SOO スー わたなべ健責任編集(旧練馬のミドル) 

市民の力をここに。わたなべ健責任編集

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私達の社会。私達が考える。私達が決める。市民の力をここに。
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約1年前、2015年5月1日付の『広報東京都』 で、石神井川の河川整備計画(変更)への意見募集 が告知されておりました。私は同年5月14日(木)に電子メールで意見を申し入れました。このたび、2016年5月11日付の『ねりま区報』同計画の変更 が告知されており、寄せられた意見と東京都の「対応・基本的な考え方」 がホームページで公開されました。
私の意見とそれに対する東京都の考え方は以下の通りです。

1.河川整備計画の目標に関する事項:洪水、津波、高潮等による災害の発生の防止又は軽減に関する事項:洪水対策について

渡邊)安全を確保する目標について、1時間あたり75mmの降雨量(将来的には100mm)を想定しているが、計画で提示されている表2-1「石神井川の主な水害(被害棟数100棟以上)」を参照してもわかる通り、最近の水害はその想定では防ぐことができない。2005年、2010年の実績、並びに温暖化の進行等を勘案すれば、120mm程度を目標にすべきと考える。

東京都)「東京都内の中小河川における今後の整備のあり方について最終報告書 」(平成24(2012)年11月 中小河川における今後の整備のあり方検討委員会)において、今後の中小河川整備の目標整備水準はどの程度とすべきかを評価しております。その中で、1時間あたり120mmも含めた6ケースの整備水準から、整備効果、費用対効果、超過洪水時の減災効果、実績降雨の溢水解消効果について総合的に検討を行い、区部では1時間あたり75mm降雨の整備水準に引き上げを行うことが望ましいという提言を得ました。その後、委員会の提言を受けて都が策定した「中小河川における都の整備方針~今後の整備方針~」においても、区部では時間最大75mm降雨に目標水準を引き上げることとしております。

2.河川の整備の実施に関する事項:河川維持の目的、種類及び施行の場所:河川の適正な利用及び流水の正常な機能の維持、並びに河川環境の保全に関する事項について

渡邊)地域住民との連携について、植栽管理や河川清掃のみならず、危険を伴わない範囲の平時の河川環境の見回り・通報について、幾つか項目を絞った上で地域住民にも担えるような住民参画の仕組みを導入することが、行政の効率化の観点からも望ましいと考える。

東京都)いただいたご意見は、地域住民との連携および行政の効率化に関する貴重なご意見として参考にさせていただきます。

3.河川情報の提供、地域や関係機関との連携等に関する事項:河川情報の提供に関する事項について

渡邊)河川に関する様々な情報について、インターネット上で水位や降水量などをオープンデータ形式で提供し、官民協働、ICT活用の推進を図るべきだと考える。

東京都)水位、降水量のデータについては、インターネットで公開中の「東京都水防災総合情報システム 」において提供しております。計画にあるとおり、はん濫危険情報の発表、インターネットや携帯電話による雨量、水位などの洪水情報の提供・充実、区市町村による警戒退避態勢の充実、防災訓練など、流域自治体や関係機関と連携してソフト対策を推進していきます。

2.については、私が代表を務める「地域練り回り隊 」の活動を通して考えたものです。練馬区が実施予定の「ねりまちレポーター」のような仕組みを想定しておりました。東京都でも「ねりまちレポーター」のような仕組みが実現するといいと思います。

関連記事:ねりまちレポーター
http://ameblo.jp/tsuyoshiwatanabe/entry-12127464237.html

3.は既に取り組まれていることをより深めていくことを期待します。

問題は1.です。
2005年や2010年には、実際に1時間当たり100mmを超える降雨量でそれぞれ921棟、660棟もの浸水被害が出ています。1999年辺りから明らかに時間最大雨量の規模が大きくなっているのです。


(『荒川水系 石神井川河川整備計画』P8より抜粋)

他方、『東京都内の中小河川における今後の整備のあり方について最終報告書』や『中小河川における都の整備方針~今後の治水対策~ 』を読むと、降雨量の増大を認識しながらも詳細な経済効果の検証などにより方針を出していることがわかります。
自助・共助での対応がポイントになってきそうです。

(2015年5月19日)

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5月13日(金)の夜から15日(日)まで、毎度お馴染みボランティア東北ファミリアボラバス で南三陸へ。
2月から4月にかけては、とにかくワカメの収穫に追われる南三陸の浜でしたが、さて5月はいかに。

今回のお手伝い先は、歌津韮の浜の小野作商店/小野寺さん。私は2回目でした。
初日土曜日は、2人のお孫さんの運動会。絶好の「かけっこ日和」となりました。昨年は応援に行けなかったという皆さん、今年は我々がしっかり(?)留守を守りました!



お手伝いの内容は、ホヤの種付け用に牡蠣の貝殻に穴を開ける作業。「ホヤのおうち」は牡蠣殻なのです。普段は他の仕事の合間にする作業で、12月くらいまでに大量の「ホヤのおうち」を作るのです。ホヤの種付けをして海に入れるのが1月。収穫まで3年から4年かかります。4年物は大きく、3年物は柔らかいとのこと。休憩時間にホヤ、そして天然ムール貝を堪能しました。ありがとうございます。







小野寺さんのかつての作業場も津波で流されてしまいました。震災直後は当時の工場にお手伝いで入っていた方々と小野寺さん一家の総勢18名が一部屋で過ごしたこともあるとか。一時は海の仕事を辞めてしまおうかとも考えたようですが、何とか再開。またお手伝いに行きますよ!

さて、南三陸はワカメの季節からツツジの季節へ。
2日目に我々が朝食をとったのは、ツツジの名所田束山 (たつがねさん)。満開、絶景でありました。











そして、いつもの海鮮BBQ。


(ホタテ、ホヤ、ネギ…)


(カマ焼き)


(タコの唐揚げ)


(いつもありがとうございます。椎彩杜の椎茸)


震災遺構は、まだ姿を変えておりません。


(石巻市立大川小学校)


(気仙沼向洋高校)

※ おまけ。ボランティア仲間からフォークリフト免許皆伝のお祝いを頂きました!


(2016年5月17日)

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本書は、日本陸軍の少将であった岩畔豪雄氏のオーラルヒストリーと岩畔自身が著した1941年の日米交渉についての回顧録を収めたものである。
オーラルヒストリーは、木戸日記研究会と日本近代史料研究会によるもので、伊藤隆、木戸孝彦、丸山真男などが聞き手に名を連ねており、一旦、1977年に『岩畔豪雄氏談話速記録』として日本近代史料研究会が非売品として発刊したものをベースに若干の修正を加えたものと紹介されている。



異能の軍人の証言録(等松春夫

Ⅰ 陸軍省整備局・関東軍特務部-計画立案、満州国、二・二六事件
Ⅱ 陸軍「謀略」課長-機密費、紙幣偽造、対支交渉
Ⅲ 異国を舞台の知謀戦-インド独立運動、ビルマ撤退

補論 私が参加した日米交渉
まえがき
第一 日米交渉の発端
第二 日米諒解案の起草
第三 日米交渉の展開
第四 私の帰国前後に於ける日米問題
第五 日米交渉に関する雑感



岩畔氏が繰り返し述べていることが3つほどあるので、まずそれを紹介しておきたい。

1.「行動が悪いものは精神も悪い」
陸軍最大のクーデターである2・26事件以前に、陸軍急進派による3月事件や10月事件といった不穏な動きがあった。その際、日本政府並びに陸軍は桜会を中心とする首謀者諸氏に対して断固たる処置を取らなかったがために、より大勢の純粋な将校たちを2・26事件で処分しなければならなかった、という主張。「精神は可なるも行為が悪い」とし、青年将校の人気取りとも言える甘い処分でクーデター未遂を見過ごしてしまった上層部の判断を痛烈に批判しているもの。岩畔氏は、初期の段階で「行為が悪ければ、精神も悪い」とすることなく、後から事が大きくなった際にだけ峻厳な態度を取るのは不公正である、と述べている。

2.日本の革命家
日本の革命家として「最高の人物」は、大杉栄と北一輝だとしており、他には麻生久の平和的な革命にも一目置いている。

3、シンガポールと南京の虐殺
この2つは日本陸軍の「致命的な汚点」としている。特にシンガポールについては、日本軍に対する華僑のレジスタンスよりも、それを過剰に気にした結果、5000人もの華僑を拘束して銃殺した、その結果がレジスタンスに繋がったとしておい、そんなことをされれば、「誰だって(抵抗者に)なりますよ」と述べている。

その他に印象的だったのは以下の点。、

・当時の陸軍士官学校のレベルは、海兵と東大よりも高かった。
・陸大での戦術の授業は全てゼミナール形式で、1週間に朝まで宿題にかかることが2~3日あったという話。現在でいうところのビジネススクールのケーススタディのようなものか。
・東条英機の「一番悪いところ」として、ふらっと現場を視察しては「大砲が1門故障しているので、すぐに直せ」というような些末なことを指示することによって、組織が取り掛かっていたもっと優先順位の高い事案を滞らせたという指摘。
・日独伊三国同盟について、時の外相有田八郎氏は終始変わらず反対であったという述懐。
・ただの重しだけになっている人を「偉い」と言ってはいけないとし、西郷隆盛を「バカ」といって痛烈に批判していること。

日米開戦を回避する日本政府の外交努力としては、1941年前半の野村駐米大使と開戦直前の近衛首相の役割が知られているが、どちらかといえば後者がクローズアップされることが多いのではないか。しかし、実際には独ソ開戦や日本の南部仏印への進軍が始まる前の野村交渉が事態打開の最後の機会であったのかもしれない。岩畔氏の手記を読むと、その印象を強く持たされる。日独伊三国同盟を有名無実化しようという米国の思惑と、それを強かに撥ね付けながらも日米諒解案を起草していくプロセスには臨場感が溢れている。

また、岩畔氏はルーズベルトの手腕として幾つか評価しているが、その中に今日的に一つ気になる点がある。それは、

「米国を比較的軽易に戦争に駆り立てるための用意として自衛権の拡張解釈を採用することを忘れなかった。デモクラシー政治下に於て戦争に突入することは特に困難であるが、自衛権の侵害に対する防衛戦争だけは例外に属する。それ故るルーズベルト政権は日米交渉にも現れているように自衛権を重要視すると共にその解釈を拡張することなく努力した」

ということである。我が国で近年議論されている話題とオーバーラップするのは私だけではないだろう。

それから、憲法改正についての岩畔氏の見解は、


「政治などという問題は血をもってしなければ購えない問題である。憲法改正などという問題は血をもってしなければ購えない。議論ではどうしてもいかん問題だと思うのです。<中略>それでは、いま血を流してまで憲法を改正する必要があるかというと、そこ迄の必要はにと思うのです。しかし、なにか事が起こって「これではとてもいかん」という時にはやらなければならないということはあります」

というものだ。いささか物騒な物言いではあるが、それくらいの覚悟が必要だということだろう。ちなみに上記の岩畔氏の見解は披瀝されたのは、1967年、第二次安保闘争前夜のことである。

さらに、岩畔氏は日米の軍備に対する考え方の違いを端的に整理しており興味深い。

「日本特に日本陸軍に於ては先ず兵員の充実と訓練とが行われ、次いで装備が完備せられ、最後に軍需工業の拡充が行われるのを例としたが、米国に於ては先ず軍需工業の拡充、次いで装備の完整、そして最後に軍隊の整備が行われるのを通例とし、已むを得ざる場合にもこの三者を併行的に行ったようである」

企業経営などにも参考になろう。


全体の印象として、もう少し個別の事案を深掘りする必要があったのではないかと思う。岩畔氏の「考え方」が至る所で語られているのは興味深いのだが、自身が直面した事態についての細かい経緯や状況がもっと語られていることを期待していた。岩畔氏の経験は多岐に亘っており、それぞれが日本の現代史に大きなインパクトがあるものである。手記で著された日米交渉の経緯と同程度の聞き取りがあったなら、新たな側面から歴史に光を当てることになったように思われる。やや不完全燃焼。

(2016年5月8日)

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