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2011-12-08 06:00:00

オノデラーズ(最終回) エピローグその4 

テーマ:オノデラーズシリーズ

前回までのあらすじ


かつての主君筋にあたる津和野の小野寺氏の子孫に、小野寺氏の旧臣の子孫たちは連絡をつけ


津和野の小野寺氏の状況や、また口伝されている事について知る事が出来た


そして、自分たちも先祖から伝えられてきた「山北(仙北)小野寺氏」の事について書状で伝えたのであった



~続きです~


文化7(1809)年某月(少なくとも9月以前)の江戸にて・・・・


外桜田新橋にあった津和野藩江戸屋敷にて、小野寺彦作小野寺元統が安堵した表情を浮かべて話をしていました


「いや・・・彦作殿、ほんとにこの数ヶ月は忙しゅうござったな!てれ(苦笑)


「はい、元統殿も一昨年の8月に江戸に上がられて、ずっと休みなしで勤めを果たされて、ご苦労でござった苦笑い


彦作は、元統を労った


「いやいや、彦作殿とて長い事江戸に詰められ、今月ようやく津和野に戻られる事になり・・・あ!そうじゃ!!ひよざえもん びっくり


元統は、話の途中である事を思いだし、文箱から一通の書状を出しました


その書状を見て、彦作も気が付きましたひらめき電球


「あ・・・そう言えば、長い事秋田からの文を拝見できていませんでしたな・・・・てれ(苦笑)


「まこと・・・秋田の方に大変申し訳のない事をしましたてれ(苦笑)


と、二人は苦笑しました


羽州角間川 (現在の秋田県大仙市角間川)に住む小野寺氏旧臣の子孫達


文化5(1807)年閏6月11日付で、彦作元統宛の書状を出し、この時も権現丸の船頭・惣左衛門により運ばれ


津和野藩高津湊の中島嘉助を経て送られた事を前回 書きましたが


実は、書状の届け先となっていた元統は、その年(文化5年)の8月に江戸に上がる事になり


結局は津和野から江戸に転送されたために、到着が遅れたのでございました汗


そして、江戸に書状が届いた頃、彦作と元統は勤めに忙しく、秋田からの書状を手に取る事が出来ない状態だったようです


「彦作殿が江戸におられる間に、この文を読んで返書致しましょう」


元統は、まず彦作に秋田からの書状を渡しました手


彦作は書状の封を切り、読み始めました


書状を読み進めるうちに、彦作は驚きの表情を見せ、そしてとうとう涙を流しました泣き3


「元統殿、あなたも読まれよ・・・我等がご先祖がこれほど身近に感じられるとは・・・・泣き笑い


涙を拭きながら彦作元統に書状を渡しました手


そして、やがて元統の目にも涙があふれたのでありました泣き3


「行った事のない我がご先祖の故郷が目に浮かんでくるようですな!感動


「はい!これだけ厚情ある文を長い事放っておいたは、まさに無礼・・・・


早速返書をしたため、秋田藩の江戸屋敷のご家中に託しましょうぞ!グー


・・・・と、二人が書いた書状は、以下の通りです



辰(文化5年)閏6月11日に出されたお便りが我等の手元に届き、拝見致しました


(中略 挨拶文)


また、私等2名は、一昨年辰の年の8月から江戸表で初番を命ぜられ、今まで江戸に滞在しておりました

ですので、お便りも津和野へ届き、それから江戸に送られたので、とても遅く手元に届いたのです

その上、我等2名とも多忙を極めましたので、そちらのお便りが届いているのを知っていながら、時が延びてしまいまい、申し訳ありませんでした

彦作は今月末には津和野へ戻り、私は今年(当午)月までは江戸におりますので、もしお便りを下さるのであれば

佐竹様の江戸屋敷の御留守居衆からこちらの留守居を通して下されば、早くお便りが届くと思います


一、先年のそちらの系図提出令の際、文通の申し出を高津町の中島嘉助へ依頼されて、この度お便りを頂き忝なく思っております

  本当にお互い遠く離れている所におりますので、連絡手段もなく、そして私達の一族の者がそちらの事を全く知らなかったので

  何卒御了承下さいと、年来申し合わせ致した所、図らずもこの度お便りを下され、本当に忝なく

  さも面談しているような心地で拝見致し、懐かしさがこみ上げて参りました

  お心遣いにとても感謝しております


一、こちらの略系に「仙北稲庭城主」と書いた事について、少々の相違もあるのではないか?と言う事ですが、ごもっともな事だと思います

  これは古い伝記がありまして、そのまま記してご覧頂きました

  その伝記で確認できる先祖も4,5代目頃と思われ、その先祖についても一切分かりません

  ただただ古老の口伝で伝えられた事だと思われますので、間違いもあるかと思います

  先程述べた伝記にも、稲庭・大森・沼館・横手などにも城があると書かれています

  私達は、それらが御領所とばかり思っておりましたので、今回そちらから頂いたお便りで、古城跡の事なども詳しく分かり、有り難く思っております

  仰る通り、戦国の時代は、今の時代の大名のように、長年居城としていた事など考えられない事だと思います


一、義道公が亀井家へ移られた時の事、あなた方の御旧記にも詳しく記されていますが、大体その通りだと思います

  元来、石州津和野の城主は(文禄・慶長の頃、またはそれ以前・・・いつ頃から領主なのか分かりませんが)坂崎出羽守という人物

  (この出羽守の娘は、義道公の妻で、その方の墓所は津和野の本性寺にあります)です

  義道公が家康公の御不興を買ったので、この出羽守が舅の誼で義道公を預けられ、坂崎氏を通じて家康公に

  いろいろお詫びや訴えをなさったようです

  その時は、きっと御領地が没収され、護譜代の家人も御一族(一両輩)も付き添って来たとのことです

  (御家人や付き添いがいた事は、伝記に書かれておらず、古老の口伝によるものです)

  そして、2代将軍秀忠公の時代に、惜しくも坂崎出羽守が滅び(坂崎が滅んだ理由は分かりません

  元和2年の頃と思われます

  坂崎の墓所は津和野にあり、舅の家の誼もありますので、現在も嫡流家で香典を上げております)

  それ以降も津和野にいらっしゃいました

  義道公の訴えも叶わず、領地没収・家人離散を命じられたので、それによって津和野は亀井家に与えられ、元和3年に因州より移封しました

  義道公はすぐに亀井家にお預けとなりました

  その時の藩主・亀井豊前守政矩(実際は能登守茲政)と言いましたが、この殿様、よくよく義道公を親切にして下され

  御家老の方々へいろいろと苦情を言う者もありましたが、そのことに対して一切聞く耳をもたれませんでした

  そのうち月日が経ち、義道公父子が亡くなり、江戸より御検使として2名のお役人が下向されました

  (旧記にお役人の名前が詳しく書かれていますが、今は江戸におりますので、手元に書いたものがありません)

  先程述べたお役人が帰られる時、「義道公の孫の代と今後、検死の届け出は入らない」と言われたので

  豊前守政矩(実際は能登守茲政)が、「義道公の子孫を子孫を、私の家来や召使いにしたい」と公儀に願い出た所

  「好きにしていい」と言う事になりましたので、長年亀井家の家臣として奉公し、譜代同然の待遇を受けております

  (家臣になった時代は、義道公の孫の代と記憶しておりますが、これも旧記に詳しく書いております)


(中略 オノデラーズの家紋についての質問)


一、秀十郎様へのお言葉、忝なく思っております

  津和野へこの旨を伝えたら、喜ぶ事と思います

  秀十郎様は、最近不幸が続き、まだお若いですが、今年16歳となられましたので、礼状も差し上げずにはいられない事でしょう

  その他の一族もお便りを読んだら、きっと後ほどお礼状を差し上げると思います

  本当に、お互い遠く離れた所にいますよね

  遠くから昔の事を懐かしんで、訪ねられた事は、私事のようによく分かり、また感動致しました

  更に、そちらの事のあらましが分かり、更に文通したのであれば、昔の事が分かるだろうと、手放しに喜ばざるを得ません

  さて、各々方、御勤番で出府される事はありますでしょうか?

  もし、御親類の方でも出府されるのであれば、是非お会いしてお話ししたいものです

  私達は譜代同然で亀井家に仕えていますので、一族の者はいろいろと(江戸での)お役を受けております

  ですので、2,3年に一度は参勤にお供しておりますので、一族の内誰か一人は出府しております

  私、元統は、3代前から医業に携わり、侍医として仕えております

  各々方、または御親類の方が出府された時は、是非津和野の江戸屋敷へ訪ねていらして下さい

  お話したい事はたくさんありますが、この辺にいたします


                                    小野寺彦作秀顕(花押)

                                    小野寺元統義美(花押)


  もう一度申し上げますが、ご連絡の際は、お互いの江戸屋敷を通じて行って頂ければ、早くお便りが届く届くと思います


一、(中略 よっしーの父・輝道の件についての質問)

  明暦・明和の頃に、霊社にて大祭を行い、義道霊神と称し奉り、春と秋の年に2度、嫡流家が祭祀致しております


                                                               以上



とまあ、今回も長々と彦作と元統の書状を意訳して書きましたが、私め個人としては、大変面白い話が書かれていたので


手紙の内容を殆ど載せてみましたごめんなさい


「さも面談しているかのような心地」とか、旧臣達の子孫が江戸に上がる事があったら、津和野藩江戸屋敷に会いに来てくれとか


本当に嬉しいかった事が分かりますねえ~ラブラブ


遠い所からやって来たご先祖様(よっしーやごろーちゃん)の事を「古老の口伝」でしかうかがい知る事が出来なかったでしょうし


更に、ご先祖様が住んでいた所の様子が分かって、さぞ自分の事のように懐かしく思った事でしょうね・・・ハムスター


しかも、亡くなって長い年月が経ってからも子孫によって手厚くまつられ続けていた事からも


(罪人として亡くなったとはいえ)よっしーは子孫にとても大切にされていた事が分かりました


し・・・・よっしーのお墓やその参道が思った以上に立派だったのは


子孫達が代々手厚くお祭りしていたからだと、1月に参拝した時の事を思い出しました(詳しくはこちら


そういうよっしーの子孫達(ごろーちゃんの子孫含むですので、私めは妄想会話の中でわざと二人を感涙させましたにひひ


で、それとは別に・・・


坂崎直盛の娘がよっしーの妻だったと、この書状に書かれていて、最初大変驚きました!ひよざえもん びっくり


・・・・ただ、更にこれ以降のご子孫の方のお話によると


よっしーの妻ではなく、よっしーの長男の左京道実の妻だったかも知れない


と言っておられたようで、系図(神戸小野寺氏系図)にも、その旨書かれているようですパー


そして、坂崎家が改易になる時、よっしーが助命の訴えを起こしていたらしい事も口伝で伝えられた事も分かりましたひよざえもん びっくり


真偽はともかくとても、文化年間でも、よっしーの子孫が坂崎直盛のお墓に香典を供える位の縁だった事は分かりました!


↑たぶん、この辺の話から「よっしーが坂崎直盛のお墓をたててあげた」説が出たのでしょうねえ・・・てれ(苦笑)


「縁」とはいえ、義理堅いです@よっしーとよっしーの子孫達



その後、彦作が津和野へ戻り、一族に秋田からの書状を見せたようです


もちろん、一族の人たちも大変喜び、当主の秀十郎と更に一族5名連名で書かれたお礼状が、旧臣達に送られました


旧臣達の手元に届いたのは、文化10(1812)年3月18日だったようです


彦作と元統の書状に「江戸に上られた時は、是非津和野の江戸屋敷においで下さい」とありましたが


果たして旧主従の子孫達は、江戸で会う事が出来たのかどうか・・・・・それはわかりません


角間川給人を初めとする旧臣達が、よっしーの手紙を大切に持ち続けていなければ、きっとこのような偶然は起こらなかったと思います


主従が離ればなれになって約200年経っているのに、このような偶然が起こったのは


それほどオノデラーズ主従の絆が深かったのだと私は思いました





4年間、ちまちまとオノデラーズの事を記事にして参りましたが、まずはこれにて一旦終了致します


最初からオノデラーズシリーズを読み続けて下さった方々に大変感謝申し上げますありがとう(男)









注;登場人物のやり取りは、残っている史料を基に、私めが勝手に会話を妄想しました爆弾


  そして、書状内容も、私めの意訳でございますので、ご了承下さい


  しかし、大筋はこんな感じだったと思って頂ければ幸いです




参考:エピローグの主要登場人物


小野寺彦作秀顕    津和野藩の家臣。小野寺康道の嫡流の子孫で、この時、江戸勤めをしていた。


小野寺元統道美    津和野藩の侍医。小野寺義道の子孫で、その中でも長老の立場であったと思われる。


小野寺秀十郎道経  津和野小野寺家の当主で、小野寺義道の直系の子孫。


中島嘉助         津和野藩高津湊に住んでいた人物で、何者かは不明。


               高津湊(現在の益田市)の商人か、または津和野藩の関係者と思われる。


               いずれにしても、津和野小野寺家とは縁が深い人物。


惣左衛門         石見津和野藩の高津湊から船を出していた、権現丸の船頭。


松岡平蔵常協     秋田・佐竹藩家中・角間川給人の一人。


八木藤兵衛道広    秋田・佐竹藩家中・角間川給人の一人。


               角間川給人の組頭でよっしーの乳兄弟であった八木藤兵衛道家の子孫。


               実は、平蔵の先祖の喜左衛門道景は、八木藤兵衛道家の実の兄であった。


地主喜右衛門     伊勢松坂に店を構えていた角間川給人たちの出入り商人。


藤田伝兵衛       秋田藩土崎湊の湊問屋。喜右衛門が宿舎としていた所でもあり、惣左衛門の取引先。


小野寺遠江守義道  かつての羽州仙北の領主であり、平蔵の先祖・喜左衛門の主君。


               関ヶ原の後、津和野に流罪となった。


               ここでは、よっしーと呼ばれる事もある。


小野寺孫五郎康道  羽州仙北の大森城主で、義道の弟。兄と一緒に流罪となり、津和野に預けられた。


               ここではごろーちゃんと呼ばれる事もある。


参考文献 「横手市史叢書10 資料編 中世 補遺Ⅰ」 横手市史編さん中世部会編 平成20年3月31日


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2011-12-06 06:00:00

オノデラーズ エピローグその3

テーマ:オノデラーズシリーズ

前回までのあらすじ


文化2(1805)年の秋田藩における系図提出令がきっかけで


昔、山北(仙北)三郡を治めていた小野寺氏の子孫が、津和野藩の家中にいることが分かり


旧臣の子孫たちは、小野寺氏の子孫に連絡を取ることが出来たのであった



~続きです~


文化5(1807)年、初夏の頃・・・・


津和野藩高津湊から、権現丸の船頭・惣左衛門により、小野寺彦作小野寺元統の書状が


秋田藩土崎湊の船問屋・藤田伝兵衛の所にもたらされました


「そういえば、お城でご家中の方々がお殿様に御拝謁の儀があるはずだから、松岡様方は久保田の御城下にいらっしゃるはずだ」


伝兵衛の機転で、松岡平蔵常協は久保田城下で津和野からの書状を受け取りました


文化5年閏6月3日だったようです


「お殿様御拝謁の時に、皆と控えの間で会えるだろうから、その時皆とこの文を拝見しよう!」


と津和野からの書状を持って、平蔵は登城致しました


控えの間で、角間川給人の組頭職を勤める八木藤兵衛道広平蔵の親戚など、旧臣の中でも由緒ある家の者達が集まり


津和野から届いた書状を読みました目


「ああ、我がご先祖様がお慕い申し上げた義道様のご子孫が、津和野のご家中で元気にいらっしゃるとは・・・・何と嬉しや!」


自分たちの先祖が使えていた主君の子孫からの手紙を読んで、旧臣の子孫達は懐かしさと嬉しさが心にこみ上げてきたのでありました!泣き笑い


「しかし、送られてきた御略系と、我等が持っている御系譜の内容に、若干の違いがあるようじゃが・・・ハテ?


「義道様は遠方に移られてしまったことであるし、長い月日が経ってしまえば、誤差が生じてしまっても仕方あるまい・・・ハムスター


「こちらに伝わっている話や、昔義道様や康通様がいらっしゃった御城下の事について、返事を送って差し上げたら


あちらの方々もお喜びになられよう・・・・・にこ


・・・・・と言うことで、平蔵達が送った返事は次のとおりです



初めてお便りします

暑い時期ですが、御地におられる御宗族様方が元気でお勤めを果たされているとのこと、お喜び申し上げます


一、さる丑年の系図提出令で、当藩の記録所へ系譜を提出するために調査している所、私達の所へ出入りしている地主喜右衛門

  (伊勢の松坂辺りの商人)がやってきて、昔、石州に移られた後、義道様と我等の先祖が書状のやり取りをしたかどうか

  聞いてきたので、「ご機嫌伺いの書状などをやり取りをしていたが、遠方におられるため、そのうち音信が途絶えてしまい

  津和野にいらっしゃる方々の様子が分からなくなった」と話した所、地主が「土崎湊の藤田伝兵衛と石見の船頭に頼めば

  また文のやり取りが出来るかも知れません」と言いましたが、如何せん、その時はそちら様のお名前も存じませんでしたので

  とりあえず話だけは通してみようと言うことでお願いした所、今回貴藩の高津町にいらっしゃる中島嘉助殿から藤田の所へ

  お二人からのご書面が届き、土崎湊より今年の閏6月3日に手元に届きましたので、面謁の時に皆で拝見致しました

  御宗家の秀十郎様を始め、御一族八軒で小野寺家を盛り立てているとの事・・・・お喜び申し上げます

  また、御略系もご用意下さり、かつ義道様の御法名まで書いて下さり懐かしさで心が一杯になりました

  御墓所は御当地の本性寺にあると言うこと・・・是非お参りに伺いたい所ですが、こちらも遠方で、また仕官の身でございますので

  心のままにそちらに行けないのがとても残念でございます


一、御略系に義道様が「羽州仙北稲庭城主」であったと書かれていますが、こちらに伝わっている(小野寺家の)御系譜には

   輝道様(=よっしーの父)の御代・天正5年から横手が御居城となり、義道様の代まで横手が御居城であったと伝わっています

   それ以前に、沼館・吉田・西馬音内などにも城があったようですが、戦国の世の事ですし、時の流れと共に無くなったと聞いております

   横手の城は、現在1,500から1,600軒の家があり、横手にあります正平寺という寺が御菩提所であると伝わっております

   大森城は、古城跡のみ残っており、古井戸もあり御本丸と見られる場所は高台にあり、四方見渡せる絶景地です

   大森城の東の川(雄物川)の方を見ると、(剱)花山という山がありまして、八幡宮が鎮座されています

   これは、元々城から往来していた跡である、と里の者が申しておりましたので、ご先祖様の御鎮守でしょう

   本丸と剣花山の間、山が2つ隔てた所の麓に大慈寺という寺があります

   その前に(大納川の)流れもあり、それ相応の寺でございますから、御菩提のお寺であろうと思います


(中略 沼館と吉田についての説明がなされています)


一、稲庭と西馬音内は、こちらから遠い所にありますので、よくわかりません


一、上記(稲庭)は、昔、御居城とされていた所で、その他にも古城跡が多くありますし、私どもの先祖が城代を勤めた城もあります

   乱世の時代の話ですので、要害も兼ねて柵や砦を構えていた事と思います


(中略 杉宮についての説明がなされています)


一、私どもの先祖は、ご先祖様がご繁栄の時、重要な役目を頂き、大変な御恩を受けましたので、御遺書なども今も所持しております

  (八木)藤兵衛は、角間川へ移住してから代々、現在も(角間川給人の)組頭職を勤めております

  その他の者どもも、当時は70軒ほどの家を構える位の人数がいて、いずれも(佐竹氏に)重用された子孫です

  その他に旧臣の流れを汲むもので、当藩へ奉公している者がおります


一、義道様がそちらへ移られて牢人となってしまった所、(今の私達の)当主が常陸より移封された時に召し抱えられ、角間川に移住しました

  草が生い茂っていた地を頂き、知行地として切り開きましたが、開発に元手もかかりましたので、力及ばず不知行となりました

  「角間川給人」と言っておりますが、当藩の諸士と同様の扱いを受けております

  現在角間川は、商家が200軒程建っております


一、秀十郎様には別に書状を差し上げませんので、不束ながらよろしくお伝え下さいますよう、お願い申し上げます


  申し上げたい事が沢山ございますが、この辺にしておきます

  (津和野も)遠方ですので、何度も文のやり取りが出来ないかと思いますが、ご了承下さい

  暑い時期ですので、体調にお気をつけてお過ごし下さい


(文化5年)(6)月11日                 松岡平八郎常辰

                                 松岡平蔵常協

                                 杉沢市左衛門道遠

                                 落合忠左衛門直良

                                 八木藤兵衛道広


      小野寺彦作様

      小野寺元統様   人々御中



この書状は、再び惣左衛門から中島嘉助を経て送られたと思われますが


彦作元統がこの書状を読んだのは、その2年後の文化7年でございましたてれ(苦笑)




長々と書状の内容を書いて申し訳ないです@これでもバツバツ省略した方です爆弾


主要の内容を略して書けば、旧臣達の懐かしい気持ちや嬉しい気持ちが、うまく表現できない気がして


これだけ長くなってしまいました!ごめんなさい


やはり、先祖の時の話とはいえ、遠い津和野に主君であった血筋の人たちが今も健在で会った事を知って


旧臣の子孫達は、さぞ嬉しかった事でしょうねえ・・・・ハムスター


また、よっしーとごろーちゃんの子孫だから・・・ということで


当時のそれぞれの居城の様子を丁寧に説明してあげている所に感動を覚えましたハムスター


大森城跡の説明を読んで、文化年間も現在もさほど様子が変わっていないんだなあ・・・と思いましたてれ(苦笑)


スキー場はともかく・・・・ 爆弾


あと、八木藤兵衛道家が先頭になって行った百万刈輪の開拓 ・・・・結局は失敗していたんですねえひよざえもん びっくり


この書状を見て初めて知りました!汗



次回へつづきます


ちなみに、次も長々と書状の内容を書きまする・・・・ごめんなさい


し・・・・・次回でオノデラーズシリーズ終了です(たぶん!)






注;登場人物のやり取りは、残っている資料を基に、私めが勝手に会話を妄想しました爆弾


  そして、旧臣達の書状内容も、私めの意訳でございますので、ご了承下さい


  しかし、大筋はこんな感じだったと思って頂ければ幸いです




参考:今回の主要登場人物


小野寺彦作秀顕    津和野藩の家臣。小野寺康道の嫡流の子孫で、この時、江戸勤めをしていた。


小野寺元統道美    津和野藩の侍医。小野寺義道の子孫で、その中でも長老の立場であったと思われる。


小野寺秀十郎道経  津和野小野寺家の当主で、小野寺義道の直系の子孫。


中島嘉助         津和野藩高津湊に住んでいた人物で、何者かは不明。


               高津湊(現在の益田市)の商人か、または津和野藩の関係者と思われる。


               いずれにしても、津和野小野寺家とは縁が深い人物。


惣左衛門         石見津和野藩の高津湊から船を出していた、権現丸の船頭。


松岡平蔵常協     秋田・佐竹藩家中・角間川給人の一人。


八木藤兵衛道広    秋田・佐竹藩家中・角間川給人の一人。


               角間川給人の組頭でよっしーの乳兄弟であった八木藤兵衛道家の子孫。


               実は、平蔵の先祖の喜左衛門道景は、八木藤兵衛道家の実の兄であった。


地主喜右衛門     伊勢松坂に店を構えていた角間川給人たちの出入り商人。


藤田伝兵衛       秋田藩土崎湊の湊問屋。喜右衛門が宿舎としていた所でもあり、惣左衛門の取引先。


小野寺遠江守義道  羽州仙北の領主で、平蔵の先祖喜左衛門の主君。関ヶ原の後、津和野に流罪となった。


               ここでは、よっしーと呼ばれる事もある。


小野寺孫五郎康道  羽州仙北の大森城主で、義道の弟。兄と一緒に流罪となり、津和野に預けられた。


               ここではごろーちゃんと呼ばれる事もある。


参考文献 「横手市史叢書10 資料編 中世 補遺Ⅰ」 横手市史編さん中世部会編 平成20年3月31日

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2011-12-03 06:00:00

オノデラーズ エピローグその2

テーマ:オノデラーズシリーズ

前回までのあらすじ


文化2(1805)年における秋田藩の系図提出令によって、角間川給人の松岡平蔵の先祖と


津和野藩に住んでいる小野寺一族の先祖は、主従関係にあったのではないか?という話で


伊勢松坂の商人・地主喜右衛門と秋田土崎湊の湊問屋・藤田伝兵衛と津和野藩高津湊の船頭・惣左衛門の三人は盛り上がり


惣左衛門の伝手で、平蔵は津和野の小野寺一族にまずは連絡をつけることになった



~続きです~


秋田藩の土崎湊から戻った権現丸の船頭・惣左衛門は、津和野藩高津湊にいた中島嘉助という人物の家へ向かいました


「かくかくしかじかで、秋田におられるお方が、ご家中の小野寺様へ連絡を取りたいので


小野寺様にその旨、お伝えして頂きたいのですが・・・・・」


惣左衛門が言うと、嘉助は早速津和野城下に住む小野寺一族に連絡を取りました


その時の小野寺家嫡流(=よっしー系)の当主は、小野寺秀十郎道経と言いました


秀十郎を初めとする一族は、嘉助が秋田藩の家中より依頼された件について話し合いました


「今、江戸へ上がっている彦作殿と相談の上、回答をする必要があるのう・・・・」


と、嫡流家の長老であったと思われる小野寺元統道美がいいました


この元統は、津和野藩の侍医を勤めていたようです


当主の秀十郎は、まだ年が若かったので(10代そこそこ)、元統の言う通り、江戸の彦作へ連絡を取りました


彦作は、ごろーちゃん(小野寺孫五郎康道@大森五郎)の子孫で、諱は秀顕と言いました


その彦作に津和野からの連絡が届きました


「ふむ・・・・中島様からのご依頼であるから無碍には扱えぬが・・・・


あちらの方が秋田のどこにお住まいなのか分からぬと、こちらから連絡のつけようがない」


彦作が言うので、(もちろん嘉助を経由して)惣左衛門に伝えられました


惣左衛門は、また土崎湊へ行った時、その旨伝えました(こちらは、藤田伝兵衛経由でだと思われます)


その時、秋田から何か連絡があったらしいのですが、どういう内容だったのか、わかりません


いずれにしても、その連絡がまた嘉助・津和野経由で、江戸の彦作の所へ届けられました


それを受けて、彦作嘉助へ下記の内容の書状を送りました



私の先祖は、代々出羽の住人でありましたが、訳あって家運が傾き、当国(津和野)へやってきて


その後、亀井家に預けられました


その先祖は、次のとおりです


 兄 遠江守義道  こちらは嫡流  現在小野寺秀十郎の家です


    羽州仙北の城主で12万石だったという


 弟 孫五郎康通  この家筋は、現在私、小野寺彦作の家です


    12万石のうち、3万石を与えられ、同国の大森城主であったという


このことは、あなたとご縁が深いからお知らせ致しますが必ず他へは漏らしませぬように願います


先祖の事とはいえ、当時のことについてあまり言いふらすべきではないので、あなただけにはお知らせするのです


先に書いた通り、出羽の国で先祖と縁があった人がいるはずだと思っております


先方からよく声をかけてこられたと思っております


返答をする際は、現在私は江戸に詰めておりますので、こちらから詳しく書いたものを持ってきておりません


先方へのお返事(←欠字になっていますが、たぶん「返事」という意味だろうと勝手に解釈しました)


元統からあなたへ送りますので、その旨惣左衛門にも宜しくお伝え下さいますよう、お願い致します


(略)


小野寺略系


小野寺遠江守義道は、羽州仙北稲庭の城主で、慶長3年に訳あって、石州津和野・城主坂崎出羽守へお預けとなり


その後、坂崎が滅び、亀井家が津和野を拝領した時、引き続き亀井家へお預けとなった


義道の孫・源太郎義済の時、ご公儀よりお許しを得て、亀井家の家臣となった


義道、享年80歳で、正保2年に亡くなり津和野の本性寺に葬られる


法号は、前遠州太守江月院殿見松大居士




彦作の書状は、一度津和野の元統の所へ届けられ



略系について、別紙(彦作の書状の最後の部分+αか?)の通りですので、ご覧になって下さい


かの方へこの書状を送って下さいますよう、お願い致します


また、不明な点があれば、いつでもご連絡下さいとお伝え下さい


かの方が直接こちらに話を通したいのであれば、何度も文通をすることになると思いますので


その件についても、益田の人(惣左衛門の事だと思われる)へ御伝言下さいますよう、お願い致します



という元統の手紙と一緒に、中島嘉助の所へ届けられ、そして惣左衛門により、再び秋田へ伝えられました




後日書くと思いますが、亀井家で譜代同然で仕えていたと思われるオノデラーズの子孫達・・・・


それにしても、先祖の事を話に出すのは不都合だみたいな事を言っているあたりが


流罪になったことのある者の子孫の負い目でございましょうか?汗


後は、何故かよっしーは「稲庭城主」として伝えられていたようですし、・・・・・しかも12万石って!!!にひひ


まあ、確かに山北三郡と由利郡を併せたら、12万石くらいはなるかな?と思います


よっしーの感覚は、オノデラーズは、代々山北三郡と由利郡を勢力下に置いていたという認識を持っていて


それが子孫に伝えられていたのだろうと思うと、ちと興味がそそられますパー


・・・・・にしても、ごろーちゃんの3万石は多すぎるような・・・・汗



次回へつづきます




注;登場人物のやり取りは、残っている資料を基に、私めが勝手に会話を妄想しました爆弾


  しかし、大筋はこんな感じだったと思って頂ければ幸いです




参考:今回の主要登場人物



小野寺彦作秀顕    津和野藩の家臣。小野寺康道の子孫で、この時、江戸勤めをしていた。


小野寺元統道美    津和野藩の侍医。小野寺義道の子孫で、その中でも長老の立場であったと思われる。


小野寺秀十郎道経  津和野小野寺家の当主で、小野寺義道の直系の子孫。この時、10代ちょっとだったと思われる。


中島嘉助         津和野藩高津湊に住んでいた人物で、何者かは不明。


               高津湊(現在の益田市)の商人か、または津和野藩の関係者と思われる。


               いずれにしても、津和野小野寺家とは縁が深い人物。



惣左衛門         石見津和野藩の高津湊から船を出していた、権現丸の船頭。


松岡平蔵常協     秋田・佐竹藩家中・角間川給人の一人。


地主喜右衛門     伊勢松坂に店を構えていた角間川給人たちの出入り商人。


藤田伝兵衛       秋田藩土崎湊の湊問屋。喜右衛門が宿舎としていた所でもあり、惣左衛門の取引先。


小野寺遠江守義道  羽州仙北の領主で、平蔵の先祖喜左衛門の主君。関ヶ原の後、津和野に流罪となった。


               ここでは、よっしーと呼ばれる事もある。


小野寺孫五郎康道  羽州仙北の大森城主で、義道の弟。兄と一緒に流罪となり、津和野に預けられた。


               ここではごろーちゃんと呼ばれる事もある。


参考文献 「横手市史叢書10 資料編 中世 補遺Ⅰ」 横手市史編さん中世部会編 平成20年3月31日


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2011-12-01 06:00:00

オノデラーズ エピローグその1

テーマ:オノデラーズシリーズ

オノデラーズシリーズも終わりに近づいて参りました


しかし、サルが死去した前のお話については、あまり調べずに話を進めて参りましたので


機会があれば、その辺を書き直そうと思います



さて、今回は文化年間のお話でございますパー



文化2(1805)年・・・・・


秋田藩は、名君と讃えられた9代藩主・佐竹義和(よしまさ)公の時でございました


家中の者達に対して、各家の系図を提出するように命令が下りました!


後にそれを元に、初代義宣公から8代義敦公までの時代を記録した『国典類抄』が編集されたのでございますが・・・それはさておき


秋田藩仙北の角間川に住む、角間川給人の一人・松岡平蔵常協も、自分の系図を提出するために調査しておりました


平蔵の先祖は、山北(仙北)小野寺氏の家老で、松岡喜左衛門道景といいました


この喜左衛門よっしー小野寺義道)の領地にあったサル豊臣秀吉)の蔵入地から上がった年貢米を


一旦敦賀の蔵屋敷に陸揚げしていたらしいのでございますが


その敦賀の蔵屋敷と、京都出水にあった小野寺氏の京屋敷の留守居も勤めておりました


で、喜左衛門が敦賀の蔵屋敷にいた時、敦賀の糸谷宗貞という人物の娘を妻としていたことが


平蔵の調査で分かりました・・・が


「ん~~~むっ


平蔵は、そのことを詳しく知りたくても、200年余り前のことですので、どうしていいか分からず、悩んでいる所に


伊勢の松坂に店を構え、角間川に出入りしている商人・地主喜右衛門が、平蔵の屋敷にやってまいりました


「松岡様、何かお取り込み中のようで・・・・・汗


と、面会してくれた平蔵のちょっと疲れた顔を見て、言いました


「実は、かくかくしかじかで、どうして良いか?と思案していた所じゃあせる


と、平蔵は家人が入れてくれた白湯を飲み、溜息をつきました


「ほう、松岡様のご先祖様は、小野寺様という殿様の御家老で、敦賀の糸谷宗貞という者の娘御を嫁に貰っておられましたか・・・・


敦賀に糸谷と申す者がおりますかどうか、私めの伝手で探してみましょうか?パー


という喜右衛門の言葉を聞き、平蔵


「おお!是非頼むぞ!」


と笑顔で答えました


で・・・・地主喜右衛門の伝手で、糸谷宗貞の子孫が判明した訳ですが・・・


今回のお話はそれが主ではございませんので、その辺を省略致します(をい!)


喜右衛門は、その日の秋田藩での仕事を終え、いつも宿としている土崎湊の湊問屋・藤田伝兵衛の所へ行きました


「おお、喜右衛門さん!いらっしゃい!今回もゆっくりとしていって下さいパー


と、伝兵衛喜右衛門を労いました


喜右衛門が来る前に、伝兵衛は誰かと話をしていたらしく、先客は客間でまだ茶を飲んでおりました


「喜右衛門さん、こちらは石州の高津湊からいらした、権現丸の船頭・惣左衛門さんといいましてね・・・・」


と、伝兵衛から惣左衛門を紹介され、3名でそのまま世間話に入りましたお茶


「喜右衛門さんは、角間川からこちらへいらしたのですか?」


と、伝兵衛が訪ねると


「はい、いつもひいきにして頂いている角間川給人の松岡様の屋敷からこちらへ参りましたが


いや、どこの給人の方々も、御藩の系図提出令で、系図作りにお忙しそうで・・・・・」


と、喜右衛門は、自分が見てきた所の様子を二人に話しました


「松岡様のご先祖様は、昔、平鹿の方を治めておられた小野寺という殿様に仕えていたらしく・・・・


と話を続けると


「え?小野寺様?ひよざえもん びっくり


と、喜右衛門の話を聞いて、惣左衛門が驚きました


「どうなされました?惣左衛門さん」


伝兵衛惣左衛門にそう言うと


「いえね、うちの津和野の城下にも、小野寺様とおっしゃる御家がございまして・・・・


「ほう!」


伝兵衛は、惣左衛門の言葉に興味を持ちました


「そういえば、昔、平鹿の方にいた小野寺の殿様、どこか西の国へ流罪となられたと聞いたことがあるような・・・」


「では、その昔おられた小野寺の殿様のご子孫は、津和野におられる小野寺様かもしれませぬなあ・・・


と、3人の話が盛り上がりましたクラッカー


「明日以降、また角間川へ参りますので、その辺の所、松岡様に聞いてみましょうか?」


喜右衛門がいうので、伝兵衛惣左衛門は、喜右衛門が土崎湊に戻ってくるのを楽しみに待つことにしました音譜



その後・・・・


松岡平蔵の所で仕事を終えた喜右衛門は、話を切り出しました


「ところで松岡様、松岡様のご先祖様が使えておられた殿様は、確か小野寺様とおっしゃいましたか?」


「うむ、確か小野寺義道様とおっしゃるお方だったな・・・・関ヶ原の合戦後、石州へお預けの身となったと代々聞かされてきたが・・・・」


平蔵の答えに少々興奮した喜右衛門


「では、その石州へ行かれた義道様と、松岡様のご先祖様は、文のやり取りもなさっていたのでしょうか?」


と、更に踏み込んだことを聞きました


「うむ、松岡の家だけではなく、代々角間川給人の組頭を勤めている八木藤兵衛の所にも、その時の書状が残っておるし


角間川給人の殆どは、義道様からの文を持っておると思うぞ?


ただ、石州は遠い所故、そのうち音信が途絶え、その後どうなられたのか、分からないがのう・・・」


平蔵がいうので、喜右衛門津和野に小野寺を名乗る一族がいることを伝えました


「すると、義道様のご子孫は津和野でご健在と言うことか?」


平蔵は驚きのあまり、ついつい大きな声を出してしまいましたひよざえもん びっくり


「はい!きっとそのようにと思いまする」


と、平蔵につられて、喜右衛門も声を大きくして答えました


「松岡様、実は土崎湊の藤田伝兵衛の所に津和野藩高津湊からやってきた、船頭の惣左衛門なる者がおりまして


その者を通せば、もしかして津和野におられる小野寺様と文のやり取りが出来るのではないでしょうか?


と、喜右衛門は提案しました


「そうじゃのう・・・・」


ご先祖様が慕っていた主君のご子孫との文のやり取りが実現出来たら、さぞ良いことであろうな・・・と、平蔵は思いましたが


「しかし喜右衛門、先方のお名前を知らずに文を送るのもどうかのう・・・・・」


平蔵の言葉ももっともなことなので、喜右衛門


「では、とりあえず惣左衛門からあちらへお話だけでも通して貰い、その後文のやり取りをなさっては如何でしょうか?」


と提案しましたので


「ふむ、では喜右衛門、宜しく頼む!儂は、藤兵衛や他の親類にも、この話をしておくパー


と、後のことは喜右衛門に任せることにしました


喜右衛門は、伝兵衛の所へ戻り、伝兵衛惣左衛門にその旨話をしました


その後、惣左衛門津和野の高津湊へ戻りました




秋田藩の系図提出令がきっかけで、話は思わぬ展開となりました!


さて、津和野にいるオノデラーズの子孫達と連絡が取れるのでしょうか!?


話は、次回に続きます






注;登場人物のやり取りは、残っている資料を基に、私めが勝手に会話を妄想しました爆弾


  しかし、大筋はこんな感じだったと思って頂ければ幸いです



参考:今回の主要登場人物


松岡平蔵常協     秋田・佐竹藩家中・角間川給人の一人。


地主喜右衛門     伊勢松坂に店を構えていた角間川給人たちの出入り商人。


               (下記参考文献によると、平蔵が糸谷宗貞の子孫に出した書状には「喜左衛門」と書いてあったようですが


               その後津和野へ出した平蔵の書状には「喜右衛門」と書いてあるので、ここでは「喜右衛門」と標記致します。)


藤田伝兵衛       秋田藩土崎湊の湊問屋。喜右衛門が宿舎としていた所でもあり、惣左衛門の取引先。


惣左衛門        石見津和野藩の高津湊(現在の益田市)から船を出していた、権現丸の船頭。


松岡喜左衛門常道  平蔵の先祖。小野寺義道の家老を勤めていた。


小野寺義道       秋田藩の平鹿地方の方を治めていた領主。


               平蔵の先祖・喜左衛門の主君で、関ヶ原の後、津和野に流罪となった。


               ここでは、よっしーと呼ばれている。




参考文献 「横手市史叢書10 資料編 中世 補遺Ⅰ」 横手市史編さん中世部会編 平成20年3月31日

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2011-11-26 06:00:00

オノデラーズその45 ~招かざる者~

テーマ:オノデラーズシリーズ

延宝9(1681)年6月・・・・


久保田(秋田)藩を視察するため、幕府から使者3人がやって来た時、ある男が直訴しましたひよざえもん びっくり


その男は、「小野寺休意道綱」と名乗っておりました


直訴で提出した言上状の内容は、以下の通りです(ちと長いです)


謹んで言上致します


私め、藤原朝臣小野寺休意道綱が訴えましたのは・・・・

そもそも源頼朝公の時、小野寺禅師太郎道縄()の末裔である重道が下野よりこの地(仙北)へ入部し、遠江守義道まで9代82年間

羽州仙北と由利と最上の一部酒信(鮭延)の三カ所の守護屋形となり、今の横手の城を居城としておりました

それなのに、将軍家康公が秀頼公の代官となり、天下を差配した時、石田(治部)少輔が謀反を起こし、関ヶ原に出陣しました

家康公は、直ちに石田を討とうとした時、私めの先祖遠江守は、あまりにも貧乏で、出馬の用意が出来ず、参陣致しませんでした

その上、重い病を理由に家老家来を使わして、家康公に弁明させましたが、将軍からひどく不興を買い

しかも使わした家老どもは若輩者でしたので、全く申し開きすることが出来ませんでした

それだけではなく、家来の中で心変わりをした者がいて、事実でないことを家康公に申し上げたので

誰も遠江の言うことを取りなしてくれませんでした

無実の罪を着せられた遠江は、津和野の坂崎出羽守に預けられ、嫡子(左京のこと)2代に渡り、ご公儀よりお扶持を頂きました

そのうち、江戸東叡山の南光坊天海僧正に頼って、無実の罪を着せられたことを訴えましたが

不運にも元の領地に戻ることはなく、左京が死亡してから、1,2名いた遠江の子が亀井殿の所に置いて貰うことになりました

しかし、小野寺の者は、その時まだ江戸へ入ってはならないと言われていたので、江戸への出入りは出来ませんでした


このように申し上げている私めは、遠江の娘の子、つまり末孫にあたります

父は駿河大納言に仕えていた松崎将監と申します

駿河大納言が改易になってお預けのみになったので、(側に置いて貰うのは)迷惑であろうと思い

京へ上がって牢人し、名を佐々木甚九郎と改め、後に長兵衛と号し、隠遁生活を送っておりました

元来、松崎家は小野寺家の血筋ですので、遠江とよしみがあったこともあり、結婚後小野寺と名乗りました

さらに、甚九郎は御当家の譜代の家臣ですので、江戸のことはよく存じておりました

左京が領土回復の訴えを起こした時、甚九郎を京から江戸へ使わして、江戸に住まわせたのです

僧正様へ直接左京の訴えをお伝えしたのは、甚九郎です

甚九郎は、乙酉の年中に亡くなってしまったと聞いております


さて、私めですが、赤子の時から母方の祖母に育てられました

先程申し上げた不幸がありましたので、相続する知行もなく、22,3歳の頃に江戸へ上がり

巳の年まで牢人として江戸に住んでおりましたが、先祖のことがあり、どの大名家にも仕官致しませんでした

7年前の延宝3年の飢饉で大変苦労をし、2年間何とか凌いできましたが、ますます困窮を極めました


そこで、当地の佐竹殿の家中で、旧臣達が多く仕官しているので

昔、遠江に仕えていた家来の末裔が沢山いる角間川を目指して、秋田へ行きました

皆、最初は親切にしてくれたのですが、どいつもこいつも馬鹿な者達でして、身勝手ながら私の世話をしなくなりました

そこで、今度は秋田(久保田)城下に黒澤味右衛門と甚兵衛、今泉曽右衛門など、2,3人の旧臣がいました

仙北が改易になった時に、津和野まで遠江に供をした子孫です

今は佐竹殿に仕えています。

彼らへ「佐竹殿が領有している20万石は、78,9年間先祖遠江の領地であった所もあるので、知行地はいらないから

お扶持だけでも下さるように、申し上げてくれ」と、何度も書状を送っても、彼らは断りました


私は武家に生まれたので、今更武士以外の事をして生きていくことは出来ません

幸いにもお使者の方々が、秋田の地を巡検されると聞きましたので、渡りに船の心地で以上の事を申し上げました


(中略;あなた達なら私の言っていることが理解できるだろうから・・・という感じのことを書いている)


また、皆様方に訴状を差し上げましたので、公方様にも直接この言上状をお渡し下さい

おそらくお三方の御慈悲で、「佐竹殿から(休意に)少しお扶持を与えるように」と

ここの家老達へ一言言って下されば、大変大変有り難きことでございます



上の言上状の内容のとおり、延宝5(1677)年に、よっしーの孫と称する、小野寺休意が


小野寺家の旧臣の子孫が多く住んでいる角間川にやってきて


まあ、きっと「主君面」で旧臣の子孫達を困らせたんでしょうねえ・・・(と、私は勝手に妄想しました)


で、角間川で相手にされず、今度は久保田城下に住んでいる旧臣の子孫達へ


「佐竹殿の領地の一部は、元々俺のじいさんのものだった!だから、知行地ををくれとはいわないから


俺に扶持を与えるように、お前等から佐竹殿に頼んでくれ」


という書状を送って、こちらも相手にされなかったので、


丁度、幕府から巡検使がやって来ていたので、「俺の貧困をなんとかして!」と直訴して、騒ぎを起こした


・・・・という事でしょうか?@ぶっちゃけた話



己鏡(おのれかがみ)

(↑クリックすると、大きくなります)


オノデラーズの宿老家の1つであった、松岡家が持っていた、小野寺家の系図の写しに


確かに、よっしーの娘が松崎将監という者に嫁いでいるように書かれていますパー


(ただし、この出来事があってから書き加えられた可能性もあるのかしらん??)


家が貧乏だからよっしーが関ヶ原に遅参したとか


天海に訴えたのがよっしーではなく、息子の左京になっていたりしている所はありますが


大体の内容は、よっしーの身内でないと分からないことまで知っていると言う印象を持ちました!


が、突然やってこられた旧臣の子孫達にとっては、どうやら「怪しいヤツ」に過ぎなかったようです汗


当時の八木藤兵衛であった八木道安(よっしーと乳兄弟だった藤兵衛道家の孫)


休意が巡検使に直訴した事の件について(たぶん藩を通じて)問い合わせがあったらしく


その回答書の写しが残っております


それによると・・・


突然やって来て「世話をしてくれ」と言われ、「牢人の世話は出来ない」と言いました

他の者達と話し合って、「最上(新庄)へ帰えられた方がいい」などと休意に言いましたが

拒絶され、とやかく言って私の家に20日ほど滞在した後、喜福院という出家した者の所に

1年半程原文は「壱年中程」もいました

後に、新庄の小野寺儀右衛門の親類で不幸があったので、休意に私の家来を付き添わせ

新庄に送ってやりました


・・・・とまあ、最初から相手にしなかったけど、休意があーだこーだ言って、暫く角間川で世話になっていたようです汗


で、どうやら休意は、その後、儀右衛門の所へ送られたみたいですひよざえもん びっくり


この頃の儀右衛門は、亡くなる直前だったと思いますが、元気だったみたいです


息子の主水は、病を煩っていた時期だったようですウム…。


休意が新庄に送られた後、儀右衛門の家来である井上助右衛門が、主人二人の代わりに藤兵衛に書状を送っております


それによると・・・・


「角間川へ行っても駄目だし、公儀(ここでは新庄藩の事)へあなたのことを報告したが

『ここには置いておくな!』というお達しなので、他の所へ行くように」と、休意に言いました

ですので、必然的にそちらへ行くのではないか?と思いますが、そちらで拘わることは一切無用に願います

何分、ご迷惑をおかけするようなことをすると思いますので、そうなると後々旦那様(藤兵衛)の為になりません

他の方々にもそうお伝え下さい


というような事が書かれています


儀右衛門側でも「相手にするな」と言っているのですから、よっしーの孫だという信憑性がなかったのかもしれません


その後、休意はまた藤兵衛の所へ行ったようですが、その時も相手にしなかったら、姿を消したようです


・・・・で、休意の直訴に及んだんですねえ~ひよざえもん びっくり


直訴後の休意はどうなったかは・・・・知りません爆弾


ま、もし休意が本当によっしーの孫でなかったら・・・・・


オノデラーズが改易し、よっしーが亡くなった頃までの話をどこで仕入れてきたのか???


かなり詳しく知っているので、驚きでございます汗


また、休意が本当によっしーの孫だったとしたら、「母方の祖母に育てられた」と言っているので


津和野で暮らしていたことがあると言うことになりますが・・・・


実は、慶安元(1648)年5月3日付亀井能登守茲政(よっしーの世話をしてくれた津和野藩主ですね~)の書上に


当時津和野で預けられていた罪人3人の事が報告されています


一人目はよっしーの事二人目は左京の事が書かれていて、


二人については、何年何日にどういう病気で亡くなって、幕府から検死にやって来た使者の事まで書かれています


で、3人目は・・・・海野五左衛門という人物のことが書かれています


↑ちなみにこの人は、慶安元年5月3日時点では、生きています


海野五左衛門について、「駿河大納言様衆にて御座候」とかかれています


そして、承応2(1653)年6月10日付八木藤兵衛宛(じゃなくて、実際は息子の五兵衛宛か?)儀右衛門の書状によると


家光の三回忌により、流罪になっていた者が赦免されるという連絡が津和野から届いたらしく、それには・・・


石州の亀井能登殿に預けられている


 仙北源太郎   左京の子です

 小野寺角兵衛  孫五郎の子です(←きゃ~ごろーちゃんの子供だわ~きゃぁ~

 海野五左衛門  この人知りません


の三人が赦免され、能登守殿の家来になるそうです


と書かれています


海野五左衛門 この人知りません」という書き方に、「そりゃそうだよね?」と、ついつい吹いてしまいましたが


いずれにしても休意がよっしーの本当の孫であってもなくても


この海野五左衛門が、何か鍵を握っているように私は勝手に妄想しまてしまいした爆弾


次は、話を文化年間に一気に飛び、(ようやく)オノデラーズシリーズフィナーレに突入しますパー




注;八木藤兵衛と井上助右衛門の書状を読むのが難しく、かなり意訳してしまいました


  原文とかけ離れている可能性が大ですので、ご了承下さい@「ご了承下さい」って・・・・えー


  あ、もちろん休意の書状も同様です爆弾




参考文献については、こちら をご覧下さい


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