スピリティズムは霊界の存在とその様相および、その物質界との関わりを拒絶しえぬ証明によって人類に示す新しい科学です。スピリティズムの中では霊を超自然のものとして示すのではなく、反対にそれが自然界で絶え間なく働く生きた力の一つとしてとらえ、今日においても理解されないために驚異と空想の賜として軽視されている様々な霊現象の根源としています。キリストはこうした関係について多くの状況に於いて言及しましたが、彼の述べた多くのことは理解されなかったり、誤って解釈されてしまいました。スピリティズムは、その助けによって全てをより容易に解説するための鍵なのです。

スピリティズムによる福音より抜粋

今日のレッスン

いつもここのレッスン欄に何も書けなくて長い間下書き保存された状態が続きます。
編集記事を開いてはうーーんとうなっています。

なぜこうなるかといいますと
私が知るスピリティズム、10年の間に修行した、
体験した、所属している団体の活動内容を
どこまで公表していいのかわからないからです。

ましてや普通の主婦なので表現力も文章力もなく…

でも近々どのように進めて良いのか改めて確認してきますので
皆さん待っていてくださいね。

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祈るということは神や霊の加護を求めることです。祈りによって、私たちは、私たちを指導してくれている者と精神的に関係を結ぶことができます。祈ることの目的には、願い、感謝、または賛美があります。私たち自身の為にも、また、他人の為にも祈ることができます。生きている者の為にも、また、死んだ者の為にも祈ることができます。神への祈りは、神意に基づき行動する善霊達に伝わります。善霊に伝わった祈りは、神にも伝わります。神以外の者に向かって祈るとき、神以外の者は単なる仲介者としての役割を果たします。なぜなら、何事も神の意志なしには生じないからです。

スピリティズムによる福音より抜粋

今日のレッスン

更新が滞り、ごめんなさい。
スピリティズムの勉強が疎かになるほどプライベートが忙しくなりました。
帰宅するとすぐに寝てしまい、翌朝は飛び起きてこどものお弁当作りに悩みと…
でもこんな毎日が本当に有り難くて、寝る前のお祈りだけは欠かしていません。
スピリティズムを知っていて本当に助かる事が多々あります。
知らなかったら精神的におかしくなってたとも思いますし、うつ病、統合失調症など、進行していたに違いません。
私は自分の霊媒性をスピリティズムでコントロールできています。
本が再出版されることを願ってます。



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血液のつながりは必ずしも霊的なつながりを生むわけではありません。肉体は肉体より発しますが、霊は霊から生まれるのではなく、霊は肉体の形成以前に既に存在しているのです。父親が息子の霊を創造するのではありません。父親は息子のための肉体的な被いを用意したにすぎませんが、それによって息子の進歩のための知的、道徳的発展を補助する役割を果たしているのです。一つの家族に生まれてくる者たち、特に近い親族として生まれる者達は多くの場合、過去の人生での関係から結びついている好意的な霊達であり、地上における人生でお互いにその愛情に現わします。しかし、その霊達が前世でのお互いの反感によって引き離された霊達で、お互いに全くなじまない者同士で、地上ではそれをお互いの敵意として現すこともあり、その場合その人生はその霊にとって試練となります。家族の真なる絆とは血液の絆ではなく、観念の共有や共感にによる絆であり、その絆は霊の生まれる以前世まれている間、そして死後にも霊達を結びつけます。違った両親を持った二人が血のつながる兄弟以上に結びつきの強い霊的な兄弟でありえます。それにより彼らはお互いに引かれ、求めあうことになり、一方で、私たちが日々見ることができるように血縁のある兄弟同士が拒絶し合うことがあるのです。そこには道徳的な問題が存在し、それは存在の多元性の理解によってスピリティズムだけが説明することができるのです。(第九章、十三)すなわち、家族には二種類の家族があります。霊的な絆で結ばれた家族と、肉体的な絆で結ばれた家族です。前者の方が継続性があり、霊の浄化によってより絆は強まり、魂の様々な移住を通じて霊界において永続します。後者の絆は物質と同じように時間が経つと消滅し、多くの場合、道徳的には今生中に消えてしまいます。これらのことをイエスは理解しやすくしようと、使徒達に、ここに私の母親と兄弟がいます、つまり、私の霊的絆によって結ばれた家族であると言い、神の意志によって行う者は皆、私の兄弟、姉妹、そして母親なのです、と言ったのです。血縁のある兄弟達がイエスに対して抱いた敵意はマルコの話の中に明確に表されており、イエスを独占しようとして霊を失ったと言ってきた部分に見られます。彼らの到着が知らされると、イエスは彼らのイエスに抱く気持ちを承知していた上で、霊的な視点からそのことを使徒達に述べたのです。「私の真なる兄弟はここにいます。」イエスの母親は兄弟達と共にいましたが、イエスは教えを一般的に述べたのであり、決して肉体による母親が霊的な母親と違って無関心の対象となるべきだということを言ったわけではなく、そうであることは他の様々な場面でイエスは十分に証明しています。


スピリティズムによる福音」第14章、8より抜粋

今日のレッスン

居心地の良い家庭、そうでない家庭、
過去に残した清算を今世でできる有り難さ。

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見せびらかすことなく善を行うことには大きな価値があります。与える手を隠すことはさらに価値のあることです。それは確実な道徳的優位性の証ですが、と言うのも、世間の人々がそうするよりも、より高いところから来る物に対して目を向けるということは、今生から自分を切り離し、来生に身をおくことが必要となります。一言で言うならば、人類の上に身を置き、人間の証言によって得られる満足を棄て、神に認められるのを待つことです。神にではなく、人々に認められることを好む者は、神にではなく、これらのことの方を信じているということであり、未来における生活によりも、現世により価値を置いているということになります。もしそうでないと言うのであれば、自分の言っていることを信じていないことになります。与えた物を受け取った者が、その恩恵を声を大にして言い振らしてくれることが期待できなければ人に与えない人がどれだけいることでしょうか。公の場では多くを与えながらも、隠れた場所では、小銭一枚さえも与えない人がどれだけいるでしょうか。だからこそ、イエスは言ったのです。「人に見せびらかすように善を行った者は、すでにその償いを受けているのです。」誠に、善行によって自分自身の栄光を地上に求める者は、既に自分に対してその支払いを行っているのです。神にはその者に対しもはや何も負うものがありません。その者には唯一その自尊心への罰が残されているのです。右手が行うことを左手に知られてはなりません、と言う言葉は謙虚な善行の特徴を見事に示しています。しかし、真の謙虚さが存在するとすれば、偽りの謙虚さ、見せかけの謙虚さも存在します。与える手を隠しながらも、そのほんの一端だけが見えるようにしておき、周りを見回し、それを隠すのを誰かが見てくれているかどうか気にかける人がいます。これは恥べきキリストの金言のものまねです。自尊心の強い善行者が人間の間でさえもその価値を下げられてしまうのであれば、神の前でもそうではないでしょうか。これらの人々も地上に置いて既にその償いを受けているのです。人々に見られることにより、彼等は満足しているのです。彼等が受け取ることができるのはそれが全てなのです。では、善行の恩恵を受ける者にその重さを受益者に負わせ、恩恵を受けていることを認識していることの証を示すことを強要し、その置かれた立場を意識させ、恩恵を与えるためにどれだけの犠牲が図られているのか、その値段の高さを自慢する人々は、どのような償いを受けることができるでしょうか。おお、こうした者からは、その自尊心に対する最初の罰として、その者の名を人々に祝福され口にしてもらう機会さえも奪われ、地上における償いを受けることはできません。虚栄心のために乾かされた涙は、天に昇っていくのではなく、苦しむ者の心に再び落ち、その心を痛めることになります。そうして行われた善からもたらされる益はなにもなく、そのことをその者は嘆くことになりますが、嘆き悲しまれた恩恵とは偽りの価値のない貨幣でしかありません。見せびらかすことなく行われた善行には二重の価値があります。受益者の敏感さを守るのであれば、受益者は人間としての威厳を保ち、その自己愛が不快を感じることなく受益者は恩恵を受けることができ、そうであるならば、その善行は、物質的な慈善であるばかりでなく、道徳的な慈善でもあります。と言うのも、ある仕事による営利を受け取ることと、施し物を受け取るのは大いに違っているからです。一方、仕事を施し物の形に変えることは、その方法によっては、恩恵を受ける者を侮辱することであり、他人を侮辱するとき、そこには常に自尊心と悪意が存在します。真なる慈善とはそれとは反対に、善行を隠したり、気を悪くさせる可能性のある最も小さなことさえも防ぐ上で細やかに気を使い、工夫を凝らさなければなりません。なぜなら、どんな小さな道徳的な不和でさえも必要性からくる問題を大きくすることになるからです。自尊心の強い者の慈善は受益者を圧迫しますが、真なる慈善は温和で優しい言葉を見つけ、それによって受益者を善行を働く者の前に気楽にさせます。本当の寛大さは崇高で、善行者はその立場を反対にし、善を働く相手の前に自分が受益者であるのだと感じる方法を知っています。これが、「右手が行うことを左手に知られてはなりません」ということの意味なのです。

スピリティズムによる福音」第13章、3より抜粋
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今日のレッスン

長いですが、とても読み応えのある章です。
感想は、ごもっとも!と何度読んでも思います。
日頃の行いは神様がちゃんと見てくれています。
確かに頑張ったりしていると誰かに労ってもらいたい、知ってほしいと思うことがあるけれど、
そういう時は神様や守護霊に話しかけてみるのもいいかもしれません。
"私、頑張ったよね。良い事したよね。"
これがいいかどうかわかりませんが、でも人に自分の行いを伝える(自慢する)より、心の中で処理し続ける事で虚栄心を我慢する練習になりますよね。
まだまだ私も未熟者です。
もしあなたが祭壇の前で供え物を捧げようとした時、そこで自分の兄弟があなたに対して反感を抱いていることを思い出したのであれば、あなたの供え物を祭壇の前に置き、まずあなたの兄弟と仲直りをしに行き、その後で供え物を捧げに来なさい。(マタイ、第五章:二十三―二十四) 

「まずあなたの兄弟と仲直りをしに行き、その後で供え物を捧げに来なさい。」と言うことにより、イエスは神にとって最も喜ばれる犠牲とは一人一人の悪い感情であるということを教えたのです。神に赦しを求める前に他人を赦すことが必要であり、兄弟に対し何だかの悪を働いているのであれば、それを改めることが必要なのです。そうすることによってのみ供え物は喜ばれることになります。なぜなら、その供え物はいかなる悪い考えにも汚されていない純粋な心から送られたことになるからです。ユダヤ人には物質的な供え物を捧げる習慣があり、イエスは人々の習慣に自分の言葉を一致させる必要があったため、この教訓を具現化したのです。キリスト教徒は供え物を精神化するため、物質的な供え物を捧げたりはしませんが、キリスト教徒に対しこの教訓が何の力も持たないわけではありません。魂を神に捧げるときには、清らかな形で捧げなければならないのです。神の宮に入るなら、あらゆる憎しみや反感、兄弟に対する悪い考えをも宮の外にやらなければなりません。そうすることによってのみその者の祈りは永遠の神の足元に届くことができるのです。もし神に喜ばれたいのであれば、「祭壇の前に置き、まずあなたの兄弟と仲直りをしに行きなさい。」と言う言葉をイエスは教えてくれるのです。

スピリティズムによる福音」第10章、7〜8より抜粋
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今日のレッスン

神様が私達に望むことは互いを許し合い愛し合うこと。
だとしたら誰かを恨んだり怒っていたり妬んでいる状態で祈ろうとする私達の心って
「あの人より先に。あの人より有利に。あの人より私を。」という感情が、言葉や態度に実際に出していなくても伝わってしまいます。
祈る瞬間だけを見られている訳ではありません。
和解する事は難しいことですが、難しいからこそ良い課題とも思えます。