ボランティア甲冑武者サークルSacT と歴活

自作甲冑やイベントの自主開催もしています。H22~はSacTとして三増合戦の寸劇を担当させていただいてます。その他個人的史跡巡り等々の記事も。武者イベントご依頼ご相談お気軽にどうmimasugassen1569@gmail.com


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昨日は大坂城へ。

天守閣はいわゆる鉄筋コンクリの復元なわけですが、やはり天守閣の有無は観光客誘致には絶大な差であることを実感。



外国人観光客が6~7割、内訳はそのうち中4割、韓3割、タイ・フィリピン2割、インド系1割な印象。

意外にも豊臣への嫌悪感もないようだ。売店の店員さん?も昔はあったけど、最近は違うみたいと言っていた。

展示内容は秀吉が中心、観光客には真田でもてなし、というところだろうか。
火縄銃関係の展示は充実しているように思う。が、現在の街中に豊臣大坂城の跡みたいなものがないのだろうか?その辺の展示は皆無だったゆえ不明。

あれだけの建造物はさすがに復元でも観光の目玉になるね。
石垣もしっかりしてるし。打込矧だけど。あれ、石垣は直してないのかな。





あと本丸広場で観光客と写真撮ってた真田(有料)と、三増信玄公衣装で写真撮りたかったw
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去年から葛山氏元の出自ってどこなんだろう?って考えてた。


元々、戦国期葛山氏は駿河守護今川家の支配下に置かれ、興国寺や韮山を領した北條早雲とは非常に近い存在だったと考えられる。共に今川家臣として。

そこから北條早雲が小田原あるいは相模を奪取して、パワーバランスが崩れる。北條早雲の側室が葛山女であり、その子が幻庵長綱。長綱は小机城主である。葛山家の当主は氏堯ー氏広という流れがあり、氏堯はあまりにもハッキリしていない。わずかに三通の書状があるだけだそうだ。一方、氏広はかなり書状もあり葛山当主としてハッキリとした活動の足跡がある。しかし主自がハッキリせず、早雲の子とも、早雲二男の氏時の子ともいわれる。いずれにせよ北條家の一門に準ずる存在ではあったようだ。そのため、北條氏綱が今川義元に離反して戦を仕掛けた河東一乱では北條方に着いたのも当然だったのだろう。




さて、有光友學氏の著書において、その次の葛山家の当主・氏元の出自に興味深い記述がある。

大森氏の傍流である竹下氏の出自とされている。大森氏と葛山氏は領地も近く、ともに婚姻を繰返し同族とされている。その一派に竹下氏というのが、駿東北方にあった。おそらくは葛山氏に併合されたのだろう。武力か‥謀によって。
それを今川が引っ張り出してきた。
時期は河東の乱末期である。
北條家からの離反工作と考えられる。
河東の乱末期には、葛山家は北條から離反していたとされるのが今の主説だ。
となると、乱後に駿府において、葛山氏元が冷泉為和を擁して歌会を開き、人脈を広げたことも‥
駿東において今川家の支配影響が強くなったことも全ての辻褄があう。

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画像についてなのですが

先日、某お城系投稿サイトにおそらく私の撮影したものであろう画像が転載されておりました。

別に怒るとか憤るというわけではありませんが、なんかモニョっとした気分‥

ですので画像には転載禁マークをつけることにしました。
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つづき。


では葛山城の中心部に踏み込み‥


踏み込むところがまたギミック。
二の丸虎口ですが階段に折れ(屈曲)があります。敵が勢いよく攻めてこられない工夫です。また上には土塁を盛って、往時は更に板塀で囲まれていたわけで、その板塀の窓や場合によっては上から弓矢や鉄砲で射かけてくるわけです。



二の丸虎口を上から。
土塁がお分かりかと思います。
かなり堅固な守備をここでしていたことが伺えます。



二の丸からちょっと横に逸れて、本丸の裏(北側)に出ます。
畆状に堀が切られているのですが、さらに竪堀が連続してあります。この連続した竪堀は、甲斐武田系城郭の特徴のひとつなのだそうです。



正規ルートで本丸へ。
東屋がありますがその裏側に土塁があり、土塁の下が前述の畆状堀切です。



ざっくり?葛山城をご紹介いたしましたが、首都圏からも近く、車でしたら10分程度のところに公営温泉もありますので、山城を歩いて温泉‥なんてよいのではないでしょうか。

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つづき。

大手口から葛山城登城を開始します。
すぐに大手曲輪、東曲輪を抜け‥



袖曲輪がぐるっと東~南方にかけて見られます。
ちなみにこの看板は前にはなかったですが、作られたのですねえ。



切り株の奥がやや円形に凹んでおるのですが、狼煙跡なんだそうです。
北東方面に向かって開けています。北東方面ということは武田か北條か‥



東の堀切にでました。
葛山城の山城部分は、城の中心部の東西を二重堀切で区切って守っています。その二重堀切の東側です。
(このあたりの遺跡感、不自然な感じの地形、テンションあがります(°▽°)



これは反対の西の二重堀切の五号堀です。
かなりの高さがあり、これでも通常的には数mは埋まっているわけですからかなり険しい守備が敷かれていたのでしょう。

さて、次回は城の中心部へ。
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昨年からぼちほち歩いている葛山城。
駿河東において、平安末期からこの地に居した武家・葛山氏の居城です。
現在残るのは戦国時代天正年間の根古屋式山城の姿。

冬は山城を観るには雑草がなく、地形をよく観察できるので山城を歩くには絶好のシーズンです。また、大きすぎる山城は観察するどころか疲労で集中力が散漫になりがち。20分くらいで登りきれる葛山城は、ビギナー~中級者向けといえるかもしれません。しかし遺構は素晴らしいです。高名なS大学のO教授(大河ドラマの考証でも有名)が著書で絶賛されております。

山城はまた写真撮影が難しく、画像になってしまうと起伏などが分かりにくいのです。その辺の練習も兼ねて歩いてきました。




まずはこの俯瞰図を元に歩いていきます。




山麓居館部分です。
館を囲む方形土塁があり、中の広さや土塁の高さを実感できます。
館といっても主殿を中心とした複数の建造物をまるっと土塁で囲むわけですので、かなりの広さです。



葛山氏の菩提寺である仙年寺さんの山門ですが、葛山館から移築の伝があるそうで、門の内側に消えそうなマジック?書きがありました。



さて、では東側へぐるっと回り、東出丸の大手口から登城いたします。

(その2に続く)
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この冬の間、こんな展示がありました。
駿東の三市が連携した企画展です。

戦国時代を網羅するこの企画、まさにツボ。
とくにツボだったのが沼津市さん。
もろに武田、今川、北條の国境地帯だっただけあって非常に事情は複雑。



ぜひぜひまたやってほしい企画です。
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つづき

小田原城の包囲を解いた武田は、帰路、鎌倉鶴ヶ丘に向かうように見せながら、平塚まで出て相模川を北上、方向を変えた。
このとき、追撃する小田原本隊との挟撃を画策していた滝山の氏照以下の北条勢は武田がどちらのルートをとっても対応できるように待機していたと言われるが、確証はない。また、旧来は三増峠山頂に陣取り、武田を待ち伏せたと言われるがこれも確証はなく、様々な説がある。


武田は進軍時の3倍の速度で移動した。進軍時は近々の村々を襲いながら進んだから、進軍時が遅かっただけであるが。

そして両軍は三増峠で対峙する。

信玄机下の有力武将は馬場信房、内藤昌豊、山県昌景、真田信綱、昌輝、昌幸、浅利信種、曽根昌世、三枝守友、一条信龍、逍遥軒信廉、武田勝頼などなど、高坂昌信を除くこの時期の最強布陣であった。
対する北条は
滝山の氏照、鉢形の氏邦、玉縄の綱成、ほか千葉、上総、佐倉、江戸、岩槻、小机、韮山、松山、忍、川越、古河、太田金山らの戦力であった。



まず、近隣の津久井城の後詰めを警戒した信玄は小幡信貞を津久井に差し向ける。さらには山県に5千の兵で別働隊を征かせ、馬場隊に先陣、浅利隊に殿、内藤に小荷駄を任せた。
結果、殿隊長の浅利信種が北条綱成隊の銃撃に戦死したものの、おおむね武田の勝利と言われている。
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