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オリンピックも時代と共に、変わっていく。その競い合う種目や判定も変わってきた。そんな中で、最終日に必ず決勝をおこなうこととされているのが大障害飛越馬術競技だったそうだ。
トラックにフィールドに、各試合会場に世界最高の技と術を競う合うオリンピックの最後に、最も優雅な馬術競技はむしろ、熱いオリンピックの激闘の静かなエピローグとして、まるで華やかに、そして優雅なページェントとして行われる。
もともと馬術競技というのはヨーロッパで発生し、発展したものであり、伝統的にそれは騎兵将校が主流であり、ヨーロッパ貴族の生活の一部のようなものとしていたというところがある。各国軍隊の歴史に照らし合わせてみて、兵科として騎兵隊が存続しえた時期に開催されたオリンピック馬術競技ということなら、それは1932年のロサンジェルス大会がその最後のものと言えるかもしれない。
そのような状況下の昭和7年(1932年)の第10回ロサンジェルス・オリンピック大会の最終日。8月14日。抜けるように青いロスの空の下、10万余の大観衆の見守る中で、一人の若い騎兵中尉が、信じがたい飛越(ジャンピング)を繰り返し、まさに人馬一体、歩調整斉流麗、端麗優美の妙技を展開して優勝を成し遂げたのだ。
それが日本の男爵・西竹一だった。
優勝後の記者会見で西選手は「WE WON」と言った。つまり、この優勝は、自分一人ではなく、ウラヌスと人馬一体になって勝った、という意味だったのだ。
後年、第二次世界大戦の硫黄島の激戦でその生涯を閉じた西竹一男爵。この天才的馬術と、天衣無縫な個性に、桁外れの勇気がある優雅なオリンピアンの物語を我々は思い出さずにいられない。
リヴィエラ・カントリー・クラブ正面に揃う各国騎兵たち。
徳次郎は、いわゆる義和団事件、映画「北京の55日」で描かれた北清事変時の北京特命全権大使、西大使として登場している。
明治35年(1902年)7月12日に竹一は生まれた。
幼いうちに兄二人が他界。三男竹一は男爵家の跡取りとして学習院幼稚舎から初等科、府立一中(現日比谷高校)へ進学。父親の跡を継ぎ、外交官になるであろうと、思われていたが突如陸軍幼年学校に入ると、彼は言い出した。
幼年学校の3年の時、竹一は乗馬に関心をいだくようになる。大正11年、西は世田谷の騎兵第一連隊付き生徒になる。
馬術家・ニシの誕生である。それと同時に一代のエピキュリアン、思う存分に悦楽人生を謳歌したバロン西の誕生だ。
大正13年10月25日。西は陸軍騎兵少尉に任官。22歳。同年12月27日、西は川村伯爵家の令嬢・武子と結婚する。
この頃、プレイボーイ振りの発展と共に、竹一の馬術の技は急速に上達していった。
習志野でクライスラーを飛越する西と愛馬
彼の馬術に関するエピソードは数限りなくある。
騎兵学校の学生の頃、彼はフランス産の名馬アイリッシュ・ボーイに騎乗して2メートル10センチという信じ難い飛越記録を残す。その頃、2メートル以上を飛越した騎手は世界に10人いないと思われていたものだった。この時、西はちゃっかり仲間の学生にカメラを持たせて自分の劇的な瞬間を記録させている。2メートル10センチの記録は日本では未だに破られることがないものなのだ。
その頃、昭和初頭には習志野の騎兵学校に馬術の名手であり、日本を代表するような教官達がいた。
馬術課長・遊佐幸平中佐は、後にロス五輪の馬術団監督になった名物男で、フランスのソミュール騎兵学校に留学した人物だった。山本寛少佐も同じソミュールからイタリアのピネローロ騎兵学校に留学した人物。そして、後年愛馬精神を称えられた城戸俊三もフランスに留学していた。その他の教官に今村安大尉、吉田重友大尉、印南清大尉と多士済々の顔ぶれであり、今や伝説の日本馬術の歴史的名手たちが揃っていたのである。
ロス五輪からの帰国の船上。西中尉、吉田少佐、今村少佐、奈良大尉、山本少佐、カイゼル髭がよく似合う遊佐大佐、もしかすると城戸俊三の撮影か。
ドイツ式、フランス式、イタリア式と乗馬法が分かれるなかで、西は自分の流儀を生み出していたのである。
後年、バロン西に親しく馬術を教えられた清浦保正はこう語る。
「とにかく西さんの飛越は、天下一品。疑いもなく天才でしたね。特に馬の首を正面にある障害にグングンとせり立てて行くワザは実に見事でしたね。ハミが長くてね。手綱を思い切り短く持って飛越の瞬間なぞ、まるで馬の首にまたがっているように見える程前に乗り出していましたからね。あれじゃ普通なら着地の時に放りだされちまうんですがね。西さんは強力な脚力があったのでああいう乗り方ができたんですね。それもあの大きなウラヌスに乗って完成した術なんですね」
清浦氏と同じく民間人としての数少ないバロン西の弟子であった牧田清志氏も語る。
「ウラヌスは大きな馬だったなあ。僕は当時慶応の予科生だったけど、人の手を借りなければあの馬には乗れませんでしたよ。西さんの教えは厳しかった。非常に難しい障害のセットを考案してね。それは越せるまでは絶対に許してくれなかったなあ」
ウラヌスとの出会いは、ロス五輪に共に出場した恩師今村少佐がイタリア留学の折にイタリア人も乗りこなせないという、とんでもない馬に出会う。このことを西に伝えると、即行西はイタリアに出向く…が、その旅もふるっているのだ…。
初めて西とウラヌスの出会い…気性の荒い馬だったはずのウラヌスが、西の元に歩み寄ってきたのだという。背中を鼻先でこすったりしながらなんと親愛の情を表したというのである。イタリア産とも、フランス生れのアングロノルマン種の巨大な騙馬とも語られる愛馬ウラヌスの運命は、彼自らが決めたともいえそうだ。
ロス五輪の2年前、西はこのウラヌスと共に、ヨーロッパ各地の馬術大会に参加し、数々の好成績を残している。