十数年ぶりか?
気になっていた西尾久に行くにはそれだけの歳月が必要だった。
40歳から55歳まで十五年間、歩合セールスとしてヤバい橋を渡った。
道々、相沢さんとモアのママと果物屋さん、それに、よく行ったスナックのママさんにも会った。
年は食ってもみんなまだ生きていた。
声をかけることはやはりはばかられた。
それでも、モツの三河屋や齋藤生花、喫茶店・モア、黄色いトマト、鈴文堂、お好み焼き屋や喜楽、片庭ビル、高木さん、高山さん、芥川ビル、山崎さん、それから、洋品屋の島崎さん、豆腐屋の綱川さん、文房具屋の鈴木さん、金太郎飴、お茶屋の谷澤さん、かまぼこの豊嶋さん、畳屋さん、帰化したりーさん……などを見ながら歩いていると、何ともいえない気持ちになっていく。
あの頃年寄りだったひとたちはもうこの世にいないだろう。
乞食同然のいでたちでやって来て、小台通りで、来る日も来る日も飛び込み、何とか仕事につなげようと駆けまわり、やがて一世を風靡し、そして、身ぐるみ剥がれて乞食同然の日々をおくるようになった。
国中に支店網を誇った会社(日本電建株式会社)も消滅した。
(靴屋の高山さんはシベリア帰りだったな)
(仕立屋の島崎さん。よそで3階建てで契約してたのをひっくりかえしたな。それで、西尾久のこのあたりに拠点が出来たもんだ)
(ふぐうどんすきの喜楽もひっくりかえしたな。片庭さんと四階建てのちっこいビルも……)
(豆腐屋の綱川さん。いい爺様だった。)
(喜楽の左のでっかいやつは、銭湯だったがひっくりかえして10億で契約した。)
滅びゆくホームレスの目で、自分がたずさわったビルをひとつずつ見ていると、色んなことが浮かんでくる。
裏切りもしたし、裏切られもした。
みっともない真似もした。
ぺしゃんこに打ちのめされもした。
得意満面にもなった。
ばかばかりやらかした。
金に埋もれていたが、節約の高圧に押しつぶされていた。
地まわりとやりあったし、裁判も抱え、いちゃもんをつけに来る高名な政治家秘書ともやりあった。
そうやって、僥倖から僥倖を綱渡りしながら3人の子を育て、ふたつの家を持ったが、やがて何から何までどうにもならなくなった。
しかし、そうより、生きる道はなかったのか……?







