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2006-11-24 18:41:16

■The Good German グッド・ジャーマン

テーマ:映画

■The Good German グッド・ジャーンマン

●ジョゼフ・キャノンの小説、邦題「さらば、ベルリン」が原作、ジョージ・クルーニー主演、監督ステーヴン・ソダーバーグによる「The Good German」。Trailerは、ちょっとそそられるサスペンスタッチ…如何な出来だろう。

原作の舞台は、1945年4月30日。ヒトラーは総統官邸の地下室で自殺…アメリカ軍、ソ連軍の包囲の元に総攻撃を受け、不気味に耀きを放った第三帝国ベルリンは崩壊し、街はまさに廃墟と化しつつあった。






アメリカ人ジェイク・ガイスマーは、第二次世界大戦下ではCBSのベルリン駐在員として、多くの戦争報道をものにしてきたジャーナリスト。彼はどうやら表向きにはポツダム会談、戦後処理取材を名目にした特派員として、再びベルリンに着いた。
彼が目にしたベルリン…かつての駐在時の様子は皆無。戦火の後に露になってくる瓦礫の山、朽ちかけた建物、至る所に腐乱した遺体が転がり、生きる術を失った空ろな人々の姿、戦後処理以前の闇と影と混沌があった。

彼には戦前のベルリンで忘れることの出来ない過去があった。当時、逢瀬を重ねた女がいた。が、彼女は人妻だった。もしかして生きているのであれば、とその女リーナ・ブラントを探し始める。やがて、リーナとの再会は果たされるが、夫を探し続ける妻リーナの変貌振りは…。戦争の最中に起きた出来事…そして夫の行方…







同時に、歴史的なポツダム会談の取材に向かう彼が出会うのは、紙幣を抱え込んだアメリカ兵士の死体。この事件の裏には、何かがある…リーナの不可解な様子、…行方不明の夫は…彼の疑問に答えを渋る軍部…謎が謎を呼び、新たな疑問を広げる中で翻弄されながらも、糸口を探るジェイク。そこに関わってくるサポート役の軍人。扮するのはトビー・マクガイア。
煙草1箱で何が買えるか、食べ物を漁る子ども、闇市の中に潜む企み…

グレアム・グリーンの後継者とも称されるキャノンの原作をソダーバーグは、どうアレンジしたのか
昨今のソダーバーグは、重要な映画製作者の一人ではあっても映画「トラフィック」以降、彼は何を発したか。そこそこに楽しませてはくれたものの、そんなものを望んでいない、のだ。「トラフィック」以降、仕事持ち過ぎではないか。あれこれ引っ張りだこはわからないではないし、そこここ引き受けるのも、ま、それもいいだろうが。放ってしまった観があるゲバラは2部作になると発表になるし、おいおい!の状態。彼はオスカーを受賞した監督として、あまりに多くに製作に手を出し過ぎではないのか。越えてくれよ、と願うばかり。







一方、クルーニーの出演作への見極めは、間違いがない…か?!。中堅どころ俳優のスタンスだったから許されたことも多々あるかもしれない。俳優として、インディーズ匂いの映画製作者としても題材も的確に押さえてきた観があるものの、そろそろ大看板背負えるマジな主役級もどーんと来いでなくては、と思うが。今回の作品、締まらないエンディングで終われば困ったことだ。折角の「グッドナイト&グッドラック」が泣く。あれはホントに好きであります。

さて、女優は貫禄もついて参りましたぞのケイト・ブランシェット。ドイツ人リーナ・ブラントを演ずるために、ラフなドイツのアクセントを習得したとも言われている彼女の存在感は要求通りに際立っている模様。
で、注目の一人は、トビー・マグワイアだろう。スパイダーマンというコミックのヒーローに果敢に挑戦し、その物語に奥深い悩むヒューマンな場面を現したヒーロー像を効果的に演じてきたのではないか。「スパイダーマン3」まで引っ張れるとは思わなかったのが、どうだ、という優れた俳優として頭角を現してきている彼がクルーニーにどう迫るか。で、渋さ極まる役者が脇を固めます。ケイト扮するリーナの夫役にはドイツ出のモデルから俳優へ移行しているクリスチャン・オリヴァー(クリスチャンでいいんだろーかドイツは)。




スチール、Trailerを見る分には、魅力的なメロドラマを挟み込んだサスペンス、スリラー仕立ての物語が、何を言わんとするのか、そこはわからないな~。
何で、今これなのか、とゆー辺りが伝わらない。ジェームズ・M・ケインの原作の映画化、ジョーン・クロフォードに1945年アカデミー賞主演女優賞をもたらしたマイケル・カーティス監督作の「ミルドレッド・ピアース」や、「マルタの鷹」「カサブランカ」…といったフィルムノワールを意識している、かといった声も聞こえてくる。ソダーバーグが40年代フィルムノワールを模倣して、スタイリッシュに撮ってみました!なんてことで終わらないことを願って、待とうか。
ジェイクは陰謀、腐敗と裏切りの渦に巻き込まれ、挙句の果てには…

脚本は、「フェイク」「クイズ・ショウ」等のポール・アタナシオ。この方、次は「エデンの東」のリメイク、ですと!(2006年/製作国アメリカ/アメリカ公開2006年12月15日NY, LA, Toronto/拡大公開2007年12月22日~2007年1月19日)/日本公開2007年かな)


▲Trailer


▲Official site
オフィシャルでもTRAILERはご覧になれます。


●Directer:Steven Soderbergh スティーヴン・ソダーバーグ
●Screenwriter:Paul Attanasio ポール・アタナシオ
●Cast:George Clooneyジョージ・クルーニー Cate Blanchett ケイト・ブランシェット Tobey Maguire トビー・マグワイア Beau Bridges ボー・ブリッジス Ravil Issyanov ラヴィル・イシアノフ Robin Weigert ロビン・ワイガート Leland Orserリーランド・オーサー Christian Oliver クリスチャン・オリヴァー Don Pugsley ドン・パグスリー Tony Curran トニー・カラン
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2006-11-23 22:39:02

■硫黄島からの手紙 バロン西その①

テーマ:GALLERY


これは、2度目のロサンゼルス・オリンピック後の1984年、故久保田二郎氏の取材記事を元に多少の表記、言い回し等を変え、更に当時の情報を加えたたものとご承知置きください。尚、現在使用されるロサンゼルスは→ロサンジェルス、と久保田氏表記のままで。

***********************

オリンピックも時代と共に、変わっていく。その競い合う種目や判定も変わってきた。そんな中で、最終日に必ず決勝をおこなうこととされているのが大障害飛越馬術競技だったそうだ。
トラックにフィールドに、各試合会場に世界最高の技と術を競う合うオリンピックの最後に、最も優雅な馬術競技はむしろ、熱いオリンピックの激闘の静かなエピローグとして、まるで華やかに、そして優雅なページェントとして行われる。

もともと馬術競技というのはヨーロッパで発生し、発展したものであり、伝統的にそれは騎兵将校が主流であり、ヨーロッパ貴族の生活の一部のようなものとしていたというところがある。各国軍隊の歴史に照らし合わせてみて、兵科として騎兵隊が存続しえた時期に開催されたオリンピック馬術競技ということなら、それは1932年のロサンジェルス大会がその最後のものと言えるかもしれない。



昭和7年、日本には騎兵将校がいた。そして貴族という一般平民とは違った身分を持った階級が存在した。
そのような状況下の昭和7年(1932年)の第10回ロサンジェルス・オリンピック大会の最終日。8月14日。抜けるように青いロスの空の下、10万余の大観衆の見守る中で、一人の若い騎兵中尉が、信じがたい飛越(ジャンピング)を繰り返し、まさに人馬一体、歩調整斉流麗、端麗優美の妙技を展開して優勝を成し遂げたのだ。
それが日本の男爵・西竹一だった。
優勝後の記者会見で西選手は「WE WON」と言った。つまり、この優勝は、自分一人ではなく、ウラヌスと人馬一体になって勝った、という意味だったのだ。



彼の天才振りは、つとに世界馬術界に知られているところだった。しかし、一番若いバロン西が優勝するとは。上官であり、恩師であった今村少佐は第3番目に出場したが、残念にも失格してしまう。吉田少佐は練習中の負傷で出場できず、一番若い西中尉に総てが託されたのだった。そして彼は奇跡をおこなったのだ。

後年、第二次世界大戦の硫黄島の激戦でその生涯を閉じた西竹一男爵。この天才的馬術と、天衣無縫な個性に、桁外れの勇気がある優雅なオリンピアンの物語を我々は思い出さずにいられない。


リヴィエラ・カントリー・クラブ正面に揃う各国騎兵たち。

バロン西の父親・西徳二郎は鹿児島県出身の士族。帝政ロシアの首都ペテルブルグ大学で学んだ後に、外交官になる。その後、外務大臣になり、明治28年に男爵位に列せられる。
徳次郎は、いわゆる義和団事件、映画「北京の55日」で描かれた北清事変時の北京特命全権大使、西大使として登場している。
明治35年(1902年)7月12日に竹一は生まれた。
幼いうちに兄二人が他界。三男竹一は男爵家の跡取りとして学習院幼稚舎から初等科、府立一中(現日比谷高校)へ進学。父親の跡を継ぎ、外交官になるであろうと、思われていたが突如陸軍幼年学校に入ると、彼は言い出した。
幼年学校の3年の時、竹一は乗馬に関心をいだくようになる。大正11年、西は世田谷の騎兵第一連隊付き生徒になる。
馬術家・ニシの誕生である。それと同時に一代のエピキュリアン、思う存分に悦楽人生を謳歌したバロン西の誕生だ。
大正13年10月25日。西は陸軍騎兵少尉に任官。22歳。同年12月27日、西は川村伯爵家の令嬢・武子と結婚する。
この頃、プレイボーイ振りの発展と共に、竹一の馬術の技は急速に上達していった。


習志野でクライスラーを飛越する西と愛馬

彼は、馬術に専念するために陸軍騎兵学校に入学。当時、既に1メートル75センチの身長と70キロの体重があり、柔道、剣道の有段者であった彼は、特に腰幅が人並みはずれて広く、足が長く、脚力が非常に強かったという。バロン西の有名な写真に、オープンカーを楽々と飛越している写真がある。それは一見楽々のようだが、いったん馬がその足を引っ掛けたら人馬転倒という大変なことになる非常に危険な荒技だ。万事派手好みで、ショーアップの大好きな西は、よくこの演出をしたものだという。勿論それには十二分の自信と技能がなければ出来ることではない。

彼の馬術に関するエピソードは数限りなくある。
騎兵学校の学生の頃、彼はフランス産の名馬アイリッシュ・ボーイに騎乗して2メートル10センチという信じ難い飛越記録を残す。その頃、2メートル以上を飛越した騎手は世界に10人いないと思われていたものだった。この時、西はちゃっかり仲間の学生にカメラを持たせて自分の劇的な瞬間を記録させている。2メートル10センチの記録は日本では未だに破られることがないものなのだ。
その頃、昭和初頭には習志野の騎兵学校に馬術の名手であり、日本を代表するような教官達がいた。
馬術課長・遊佐幸平中佐は、後にロス五輪の馬術団監督になった名物男で、フランスのソミュール騎兵学校に留学した人物だった。山本寛少佐も同じソミュールからイタリアのピネローロ騎兵学校に留学した人物。そして、後年愛馬精神を称えられた城戸俊三もフランスに留学していた。その他の教官に今村安大尉、吉田重友大尉、印南清大尉と多士済々の顔ぶれであり、今や伝説の日本馬術の歴史的名手たちが揃っていたのである。


ロス五輪からの帰国の船上。西中尉、吉田少佐、今村少佐、奈良大尉、山本少佐、カイゼル髭がよく似合う遊佐大佐、もしかすると城戸俊三の撮影か。

そしてこれらが皆、バロン西の上官であり先輩であり教官であった、と同時に一番若く気ままで無鉄砲な貴族・西竹一のよき理解者でもあったのだ。西の最も得意とした飛越においては、特に彼の素晴らしい資質が発揮された。西は特別に大腿部の力が強いのを利用して騎座の姿勢で馬の背をグングンと前に押すという積極的な騎乗法をあみ出したのである。それは当時全く彼の我流の乗り方だったが、現在ではこれが主流になっているのである。
ドイツ式、フランス式、イタリア式と乗馬法が分かれるなかで、西は自分の流儀を生み出していたのである。

後年、バロン西に親しく馬術を教えられた清浦保正はこう語る。
「とにかく西さんの飛越は、天下一品。疑いもなく天才でしたね。特に馬の首を正面にある障害にグングンとせり立てて行くワザは実に見事でしたね。ハミが長くてね。手綱を思い切り短く持って飛越の瞬間なぞ、まるで馬の首にまたがっているように見える程前に乗り出していましたからね。あれじゃ普通なら着地の時に放りだされちまうんですがね。西さんは強力な脚力があったのでああいう乗り方ができたんですね。それもあの大きなウラヌスに乗って完成した術なんですね」

清浦氏と同じく民間人としての数少ないバロン西の弟子であった牧田清志氏も語る。
「ウラヌスは大きな馬だったなあ。僕は当時慶応の予科生だったけど、人の手を借りなければあの馬には乗れませんでしたよ。西さんの教えは厳しかった。非常に難しい障害のセットを考案してね。それは越せるまでは絶対に許してくれなかったなあ」




幻の名馬・ウラヌスは体高181センチ。この天馬との出会いは、後にバロン西の生涯を通じてひとつの運命的なものになって行くのだ。

ウラヌスとの出会いは、ロス五輪に共に出場した恩師今村少佐がイタリア留学の折にイタリア人も乗りこなせないという、とんでもない馬に出会う。このことを西に伝えると、即行西はイタリアに出向く…が、その旅もふるっているのだ…。
初めて西とウラヌスの出会い…気性の荒い馬だったはずのウラヌスが、西の元に歩み寄ってきたのだという。背中を鼻先でこすったりしながらなんと親愛の情を表したというのである。イタリア産とも、フランス生れのアングロノルマン種の巨大な騙馬とも語られる愛馬ウラヌスの運命は、彼自らが決めたともいえそうだ。
ロス五輪の2年前、西はこのウラヌスと共に、ヨーロッパ各地の馬術大会に参加し、数々の好成績を残している。


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2006-11-22 22:49:47

■硫黄島からの手紙 バロン西その②

テーマ:映画

リヴィエラ・カントリークラブで練習中のバロン西。愛馬ウラヌスと共に。乗馬服、ブーツ、帽子、馬具などは無論特注品。

乗馬の天才として、1932年のオリンピック馬術に見事優勝した西竹一。そして後年戦車隊隊長として硫黄島でアメリカ軍の降伏の呼びかけにも応ぜず、敢然として突撃玉砕した西竹一。この二つの事実をもってしてバロン西は実に立派な人だったと言えるのかもしれない。
しかし、もしこのような言い方が許されるなら、この二つの名誉は、ただ西竹一一人のものではあるまい。他にもオリンピックの勝者としての栄光に輝いた人は多いし、そして彼らの中から、あの悲惨な戦場で雄々しく散った方(同じロス五輪競泳百メートル自由形で、銀メダルを獲得した河石達吾中尉も硫黄島戦死…等)も決して少なくはないはずだ。

心のなかに実に長い間バロン西へのあるいわく言い難い想いがあったのだ。それは、ある憧憬にも似た、ほほえましいような人間的な親しさを覚える感情…。

1983年の秋、ロサンジェルスで長い間の我が想いにその現地でひたるべく、オリンピックの行われたコロシアムを訪ねてみた。正面のタワーの入口のところには銅のプレートが嵌め込まれていた。1932年に行われたオリンピックを記念して、優勝者名が刻み込まれたプレートだ。そこには「Takeichi Nishi Japan」の名がちゃんと51年の歳月を経て残されていた。

ロサンジェルス市内の目抜き通りにクラシックな8階建てのビルがある。ロサンジェルス・アスレティック・クラブだ。この創立103年を経たクラブは、日本ではちょっと想像することができない位格調が高く閉鎖的である。日本を立つ前からひとつの予感があった。
「あのクラブになにか、かならずバロン西の痕跡があるに違いない」間違いなかった。オリンピック・ルームの正面に、バロンの例の得意のオープンカー飛越の写真がちゃんと保存展示されていたではないか。


LAタイムズに掲載された西とウラヌス

もう一つの予感も的中した。市立図書館に籠って1932年8月の「LAタイムズ」をかたっぱしから見ていった。突然一面いっぱいにバロン西とウラヌスの写真が飛び込んできたじゃないか。
今、東京でバロン西には一体どこに行ったら会えるだろう。アメリカで、一時期敵国だったそのアメリカで、50数年間、バロン西はちゃんと存在していたのである。アメリカはバロン西を憶えていてくれたのだった。
それは栄光あるオリンピアンとしてだけか。勇壮なる軍人としてか、否。違うのだ。
ならばなぜ我々はバロン西にかくも熱い想いをいたすのだろうか。
そう、それは彼ほど際立った、酔漢で、優雅で、豪華で、思い切りのいい高貴なる不良青年を我々は他に知らないからだろう。
人は言うだろう。あれだけの財産と地位があれば、そりゃ立派に遊んでみせるさ。そうかもしれない。確かに西家はそれらの条件に適っていたと言えるだろう。


バロン西に授与されたLA名誉市民証

話は明治45年3月17日の青山斎場に戻ることになる。この日この時、西竹一の父親である男爵・西徳二郎の葬儀が神式で行われた。今、ここにその荘重なる葬儀への参列者の顔振れの一部を記してみよう。首相・西園寺公望公爵、山県有朋、松方正義、桂太郎、井上馨、大山巌、板垣退助、斎藤実、黒木為楨、原敬、伊東祐亨、牧野伸顕、東郷平八郎、乃木希典、樺山資紀、伊集院五郎…等々。これは大変な顔振れである。

近代日本の陸海軍官民にわたる国家的重鎮の見事なまでの参列者たち。これは西徳二郎がなした功績とその内容、重みの一番よい証拠であろう。この後世に語り継がれるべき大葬儀の喪主は、なんと当時10歳の竹一少年だった。この少年は父親の死後、男爵位と共に、麻布櫻田町の自宅とその周辺1万坪(3万3000平方メートル)という広大な土地と50軒の賃家、熱海と鎌倉の別荘、莫大なる各種株券という巨大な財産を引き継ぐことになるのである。

後に西家の財産が一般公開された時に250万円という数字が出たことがある。大正末期の頃である、俗に百万長者という言葉があった頃、250万円というのは、現在の一体いくら位だろう。1ドルが2円50銭だから、米貨にして100万ドルだ。現在の貨幣価値にすると、相当な資産家であったことは間違いない。
これだけの財産があれば、たしかに誰でもが一流の遊び人になれるだろう。ただし、西竹一の如き徹底した、そしてあくまでも優雅な、気位とディグニティーを持った高貴なる遊び人の真似はちょっとできないだろう。

西竹一少年は子供の頃からまさに自分の思うままに育てられたようである。当時の山の手の上流社会の男の子が手にするように、まず空気銃に凝り、後にカメラに凝るようになる。それも街の一般の子供のようにでなく、あくまで貴族の子弟であるから常にその身辺には書生、運転手、執事、女中、といった使用人付きなのである。
特に凝り性の竹一少年はコダック・カメラから、邸内に暗室まで作って現像焼付けまでをしたものだった。



音楽に対する趣味では、バイオリンを習うという名目で、海軍軍楽隊の隊長として、また後年国民の間でも親しまれた内藤清五を邸内に呼んで、そのバイオリン演奏を愉しんだという。
年頃になれば、たちまちスピード狂のモーター・ファンになってしまう。最初、彼はアメリカのヘンダーソン社製の4気筒オートバイを手にいれ、これは後にハーレイ・ダヴィッドソンにまで発展していく。
自動車のほうも少尉候補生の頃、アメリカ・リバティー社製を乗り回し、後にクライスラーになり、リンカーンになるといった具合だ。

また、バロン西の酒にまつわるエピソードも実に数多い。清浦氏は語る。「なにしろ酒は大変な強さだった。僕なぞ学習院の中東部の4年生位だったのだが、習志野で馬術を教わって、それから酒宴ですよ。
騎兵隊の将校というのは皆すごい酒飲み揃いだったけど、西さんはとりわけ豪傑でしたからね。僕はヘネシーのスリー・スター・ブランデーというのを初めて飲まされたなあ。僕も酔って、立ち上がると、オイ、どこに行くんだ。ハイ、ちょっとお手洗いに…。馬鹿ッ!男は便所でションベンなんかするもんじゃないゾ。ここでしろッ!て言って、2階の窓からさせられるんですからねえ」



彼の本邸は現在の麻布のテレビ朝日そばにあった。六本木から西麻布にかけての広大な地所は西家のものだった。
千葉の習志野の騎兵連隊から戻ったバロン西は麻布に洋風なモダンな新居を作る。櫻田町の本邸は当時英国大使から帰ってきた吉田茂が借りて住むことになる。
この頃になるとバロン西の遊びっぷりは一段と際立ったものになってくる。牧田清志氏は語る。
「いや、西さんは豪傑な人柄だけど、実は大変にデリケートな人でね、だけどそういったところを決して人に見せないという人でしたね。まあ、馬場馬術そのものを理解していただかなくては西竹一の馬術そのものはなかなか理解できないと思いますが、当時のイタリア式馬術をもとに西さん独自の流儀を生み出した素晴らしい馬術家でしたよ。スタイルも精神も大変にお洒落なかたでね。フランス、エルメスの馬具、エルメス特注のブーツを履いてね。拍車もフランスや英国のや、総て特別製でいたよ。一見なんの苦もないようなことだけれど、実は大変難しいことを、さりげなくやってしまうという、そのダンディズムですな」


西自身が愛用したエルメスの特注ブーツ

バロン西の真骨頂は、外国においてますます発揮される。
彼はオリンピック出場を目指し、世界最高の名馬を求めてイタリアまで6ヶ月の休暇を貰って旅立っていく。西は陸路やインド洋経由の道を選ばず、横浜港から客船で一路ロサンジェルスに向かう。2年後のロス・オリンピックの会場の下見も兼ねてのことだ。ロスから、彼は大陸横断鉄道でニューヨークに出て、そこから大西洋航路の船でヨーロッパに渡った。


ダグラスと船中で

この船中、彼は生涯の親友となるハリウッドの大スター、ダグラス・フェアバンクスとメリー・ピックフォード夫妻と知り合ったのだ。一代の剣戟王ダグラスもその豪傑さで闊達な人柄で伝説的な人物だ。二人はたちまち意気が合い、エレガントなフランス航路の一等船客用甲板を借り切って、素っ裸で二人してロープを張り、ターザンごっこをして遊んだという…大西洋の真っ只中で。



後にダグ夫妻は東京麻布の西邸に泊まり込んで毎晩銀座で一大酔虎伝を繰り広げることになる。
ロサンジェルス・オリンピックの時、馬術競技チームは数ヶ月前にロス入りして、リヴィエラ・カントリー・クラブのポロ・グラウンドで練習を開始した。もっともそれは午前中のこと。バロン西は、ロスでロールスロイスを買い入れ、親友ダグ夫妻のパーティ等…選手宿舎なぞにはお帰りになることはまずありゃしない。ハリウッド名物のワイルド・パーティで彼の自由闊達な明るい社交性は、常に華やかな主人公だったのだ。


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