、「祭壇の前に置き、まずあなたの兄弟と仲直りをしに行きなさい。」と言う言葉をイエスは教えてくれるのです。

スピリティズムによる福音」第10章、7〜8より抜粋
現在見れなくなっています。必要な方はPDFを送りますので、テーマ「お問い合わせ先」にあるアドレスまでメッセージを送りください(^-^)


今日のレッスン

神様が私達に望むことは互いを許し合い愛し合うこと。
だとしたら誰かを恨んだり怒っていたり妬んでいる状態で祈ろうとする私達の心って
「あの人より先に。あの人より有利に。あの人より私を。」という感情が、言葉や態度に実際に出していなくても伝わってしまいます。
祈る瞬間だけを見られている訳ではありません。
和解する事は難しいことですが、難しいからこそ良い課題とも思えます。
AD
素朴さや慎ましさと心の清さは切り放すことはできません。いかなる利己的な考えや自尊心をも取り除かねばなりません。だからイエスは慎ましさと同じように、心の清さの象徴として、子供を例として取り上げるのです。しかし、子供の霊であってもその霊が歳をとっており、肉体を持った生活に生まれ変わった時点で、その前世において脱することのできなかった不完全性を持ち合わせていると考えた場合、心の清さと子供の例えは矛盾するように見えます。完全性を達成した霊だけが本当の心の清さというものを私達に教えてくれることができるのだといえます。それは全く正しい考え方です。しかし、現在の人生の視点から見た場合、子供のうちというのは未だ非道徳的な意図を示すこともできず、私達の目には無邪気で純粋な姿に映ります。そのことからも明らかなように、イエスは天の国が子供達の為にあると言ったのではなく、子供達のように心の清い者のためにあると言ったのです。

スピリティズムによる福音」第8章、3より抜粋
現在見れなくなっています。必要な方はPDFを送りますので、テーマ「お問い合わせ先」にあるアドレスまでメッセージを送りください(^-^)

今日のレッスン

確かに子どもの頃は無邪気でした。
すべてが新しくていつもワクワクして楽しかったです。
でも大人になってからあの頃の純粋さはいつしかなくなり
人の目を気にしたり、羨ましがったり、できる分野では大きい顔をしたりとどっぷり大人になってしまっています。

今、こども達に囲まれた環境にいるのですが、
どんな家庭環境でもどんな境遇の子でもみんなキラキラしています。
ご飯食べる時も幸せそうだし、お友達と喧嘩してもいつのまにかお互い笑いあって遊んでいるし、本当に無邪気です。

自分が大人になってから悩んで生きているのは
まさに文中にある自尊心(プライド)が高いから。
スピリティズムで慎ましさと心の清さが戻りますように。
(もちろん努力します!)
AD

心落ち着かせたい時は…

テーマ:

以前にも紹介しました「手紙」という歌。

スピリティズムから生まれたこの曲は
私を原点に戻してくれます。

日々過ごしていると、スピリティズムを勉強している私でも
心が荒れたりブレることがあるのですが

そういう時はこの曲か、青春真っ只中(15〜20才頃)に好きだった
ササキオサムさんの歌を聴いて自分を取り戻します。

面白いのはオサムさんのロック調の曲でも私は一瞬にして浄化されること。

おっかない霊に影響されて弱っている時も浄霊されてしまうことに気づいた時は衝撃を受けました!

それはきっと青春時代の楽しかった気持ちが蘇るからなのですが、
本当に元気というパワーはスゴイです。

皆さんも、自分が元気になるアイテム、ちゃんとご存知ですか?

パワースポットやヒーリングミュージックなどに頼らなくても、
元気になる元さえを知っていればなんとかなるものです(^-^)


祈り(集会の始まりにおける祈り)私達の集会に全霊が参加し、私達を悪へ導こうとする者たちを遠ざけ、真実と偽りを区別するために必要な光が与えられることを全能なる神にお願い致します。生きている者も、死者も含め、私達の結束を分裂させることによって慈善と隣人への愛から私達を遠ざけようとする邪悪な霊を私達のもとから連れ去って下さい。もしこの場に入り込もうとする者がいるのであれば、私達の心の中に彼等が入り込むすきができないようにして下さい。私達を指導して下さる善霊よ、私達があなた達にとって教えやすい生徒となれますように。どんな利己的な考えも、高慢な考えも、また羨み、妬み深い考えも私達のもとから遠ざけて下さい。ここに集まる者達、不在の者達、友達、敵に対しても、寛大さ、慈悲深さをお教え下さい。私達を励ましてくれる感情によってあなた達の道徳的な影響力を私達が感謝をもって認識することができますように。あなた達の教えを伝える役目を負った霊媒達に、彼等に託された役目の神聖さ、実践しようとする行い重要性を自覚させ、それによって献身的働き、必要な収穫を得ることができますように。もし、私達の間に善とは異なるその他の感情を持った者がいれば、その目を光に向けてあげて下さい。また、悪意を持ってここに参加しているのであれば、その者を赦してあげて下さい。私達もその者を赦します。私達の霊の指導者である、○○○○には、特に私達を監視し、見守ってくれますようお願いいたします。

スピリティズムによる福音」第28章、6より抜粋


今日のレッスン

今日は幼稚園の大仕事を終えました。
卒園児を送り出すセレモニー✨
卒園式の係は思った以上の大変さでまたもブログから遠ざかってしまい、更新ができずにいました。
ですがスピリティズムによる福音を開けない時も変わらず、毎日祈っています。  

祈りは大切ですね。
日々、感じさせられます。