今回の「第40回:小田原の落日」の中で描かれた、
秀吉による北条攻め。この小田原攻めに至る経緯について、
『北条五代実記』を参考にしながら関係個所を抜粋、
現代訳にして記してみたいと思います。
尚、この作品は、小田原北条氏の五代の歴史をつづった、
江戸期に書かれた戦記物語系の記録である為、
特に滅亡に関わる人物の評価が低く設定されていますが、
(氏政、成田氏、松田氏、猪俣氏など)
およそ、当時の時代背景は理解できるかと思います。
-------------------------------------------
1590年(天正18年)の春、秀吉が小田原城を攻撃した理由は、
1582年(天正10年)に織田信長が殺され、甲斐・信濃の二カ国が
領主のいない空白地帯になったことに始まる。
まず、徳川家康が先手を打ち、すぐさま甲斐に侵攻。
信長の家臣だった河尻秀隆を討伐して、
甲斐の国を治めようとしたところに、
甲斐の地侍の要請を受けた北条氏直が甲斐に進出、
郡内(山梨県郡留郡)を攻め取り、若御子まで馬を進めて家康軍と対陣、
戦いを続けるも百日あまり、勝負はつきませんでした。
これを見た北条氏規(うじのり=氏政の弟・氏直の叔父)は、
以前から家康公と懇意にしていたことから両者の仲裁に入り、
・武田氏の旧領地のうち、甲斐・信濃の二国は家康公に渡し、
・上野(こうずけ)の国は北条のものとすると決まり、
・また、家康公の息女・督姫を氏直の妻として迎え、
これより以降は、親密な関係を築いていこう。
ということで調停は無事に整い、双方、兵を収めて帰陣します。
※補足
幼少時代、家康と氏規は、共に人質として今川家で育ち、
子供の頃からの見知った仲で、かなり親しかったようです。
浜松から家康の息女の輿入れが終わった際、北条氏は家康公に、
「先年、お約束した通り、甲斐・信濃の二カ国は、
残らず家康公にお渡ししましょう。そのかわり、、
上野の国は残らずこちらの領地になることは当然の事です。
しかし、ご家臣の真田昌幸が依然として沼田を領有しておりますが、
そのいわれはないはずです。即刻、沼田を当方へお渡し下さい」
~という申し入れをした。
これに対し家康公は、北条氏の言う通りであるとして、真田に、
「沼田を北条殿へ明け渡すがよい」と伝えます。しかし真田は、
「それでは沼田の替わりになる土地を頂きたい。
そうすれば、明け渡しましょう」と答えたのです。
しかし家康公の領有地内に、沼田に替わるような土地が無かった為、
「将来、きっとそれに替わる土地をつかわそう。
今はすぐに沼田を北条殿へ明け渡しなされ」と重ねて命令します。
この家康公の命令に対し、真田は、
「ならば、川中島四郡は家康公もまだ御手をつけておられず、
近年は上杉景勝が領有しております。この川中島を攻め、
次々と切り崩し、それをそのまま私にください」と答えます。
しかし当時の家康公は秀吉とも対立していたので、上方の大軍を引き受け、
その上で北国の上杉氏と敵対するのも無益な事として、
「すぐに沼田を明け渡し、上田だけを領有して時が来るのを待つがよい。
きっと沼田に替わる土地をつかわそう」と命じます。
しかしながら真田昌幸は家康公の味方となって間もない、
新参者の武士であった為、家康公の言うことを聞かず、
その上、反逆心まで示してきた。
その為、家康公は、平岩親吉、鳥居元忠、柴田康忠に加え、
甲斐の国の武川組の武士たちを全て上田に向けて出撃させ、
真田を退治しようと数日間戦います。
劣勢の真田は、当時、羽柴筑前守と称していた秀吉公に助勢を求め、
これに対し秀吉公は上杉景勝に真田に加勢するよう命令を下します。
上杉景勝からは数千の加勢の兵が上田に向けて出立。
この上田は要害の地形を有し、
また真田勢が城を堅固に守備していたので、
真田退治は延びに延び、そうこうしているうちに・・・、
1585年(天正13年)7月、秀吉公は天下を手中にして関白となり、
日本中で関白の命令に従わぬ者はいなくなったのです。
1588年(天正16年)8月、小田原から北条氏規が、
北条氏政の代官として上京し、
「沼田の件については、北条に下さるように」と上申したところ、
関白殿は、話を聞きわけられ、
「国境の件については、よく話を聞いてから命じよう。
だから、かさねて家老を上京させよ。
沼田は北条にさずけるようにしよう。
その上で北条も上京して、私に仕えるがよい」
~というお話しであった。(中略)
1589年(天正17年)12月、関白殿は、津田盛月、富田一白を下し、
沼田を小田原にさずけ渡したのである。ただし、
「沼田の中でも名久留美(なくるみ)は真田氏代々の墓所なので、
真田にさずけるがよい。そのほかは北条氏が支配すべきである」
~という仰せであった。
そこで鉢形の城主・北条氏邦(うじくに・氏規の兄)が沼田を賜り、
その城代に、猪俣範直(のりなお)をおいた。
(画像は猪俣邦憲となっていますが同一人物です)
ところがこの者は、源義経と木曾義仲の宇治川合戦において、
義経に従った猪俣範綱の子孫というが、思慮に欠けた田舎侍で、
「沼田の内で名久留美だけを手中にしないのは、
思えば残念である」と申して、ただちに名久留美の城を攻撃。
真田を追い出し、沼田全体を北条氏の領有としてしまった。
真田はこれを関白殿に訴え、これを耳にした秀吉公は大いに怒り、
「以前、『氏政・氏直が上京し出仕する』と約束したから、
沼田を渡したのに、約束を守らず、いまだに上京してこない。
おまけに私の承諾もなしに、名久留美を取るとは、
掟を破り、これ以上の反逆はない。急いで出撃して北条を退治せよ」
~と命じられたのである。
この為、小田原からは石巻康敬を使者として、
「すぐに上京しましょう。また上州名久留美の件は、
まったく私どもの下した命令ではございません。
片田舎の郎党どもが勝手知らないため起こした、思いの外の事件です。
急いで、これをお返しいたしましょう」と申し上げた。
しかし、関白秀吉公は、これに取り合わず、
使者の石巻を捕らえて牢に入れられた。
それから小田原へ使者を送って、無理難題を吹っかけ、
諸国にも、このことを触れ伝えた。
「明年、小田原へ向けて兵を出す」
~ということを指令されたのであった。
-------------------------------------------
この最後の部分にある「無理難題を吹っかけた」というのが、
今回のドラマで登場した、秀吉の宣戦布告状のことになります。
余談ですが、後年「関が原の戦い」の直前、
家康が上杉討伐に向かう道中の小山会議の前夜、
黒田長政は福島正則を説得して、真っ先に「家康公にお味方する!」と
宣言させる事に成功しますが、
逆に、この会議の席上、さっさと自国領・上田に帰り、
中山道を行く徳川軍を遅参させた真田昌幸の心中も理解できますね。
そのあたり、真田側の思惑については、
2016年の大河「真田丸」で描かれるんでしょう。
たぶん・・・ね。ヘ(゚∀゚*)ノ
▼軍師官兵衛:第40回 小田原の落日 第2幕