人間に、賢者と愚者がいるのは、宿命ですね。
二人いれば、どちらかが賢く、どちらかが愚か。
でも、それは基準による…、基準によって、どちらが賢いかが、入れ替わることもある。
しかし、どうやっても賢愚が入れ替わらないレベル差もある…。
私がどんなに逆立ちしても、賢者にはかなわない。
即ち 「上知と下愚とは移らず」 論語‐陽貨
最上の知者は悪い境遇にあっても堕落せず、最下の愚者は、どんなによい境遇にあっても向上しない。生まれつき賢い者、また、生まれつき愚かな者はあとからの教育や環境で変わらない。
10人集まれば、どうしたって、人間には賢愚と優劣が生じ、階層化が始まる…。誰かがリーダーになり、それに誰かが従い、誰かが集団から飛び出し、誰かが集団からはじき出される…、それが生命の宿命であり、人間も例外ではありません。
したがって、人間には「主従」が必要。
人間の全てが自活し自営できるわけではありません。
人間は社会を営む動物ですから、人間には必ず組織が必要で、組織に属して仲間を守り仲間に守ってもらうことで安泰に過ごすことができるのです。
そんなわけで、個人だけではなく、人間が集まった集団にも、賢愚が生じます。
10人が集まった集団Aと、別の10人が集まった集団Bとでは、どちらが賢く、どちらが愚かか?というと、集団Aと集団Bを比較したら、いずれかが賢く、いずれかが愚か…。
集団においても、基準によって賢愚が違うことがありますが、それでも賢愚から逃れることはできません。
では、こうした個人の間の賢愚と、集団における賢愚とは、どんな関係になっているのか?
集団Aのメンバーは、a1、a2、a3、・・・・・・a9、a10。
集団Bのメンバーは、b1、b2、b3、・・・・・・b9、b10。 とします。
集団Aと集団Bとの賢愚は、それぞれのリーダー層の賢愚に左右されるでしょう。
また、集団Aが集団Bより賢いからといって、メンバー「a1」の方がメンバー「b3」より賢いとは限りません。
さらに、メンバー「a2」の方がメンバー「b4」より愚かだからといって、集団Aの方が集団Bより愚かだとは限らない…。
この論理を理解している賢者は『メンバー「b」が愚かだから集団Bが愚かだ』とは考えません。
つまり、賢者なら、一人の日本人が愚かだから日本人は愚かだとか、愚かな韓国人の一例によって、だから韓国人は愚かだ…とは考えないわけです。
賢者はいずこでも賢者であり、愚者はいずこでも愚者なわけで、集団の賢愚は、その集団が賢者をリーダーに担ぎ上げることができるかどうか?で左右される…。
ある集団を、その集団を構成する素粒子で論考することができるか?
因数分解して、因子で考えてみることをしなければ、見えない世界があります。
愚者は己れが賢いと考えるが、賢者は己れが愚かなことを知る。(シェイクスピア)
我々は賢いと考える者は愚者であり、我々は愚かだと知るものが賢者。
そして、彼らも賢いと考える者が賢者であり、彼らが愚かだと考えるものが愚者。
日本人は、賢いのか、愚かなのか…
中国人は?…、韓国人は?…
その答えがわかる人は、どれだけいるのでしょう…。
同様のことは、自民党という集団でも、民進党という集団でも、同じことかと。