原のようなのなかで。

 ヘミングウェイ「老人と海」(福田恒存訳、新潮文庫)。

ぼくは、まだどんよりとした暮色の道を歩きながら、途切れることのない家々の戸口のそばを横切り、そこに書かれているそれぞれの表札の形とふしぎな名前を読みとって、ぼんやり何か考えていた。

街はまだまだきのうの残り火のように、街端にぽつんとした落とし物の屑が転がっていた。2羽のスズメがその屑を漁っていた。

「老人はかつて夫婦づれのまかじきの1匹を釣りげたときのことを思いだした。餌を見つければ、雄はかならず雌に先にそれを食わせる。そのときかかったやつも、もちろん雌のほうだったが、めちゃくちゃにあばれまわり、恐怖のあまり死にものぐるいの戦いをいどんできた。そのためにすぐへばってしまったが、そのあいだじゅう、雄は雌のそばを離れず、綱を横切ったり、雌と一緒に周囲の海面を旋回したりしていた」

そしてぼくは、草加の街を形成する静かな目抜き通りに出ると、遠くのビルが連なる山々の尾根の見える、夜が明けるはじめるぼんやりとした灯りを見た。何かのしるしみたいに、海原の果てで、ぴょんと跳ねる生き物を見た。あれはまかじきのつがいではないか、とおもった。

この海原は、いつだってごたついたもり上がりを見せて、朝からじっとしていない。やがて小舟の一群が見え、きょうの漁を占うように動きはじめた。

「老人は心配した。なにしろその尾は大鎌のように鋭くて、形も大きさも大鎌そっくりだった。老人は雌のほうを魚鉤(やす)で引き寄せ、こん棒でなぐりつけた。さらに、その剣(つるぎ)のように鋭いくちばしの、ぎざぎざしたところを鷲づかみにし、こん棒で脳天をつづけさまになぐりつけると、魚の体は見る見るうちに変色して、鏡の裏のような色になってしまった」

ぼくは人生の第4楽章にさしかかり、いまさらじたばたしてもはじまらないまかじきの運命みたいなものだな、とおもった。ぼくは戦ってきたけれど、大して期待したほどの成果は得られなかった。こんなものか、とおもったとき、まかじきの物語のなかに、ぽっかり浮かんで見えたものがあった。

それは何だろう?

ぼくも彼らとおんなじさ。やがてこん棒でなぐられて天に召されるのだろう。「あいつは最後まで逃げようとしなかったな。おれの出あったいちばん悲しい事件だ。あの子も悲しそうだった。おれたちは雌にあやまって、すぐばらしてしまったっけ」

「やつの賭けは、わなや落とし穴や奸策をのがれて、あくまであの暗い海のなかに深くもぐっていることだ。ところで、こっちの賭けも、あらゆる人間に先がけて、いや、世界中の人間に先がけて、どこまでもやつを追いかけていくことだ。というわけで、おれたちは、こうしていま一緒にいる。昼以来ずっと一緒にいるじゃないか。おたがいひとりぼっちで、だれひとり助けてくれるものもいないってしまつだ」

だからといってぼくは、まかじきの弱音をはく声を、いちども聴いたことがない。まかじきはまかじきで、人間と出くわして、運が悪いなんておもっていないだろう。彼らは戦かうことが、そもそも生きることなんだ。

よく考えてみれば、人間たちは、まかじきの覚悟を知らないのだ。

まかじきだって、人間と戦って負けるなんて考えちゃいない。彼らはもともと負けるようには造られていないのだ。人間だってそうさ、「人間は、負けるように造られてはいないんだ。殺されることはあっても、負けることはないんだ。Man is not made for defeat. A man can be destroyed but not defeated」(「老人と海」より)。

朝が明けると、もうそこには興味をひく風景はなかった。半径わずか1000歩の円のなかをぼんやりと歩いただけで、退屈まぎれにまかじきの物語をちらっとおもい出しただけだった。しかし、朝はいつだって退屈しない。明け染める空の下で、人間はくだらない空想をするのだ。