生物学的な事実として:


必ず一定の割合で障がい者は生まれます。それは生命の仕様としてそのように作られているわけです。
無学な私には理由はわかりません。学者にお問い合わせください。

 
生まれてからでもありません。どんなに健常な方でも、私も、あなたも交通事故で1時間後に寝たきりになるかもしれません。


人間は有性生殖をする生き物ですからすべての人類は母親が命懸けで生んでくれた。そこには、見返りは何もないんでしょう。

 

単に事実として私は生きています。あなたも生きています。

それを否定することは命を否定することです。まぎれもない事実があります。私たちは生きています。

命は命からしか生まれません。

命を授かったのではなく、命を預かったのです。障がい者を否定するのであれば、それは命を全否定することです。

 

障がい者を否定することは、自らを否定することである。

すべての命を全否定することです。

 

 

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マニュアル人間

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あまりの猛暑の中を自転車で移動していると、熱中症の危険すら感じる。

 

汗まみれで、ぜいぜい言いながら、こりゃ、まづい。

 

と、思い、近くのコンビニに駆け込み、深呼吸をして、落ち着いたところでアイスを買った。

 

レジで、店員が、

 

ご一緒に、唐揚げはいかがですか?今、揚げたてですとにっこり。」

 

うっぷ・・・・聞いただけで、胸焼けが・・・・

 

 

 

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Am 24.07.2017 veranstalten die Bayreuther Festspiele um 19 Uhr im Festspielhaus aus Anlass des 100. Geburtstages von Wieland Wagner einen Festakt.

Unter der Musikalischen Leitung von Hartmut Haenchen werden Camilla Nylund, Claudia Mahnke, Christa Mayer und Stephen Gould sowie das Festspielorchester Ausschnitte aus Richard Wagners „Rienzi“ und „Parsifal“, aus Giuseppe Verdis „Otello“ und Alban Bergs „Wozzeck“ aufführen; die Festansprache wird der ehemalige Intendant der Bayerischen Staatsoper, Sir Peter Jonas, halten.

Wie durch die Festspielleitung angekündigt, soll neben geladenen Gästen auch die Öffentlichkeit an diesem Festakt teilnehmen können. Alle Interessenten werden gebeten, bis zum 12. Juli 2017 ihren Kartenwunsch (maximal 2 Karten) unter Angabe ihrer postalischen Adresse ausschließlich per E-Mail an festakt@bayreuther-festspiele.de zu richten. Unter allen Einsendungen wird dann im Losverfahren unter Ausschluss des Rechtsweges über eine Kartenzuteilung entschieden. Der Eintritt ist frei.

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サバイバル・ロッタリーとは:

 

 

「臓器くじ」の思考実験ついては、下記のような空想上の社会制度をテーマとして議論される。

  1. 健康な人の中から、くじ引きで一人を選び出し、その人を殺す
  2. その人の体内から全ての臓器を取り出し、臓器移植を必要としている、別の人々に配る

つまり、この「臓器くじ」という制度によって、選び出された一人は死んでしまうが、その代わりに臓器移植を必要としている複数人の命が助かるのである。この思考実験では、「このような行為が論理的に許されるのだろうか?」という問題をその論点としている。

またこの問題は、下記のことを前提とする。

  • くじ引きは公平に行われ、不正行為が起きることはない
  • 移植手術は絶対に成功し、適合性の問題なども解決している
  • 人を殺す以外に臓器を得る手段は無く、死体移植や人工臓器は使えない

(以上、定義。ロッタリーとは。くじのこと。以下私の意見)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

答えがない。と言う事について意見を申し上げます。答えがないと言う事はわからないとか問題をほったらかしと言う意味ではありません。どちらかに一方に断定することができない問題が世の中にはあると言う意味であります。

特に生命倫理学の問題について例えばがんの告知であるとか胎児に障がいがある可能性の告知と言う問題に関してはこれが100%と言う正解はありえないというのが立場です。

人間の生きるとか死ぬと言うことに関しては方程式のような回答は無いのです。また学者が学問的な議論をしてどちらか一方に断定することが不可能だと言うのが私の立場です。

答えがないということを理解するためには勉強や研究がいらないわけではありません。

私自身京都の大谷大学大学院に社会人入学をしてさんざん文献を読んだり研究をしました。

 

その結果どちらかに 二分法 で決定することができないと言う結論にいたりました。

答えがない=研究をしなくてもいい

 

では全くないのです。


研究をして様々な学者の意見を聞いて論文も徹底的に読みこなした上で断定することができないとする意味なわけです。

今現在において様々な宗教紛争やテロとか民族・主義の対立する人々が殺し合っている残念な現実があります。

どちらも自分が正しいと信じきっているのです。

 


(あるお寺で見かけた法語?許可を得て掲載)
絶対的な回答を求めれば必ず争いが生じる

等面多面体の難しい話

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鋭角三角形ABCの各辺の中点を結んで、四面体を組み立てる。体積を求めるのは東大受験の常道だ。

 

http://ameblo.jp/ubqubq/entry-11116930827.html  (ブログ内リンク)

ところが、ある中学生が言い出した。

 

 

角A・B・Cに余弦定理を適用して、積を取ると…体積が、求められることに気がつきましたが・・・・

 

 

どう考えても偶然ではない。一方,角A・B・Cを独立に使っている以上、ユークリッド幾何学の答案では不備がある筈。

 

 

難関塾と称して「できる生徒を教えている」と思われると、凄く誤解を生む。

 

「できる生徒」とか「進学校」ほど人によって定義が異なるものはない。

 

出来る生徒を教えるって楽な塾ですね。と塾経営者から言われたことがある。

 

 

小学5年生から教えている高三の生徒の目が怖い!という体験。

*こちらの能力を見破る力がある

 

ある学校で、小5の生徒の発言。「今度来た・・・先生って、うまく、ごまかしているけど、算数の能力ないですね。」

 

たいていの、一般向けの塾選びの本には「学習塾を大きく分類すると・・・」などと書かれている。

 

 

SEGの関係者の名言:補習塾と難関塾は、もはや別業態である

 

多くの保護者は、看板だけ見てこれは中学受験専門塾。これは補習塾と考えているようだ。

 

岡山で何年もやっていると、近寄りがたい、として、一目置かれているようだ。ただ、よく聞いてみると近寄りたくない塾」の間違いのようだ。ともかく、(栄枯盛衰の激しい塾業界では)老舗であることは間違いないので、塾の集まりの会議に来てくれと言われる。異業種交流会として行っている。

 

とにかく塾というのは、どの塾も金太郎飴のように、同じではないということは、保護者に理解されたい。

 

理由:工業製品を販売しているわけではないから!塾は人!人間が人間を教える以上、その関係性には一つとして同じもがない

 

ある塾の関係者とのお話:塾ってどのくらい種類があるの?

 

塾の数だけ種類がある!

 

 

 

 

 

 

センター試験に英検等の民間試験を導入することについて考えています。
 

読む力・話す力・聞く力といったコミニケーション能力を客観的に試験で測定することが可能でしょうか?

英語と言うのはツールですから状況に応じて必要なコミニケーション能力は異なるわけです。

学会で発表するコミニケーション能力と商社で働くコミニケーション能力は違うわけですね。

次に英検の公平性が担保されているのでしょう。英検を受けた場合に過去の経験ですが身分証明書のチェックはありませんでした。なりすまし受験が可能だと判断しました。

また、地方では英検の面接委員が知り合いであるとか受験会場が学習塾であることも珍しくないようです。

これが1番大きな理由ですが、言葉と言うのは常に日常的に使っていないとうまく使えないのです、例えばドイツに行くと初日はうまくドイツ語で会話ができないのです。2日3日としていくうちにだんだん日本語からドイツ語に頭が切り替わってくるようなのです。

そうすれば、都会の受験生が圧倒的に有利になります。
 
 
大阪や東京に行って最初にびっくりしたのは駅前にここまであるのかという位、英会話学校があるのです。電車の中で英字新聞を読んでいる方。英語でのアナウンス。こういったものは珍しくありません。都会には社内の公用語は英語であるという企業もあるようですが岡山では不可能です。

ところが日本には地方においてはまだ携帯電話さえつながらない場所があります。そういったところでは英語に普段から接することが不可能な受験生もいます。

センター試験では英語ではなく外国語の試験の件です。英語ですらそうなのですからましてやフランス語やドイツ語はなおさらのことです。

民間試験をうけにいくのに船に乗っていかなくてもすむ都会の発想だと思うわけです。バスが一日に数本しかない地域では大変な負担になります。

(話は変わりますが、岡山市内でサンスクリットを学習できる場所があるかということを大谷大学のインド哲学の教授におききしたことがあります。答えは無いと言うことです。岡山市内でもそうなのですから、郡部や島嶼地域に行けば外国語に日ごろから接すると言う事はほとんどできません。)

センター試験に民間資格を活用するという考え方は都会目線の発想だと思うわけです。何度でも受けられるわけですから、回数を受けたもの勝ちになってしまいます
 
 
 
 
 

岡山大学の理系数学は非常に複雑な数ⅢC範囲の計算が出題されるので、高度な積分計算処理の練習が必要である。

特に医学科においては高得点を期さねばならないため、アステロイド・サイクロイド・カテナリーに関する積分は必須であろう。


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UBQのテキストから紹介する。

理系ならサイクロイド・カテナリー・アステロイドを始めとする有名曲線はおさえておきたい(下図)



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サイクロイドは常識。



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岡山大学で出題されたサイクロイド


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岡山大学ではカテナリーの伸開線まで出題されたことがある。高校生には難問であるが大学教養課程程度の解析学を勉強しておれば難問ではないという岡山大学のいつものパターン。伸開線とはある図形に巻きつけた糸を解いていく時に糸の一点が描く軌跡である。


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カテナリーというのは「端点を固定した時にヒモが垂れ下がるカーブ」である。興味のある生徒は下のように微分方程式で求めることができる。(高校範囲外)様々な性質を持つ曲線である。

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下の積分は岡山大学医学科受験の試金石である。高3の11月に、この積分ができるか?と聞いて答えがイエスなら、合格可能性はかなり高い。


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この積分はカテナリーと関係が深い。高校の範囲ではないが双曲線関数を利用して

x=a・sinhθ(ハイパーボリック・サイン・シータと読む)と置換すれば良い。

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庄司紗矢香さんは、とても悪魔的な恐ろしい演奏をされる天才バイオリニストです。

 

先般、庄司紗矢香さんのバイオリン演奏を聴きに行きました。


最高の敬意を示すために、なんといっても、バイロイト音楽祭に出席するのと同じ服装で、蝶ネクタイを締めて、オーラ(注;後述)を全開にして聴きに行きました。

残念ながら、会場は3分の1しか埋まっていませんでした。


 

さて、庄司紗矢香さんと伴奏のピアニストは、演奏前に、目を合わせているのです。これは何を合わせているのかというと、呼吸を合わせているわけです。


 

 

 

 

小さな会場ですから最初に、庄司紗矢香さんと伴奏のピアニストが、目を見ながら、呼吸を合わせているのは分かります。

まさに「阿吽の呼吸」というのはこのことです。

 

それを見て、私も、呼吸を合わせるわけです。


 

 

そうすると、庄司紗矢香さんがどこで息を吸い、どこで息を吐いて、止めているかいるかがわかりますから、それとシンクロナイズさせながら、呼吸を合わせながらバイオリン演奏を聴くわけです。


 

これをしますと、まさに、聴く者と演奏する者、この両者が一体。呼吸を合わせると、まったく知らない曲であっても、楽章の切れ目というのはわかるわけであって、間違って拍手をすることは絶対にありえません。なぜならば、楽章の切れ目で呼吸が乱れていないからです。

 

最高にすばらしい体験でした。


 

最後に、演奏が終わって、ほんの10~15秒のことだとは思いますが、最後の音がやがてホールから消えゆくまで、庄司紗矢香さんは、呼吸を止めていました。精神の高みだと思います。

その間の緊張感の素晴らしさ!

 

こちらも、それに合わせて呼吸を止めるわけです。恐るべき無音の共有体験でした。 

 

そして、庄司紗矢香さんは演奏が終わった10秒後くらいに、息を静か静かにゆっくりと息を吐きました。それに合わせてこちらも、息を吐くわけです。


 

こういった体験は、CDやテレビでは不可能です。


 

 

どうも実際の演奏を聴いていない方が多いようで、このことは、なかなか理解されないようです。

 

しかし、一度こういう聞き方をすると、生演奏の魅力の虜になってしまいます。


 

 

さて、庄司紗矢香さんは、私が最も評価するバイオリニストのひとりでありますから、正式なスタンディングオペーションをしました。

 

その後サイン会がありました。芸術家のサイン会に行くなど無礼極まりないことですが。たまたま、もっていないCDがありましたので、サイン会の列に並びました。

 

 


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もちろん多くの方は、庄司紗矢香さんがお目当てですから、伴奏のピアニストには誰もサインを頼みません。

 

それを見た私は、これは失礼だと思いましたので、イタリア人ということは確認しておりましたので、まずはピアニストに「グラーチェ」といいイタリア語で謝辞を述べました。

 

それがまずかったようです。

庄司紗矢香さんが何か私に声をかけてくださいましたが、残念ながら、日本語ではなかったので、よくわかりませんでした。

 

 

 

 

 

 

庄司紗矢香さんほどのバイオリニストに、ベートーヴェンの「春」であるとか「クロイチェル」といったような、通俗的な曲を演奏・録音させることは、まことに残念なことです。

 

リゲティとかストラヴィンスキーといった曲をもっと聞きたいのです。

 

もちろん、そんなことをすれば、ますますお客様がいなくなる=会場が埋まらないことはわかっておりますが、ベートーヴェンやメンデルスゾーンといったものは、・・・や・・・のようなバイオリニストで十分なわけであって、何も庄司紗矢香さんほどの方に録音させる必要はないわけです。アンコール曲のストラヴィンスキーの方が愉悦に満ちていた。


 

さて、前から疑問に思っていることがあります。


 

バイオリンの独奏は、無伴奏バイオリンソナタと呼ばれます。

 

しかし、ピアノだけの演奏は、無伴奏ピアノソナタとは呼ばれないわけです。

どうして、バイオリン・ソナタにピアノが出てくるのでしょうか?


 

ピアノの音で、バイオリンを汚してほしくないからです。


 

このことについて、あるプロのオーケストラ団員に先日お伺いしましたところ、このような回答を得られました。


 

現在では確かに、ピアノは独立した楽器であるが、歴史的にはもともと、ピアノはハープシコードやクラビアといった楽器から発生してきたもので、もともとオーケストラの代用品であり、伴奏するだけのものだから、とのことでした。


 


 

なお、「オーラ」という言葉を使いましたが、決して怪しげなスピリチュアル的な意味で使用しているわけではありません。

 

オーラという言葉を辞書で調べてみますと、

「人間の醸し出す雰囲気」ということが、ちゃんと載っております。

 

このあたりは、学術的に検証されたものではありませんが、人間は微弱な電磁波や輻射を出していると言われていますから、それを感じているのかもしれません。