泄物まみれだったリは?

  鹿島茂氏の「パリ時間旅行」(中公文庫、1999年)。とくに「香水の誕生あるいは芳香と悪臭の弁証法」のぺージはおもしろい。

  ヨーコと店で珈琲を飲んでいたら、香水の匂いをぷんぷなさせた女がそばを通り過ぎた。ヨーコは鼻がきくので、彼女の後ろ姿をじろっとながめた。

「いやーねぇ」という。

「香水か?」

「そうよ。お父さんのたばこも嫌いだけど、香水も嫌いよ」という。

「そういえば、ヨーコは香水つけないんだね」というと、

「つけてほしいの?」

「そうじゃないけど、……」

まだ匂っていた。いつだったか、鹿島茂氏の本を読んでいたら、香水は肌に直接つけるのではなくて、ハンカチとか、気の利いた装身具、――たとえば手袋とか衣裳小物にそっとつけるといいそうだ。それはあくまでも「そっと」だ。

仏文学者鹿島茂氏の「パリ時間旅行」(中公文庫、1999年)という本を読んでいたら、香水の誕生は、じつは、からだの匂いを消すか隠すかするためではないという話がつづられていたとおもう。ぼくは、風呂にも入らない女性たちのからだが匂うので、それを消すために香水を用いていたと、ずっとおもっていた。

それは違うようだ。

18世紀のパリがいったいどんなだったか、よく知らないけれど、そのころのパリは、悪臭が頂点に達していたらしい。最大の悪臭のもとは、排泄物だったという。パリのあちこちが排泄物まみれになっていて、そのころは、下水道設備はおろか、風呂やトイレさえなかったといわれている。そのころ、排泄の処理はどうしていたのだろう? 

トイレがない?

家庭にはトイレはないけれど、大きな壺を置いていたという。

そこで用を足し、いっぱいに溜まると窓を開け、道行く人に合図を送りながら、舗道めがけて流し落とす。庶民は毎日、壺に入れた排泄物をアパルトマンの窓から舗道に流し落としていたというのである。下にいる人は、めいわくな話だ。

「お父さん、やめてよ! こんなとき。珈琲がまずくなるわよ」とヨーコがいう。

ヨーコには悪いが、ぼくはそのつづきを頭のなかでいろいろ想像していた。

それでなくても、みんながおなじことをするので、パリの街の下水溝も詰まり、汚物が散乱し、雨でも降れば、汚物もいっしょに道に流れ出すという始末。それがあたりまえになってしまい、どこもかしこも、パリの街は異臭紛々と化す。それでもパリの人びとは平気だったらしい。それに文句をいったのは、多くはパリをおとずれた外国人だったといわれている。

こんな理由で、芳香剤というものが出現し、部屋に異臭がたちこめてもいいように暮らしていたという。異臭を異臭ともおもわない暮らしが、あたりまえだったそうだ。そういう人びとは、身を清潔にするという習慣がなかったのだろうか、と考えたくなる。第一、家庭に風呂場というものがなく、トイレというものがなく、……というのはちょっと現在のわれわれには考えにくい。

17世紀のイギリスもそうだった。

ストラトフォード・アポン・エイヴォンのシェイクスピアの生家にも、トイレがなく、風呂場もない。一日に使う水は、ちょっと大きなタライに入れた一杯の水があるのみ。これで家族全員のからだを清めていたのである。それはペストを恐れたためだった。

そういうわけで、パリの人びとも、当時は入浴の習慣がまったくなかった。からだを水で清めること自体、宗教的にもご法度だったからだ。医学的にも忌むべきこととされていた。

だから、生まれて一度も入浴したことのない人びとが住む街だったといっていい。とくに男性は汗をかいて、むせ返るような異臭をまき散らしていても、精力絶倫な男性として歓迎されていたというから恐れ入る。

もとよりパリの街は、オランダと違って、ローマ帝国の影響を受けなかったため、沐浴、灌漑、下水道という水の文化を知らずにいた。石を積み上げてできた街で、そこにどうやって生活水を供給していくことができるか、そういうことをまったく考えないですむ文化をつくった。

香水は、まずフランス革命前の宮廷からはじまったようだ。18世紀後半、マリー・アントワネットを中心とするルイ16世の宮廷では、肌の匂いをひきたたせるための装置として香水が使われたという。バラ、スミレ、ラベンダー、ローズマリー、黄水仙など、植物性の香水だった。それは、公共空間の無臭化といった大がかりな考えではなく、ブルジョワ的な構造社会のひとつとして根づいて行ったにすぎない。

そしてやがてイギリスから清潔な印象をあたえる風呂がパリのホテルにお目見えし、これをはじめとして、イギリス製のものならなんでもありがたく受け入れるイギリス崇拝者なるものが出現する。イギリスのサマーセットにある「バース」は、ふるくからローマ様式の温泉を利用した公衆風呂があった。それと関連しているかも知れない。

それでも庶民は、18世紀の末まで、からだを清潔にすることはかならずしもいいこととはされなかったという。肉体を罪悪視するキリスト教の影響が根強く、裸になること自体、忌むべきこととされた。多くの人びとは、生まれて産湯に浸かって以来、一度も身を清めることなく一生を終える時代がながくつづいた。

風呂好きの日本人からすると、なんという汚い文化なのだろうとおもってしまう。日本は、産業革命も興らず、ブルジョワ社会もつくらず、むかしは軍隊もなかったけれど、みんな風呂に浸かり、一日の汗と労働の疲れを落とし、男も女もいっしょになって風呂を楽しんだ。

パリをおとずれた外国人は、道に排泄物をあふれさせる文化を見て仰天したとすれば、東洋の日本をおとずれた外国人は、口をそろえて、なんという身ぎれいな国民なのだろう、とおもったに違いない。外国人をあきれさせたのは、男女の混浴だったろう。「混浴は野蛮だ」という外国人の要望にこたえて、明治天皇は入浴「心得」を出した。それ以来、首都圏では混浴は下火になったけれど、地方では、依然としてまだ混浴がある。

それで何か問題になったという事例は聴かない。