SOO スー わたなべ健責任編集(旧練馬のミドル) 

市民の力をここに。わたなべ健責任編集

わたなべ健責任編集(旧練馬のミドル)
私達の社会。私達が考える。私達が決める。市民の力をここに。
当事者意識"Sense Of Ownership"を呼び覚ませ。

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詳細はわからないが、「はじめに」によれば、本書はベトナム国家大学ハノイ校付属人文社会科学大学と学習院大学人文科学研究科アーカイブズ学専攻 の協力関係が具体化したものだという。
因みに、私は学習院大学同専攻の院生として、2013年11月にハノイを訪問している。

関連記事:「ベトナム/ハノイでのアーカイブズ学研修」

http://ameblo.jp/tsuyoshiwatanabe/entry-11669422893.html

はじめに
第1章 文書保存に関する国家管理機関の設立と組織
第2章 文書保存職員の養成と活用
第3章 文書保存に関する法規定の公布
第4章 保存資料の収集と管理
第5章 保存資料の科学的構築と安全な保管
第6章 保存資料の利用t有効活用
第7章 文書保存分野における研究と応用ならびに国際協力
第8章 ベトナム文書保存のゆくえ
結論




内容は、副題にあるように、ベトナムの時代を大きく三期(阮朝期・フランス植民地期・1945年以降)に分け、彼の国の(主に公)文書保存がどのように確立され、発展を遂げてきたのか網羅的に書かれている。

・ベトナム最初の国立文書館は、阮朝明命帝が1825年に建設した「蔵書楼」である。
・フランス植民地期に大きな役割を果たしたのは、フランス人アーキビストのポール・ブデ(Paul Boudet)である。

というのが、前半二期のハイライトと言えるのではないだろうか。文書保存に関するフランスの法律、業務手順、管理システムは現在のベトナム政府にも参考にされ、応用されているという。

ベトナムにとって、「1945年以降」という括りはあまりに大きい。1945年に独立したものの、1946年から1954年には再び侵攻してきたフランスとの戦争が続いた。フランスが撤退した後、すぐにアメリカが南部に傀儡政権を樹立し、以降1975年まで抗米戦争となったからである。

1945年の独立政府において、ホーチミン主席は積極的に文書保存を進め、許可のない廃棄を禁止した。
長い戦争期には、文書の疎開が大々的に実施され、特に抗米戦争期には、「正式な文書館に関しては、建築省の設計によって石灰岩山の洞窟の中に堅固に建設され」た(文書疎開の様子は、同国の国家アーカイブズセンターの展示コーナーでも詳細に説明されている)。
ここで興味深いのは、「石灰岩山」に疎開したということだ。文書保管業者として世界ダントツトップの規模を誇るIron Mountain 社は、ペンシルバニア州ピッツバーグに巨大な石灰岩山を保有し、文書保管庫として活用している。私は2014年に視察する機会を得たが、その際、湿気の少なさに驚いた。視察後、その石灰岩山の保管庫に触発され、日本国内でも何か所か調査してみたが、いずれも湿気が最大のネックとなった。ベトナムの疎開文書館も「一年中100%の湿気があり、一日中天井からしずくが垂れてきた」ようだ。文書館で働く当時の職員たちの苦労が偲ばれる。

1967年には、初めて大学レベルの文書保存の教育部門が開設されている。
しかし、「1967年から1996年、ベトナムいおけるアーカイブズ学は、歴史科学の一専門分野として研究、教育されていた」。「毎年の教育活動の規模は学生約15~20人に過ぎなかった」という。実は、これは現在の日本の状況とさほど変わらない。
ベトナムに転機が訪れたのは、1996年、ベトナム国家大学ハノイ校の総長は、「人文社会科学大学に直属する文書保存科を設立する決定に署名した」。アーカイブズ学は本来、人文科学のみならず、社会科学(さらには自然科学)の分野と深く結び付きながら研究されるべきものであり、少なくとも高等教育のあり方としては、日本は完全に彼の国の後塵を拝していると言えよう。
ベトナムでは、過去40年に、アーカイブズ学の研究者は、「論文を学術雑誌上に何百も掲載し、何十もの各レベルの学術プロジェクトを主催および参加し、100以上のアーカイブズ学の問題に関わりのある内容の修士論文や博士論文、そして何百もの卒業論文を指導し、教材、教則本を編纂したりしてきた」という。この熱量も素晴らしい。
私は先週、ICA(Internatonal Council on Archives)Seoul大会 に参加したが、その際端的に感じたのは、中国のパワーだった。彼らは所謂国際標準とは別に、独自の標準を大量に作成して彼らの考える記録・アーカイブズ管理を着々と進めているという印象を持った。ベトナムも社会主義国。抗米戦争後は中国やソ連との交流の中でアーカイブズ学を発展させており、やはり独自に標準を開発して運用しているようだ(本書によれば、記録管理分野において3件、文書保存分野においては14件の分野内標準が研究され、まとめられたという)。

2013年にハノイを訪れた際、最も気になったのが、彼の国のアーカイブズ学がやや保存偏重であるように感じた点だった。実際、研究者、アーキビスト達は、自国のアーカイブズが必ずしも資料の公開に積極的ではないことにストレスを感じていた。
本書によれば、現在のベトナムは、アメリカ、イギリス、フランス、ドイツなどを意識し(この国は、本当に貪欲な全方位外交を展開しようとしているのがわかる)、またIT技術の進展を取り込むべく、「保存文書が多くの場所において、利用者のさまざまな目的に従って利用されるとき、その価値は倍加していく」という考え方の下、記録やアーカイブズのインターネットを活用した管理と公開を標榜しているようだ。
またそれに合わせて、記録管理・文書保存業務に関わる国の記録管理・公文書総局の人員も2020年までに1,000人体制とするよう計画している。

法的には、日本の公文書管理法 施行の翌年、2012年に文書保存法が施行され、その対象は国家、各国家機関、そして個人まで含まれているようだ。この法律では、「国は、個人、家族、宗教や各機関、組織に対し、資料の選別と保存について指導する責任がある」としているという。もちろん、社会主義体制という違いはあるが、法律の適用範囲が行政機関やその外郭団体、独立行政法人に概ね限られ、公共インフラに関わる記録・資料でも民間組織が運営主体であれば管理の枠外となってしまう日本の法律の課題をつい思い出してしまう。

「熱量」を感じるベトナムのアーカイブズ政策ではあるが、社会全体のIT化、ネット化などはそれほど進んでいるわけではなさそうだ。

「文書保存に対する社会一般の認識を高めることは、ベトナムの文書保存分野の最初に取り組むべき任務の一つである」

という、非常にプリミティブではあるが重要な認識に、地に足のついた進展を期待できるという印象を持った。

(2016年9月11日)

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8月27日(土)と28日(日)の二日間、ボランティア東北ファミリアボランティアバス で南三陸に行ってきました。日曜日は残暑厳しく、屋外作業には覚悟が必要でしたが、時折吹く風の涼やかさにかすかに秋の気配を感じる週末となりました。

お手伝いしたのは、今年2月にもお世話になった細浦の小山さん宅。

関連記事:『2016年初回のボランティアバス、雪の南三陸』
http://ameblo.jp/tsuyoshiwatanabe/entry-12124284662.html

仕事は、何とワカメの芯抜き!夏にワカメの作業をしたのは初めてでした(ワカメの水揚げは2月から4月)。
私の手捌きは、小山のお母さんに褒められました(笑)。



今回は、震災前後のお話をちょっと突っ込んでお聞きしたいというリクエストを事前にお出ししてあったこともあり、その時間を多めにとって頂きました。
経済的な支援を受けながらの復興と言うけれど、例えば、家一つ、仕事場一つ建てるにも設計し直さなければならず、そういうことに必要な気力、体力、時間は金銭面以上に高いハードルとなる…。

そして何より、お話を伺って気が付いたことは、小山さんの人生において震災だけがターニングポイントであったわけではないし、震災が最大のイベントであったわけではないということ。これは震災に遭遇した一人ひとりの皆さんに言えることだということ。私たちはとかく、「被災地=震災の記憶」を万人共通の関心事のように捉えがちですが、それは間違った見方だなと。

小山さんは、高校卒業後40年間、遠洋漁業の船員として働きました。世界の海を巡り、多国籍の仲間と仕事をし、英語、インドネシア語が堪能。その他にも韓国語や中国語も話せます。小山さんにとって、船に乗っていた時代の諸々が一番の思い出であり、決して震災の語り部ではないのです。まだ小さかったご自分の子どもたちと船が出るたびに別れ難かった心情を感極まりながらお話し頂いた時、もっと小山さんの人生を伺いたいと感じました。南三陸、気仙沼。震災がすべてではないのです。




(小山さん家の敷地内で見つけたナナフシ。小学生の時に母方の祖父の家で見て以来じゃないかと)



これから秋にかけてはサンマのシーズンです。昨年は不漁でしたが、今年はどうでしょうか。

(2016年9月2日)
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マクロ経済データ、内閣府推計、消防庁被害報、復興構想会議の「提言」や「方針」、政府事故調 報告…。「大量の書籍や資料」を参照し、「東日本大震災の復興政策、あるいは福島第一原発事故に起因する賠償や廃炉の基本方針の意思決定プロセス」を批判的に検証した重要な業績である。



プロローグ 問題の所在
第1章 発災後数カ月で拙速に決めてしまったこと(1)-震災復興政策
第2章 発災後数カ月で拙速に決めてしまったこと(2)-原発危機対応
第3章 なぜ、私たちは震災復興政策を大きく構えすぎたのか
第4章 なぜ、私たちは原発危機対応を小さく構えすぎたのか
第5章 「東北の復興なくして日本の再生なし」とは(1)-考慮されなかった震災前の社会経済
第6章 「東北の復興なくして日本の再生なし」とは(2)-曲解されたマクロ経済環境
第7章 福島第一原発事故とは何だったのか
第8章 震災復興と国政-「復興の加速」の内実
第9章 原発危機と国政-「福島の復興なくして日本の再生んし」の乱用
第10章 震災復興政策と原発危機対応に関する経済学的な論点
エピローグ 公的な精神の欠如について


分析対象は大きく2点。一つは、震災復興政策であり、もう一つは、原発危機並びに事後対応である。

前者について、著者は、復興予算の過大計上を問題視している。復興予算は、東日本大震災の建物ストック毀損規模(これを復興予算算定の基礎とする考え方は、阪神淡路大震災時から採用され、一応の合理性があるという)が阪神淡路大震災を大きく上回るという前提で組まれた。しかし、実態としては、建物被害は岩手県、宮城県、福島県の3県に集中しており、且つそれらの県の津波被災地域に集中している。実際の毀損額も阪神淡路大震災と同規模かむしろ幾分少ない程度で収まっている。即ち、「東日本」大震災というネーミングの過大さとも相まって、広範囲にわたって、大きな被害が出たという錯覚を持ったまま、復興政策が進行してしまったという。

これは、私が4年間、南三陸町に通い続け、視覚と聴覚から得られた実感でもあるのだが、政府の復興構想会議が2011年6月に出した「提言」で何度か登場する「コンパクトなまちづくり」と真逆の「まちづくり」が進行している。「提言」の中でも、「コンパクトなまちづくり」とは矛盾する別の「提言」が出されており、

「大規模な造成工事を必要とする高台・内陸への移転や、大がかりな土木工事を必要とする防潮堤やかさ上げ道路(堤防の機能を持たせるために、数メートルから10メートル近く嵩を上げた道路)の建設」


(2016年7月の気仙沼市小泉地区。巨大防潮堤と嵩上げ道路。渡邊撮影)


というまさに、この「提言」に沿って、そこの住む人たちの疑問を置き去りにしながら、被災地は変貌を遂げつつある。

「地方自治体は、市町村内に移転を希望する被災者の数に応じて防集事業規模を決定した。しかし、防集事業の進捗が遅かったことから、移転元の被災者が市町村の外へ転出するようになって、防集事業を実施してきた地方自治体は、実際のニーズに比べて過剰な造成住宅や復興住宅を抱え込まざるをえなくなった」

私が被災3県のあり様に大きな関心を持ったのは、同地域が、「震災前より少子高齢化を原因とする経済停滞に陥ってい」たということにあった。復興の過程でダウンサイジングは避けられず、だからこそ、人口減少局面に入った日本全体の将来を占う上で貴重な先行事例になると考えていたのである。
しかし、実態は、旧態依然としたバラマキ過剰投資を招いてしまっている(そこに「インセンティブ」が働く社会構造になっているからである)。

後者の原発危機並びに事後対応について、著者は、「想定外」という言葉を弄び、東京電力の株主や金融機関などの債権者の負担を軽くすべく、「矮小化されたフレーミング」の中で結局は広く薄く、すなわち、電力利用者や納税者に追加負担を強いるスキームを構築してしまったと断じる(※)。

※ 2016年8月7日付の日経新聞の社説は、「福島の復興・廃炉を進める体制を万全に」と題して、東電が福島第一原発の廃炉費用について、見込みを大幅に上回る見通しとなったことから政府に支援を求めることになった旨、論じている。その中に「事故処理に必要な9兆円について、国が交付国債を発行して立て替える仕組みを設けた」とある。続けて「事故被害者への損害賠償にあてる5兆4千億円については、東電HDや関西電力んど原発や関連施設を持つ11社が毎年、収益の中から返済する。除染に使う2兆5千億円は国が保有する東電株の売却益で回収」し、廃炉については「東電HDが廃炉費用として自前で用意する2兆円では足りなくなる可能性が高い」とある。本書によれば、
・損害賠償にあてる5兆4千億円については、東電他11社が毎年「一般負担金」という形で原賠機構に支払うが、各社は「一般負担金」相当分を電力料金に転嫁できることになっている。
・除染費用捻出のために想定されている株価は1,000円以上であり、現状の400円以下の水準に鑑みると非現実的な試算と言わざるを得ない。

・そして何よりも驚きなのは、「東電のバランスシートには、損害賠償から起因する債務はいっさい表れない仕組みとなっている」という事実である。「東電の損益計算書には、原賠機構から交付された損害賠償資金(立て替え金)は特別利益として計上される」というのだ。原賠機構は、東電に対して貸し付けているのではなく、東電に資本注入をしているというのが実態なのである」。東電が「国有化」されていると言われる所以だ。
日経の社説はこう結ぶ。
「(東電は)収益力を一層、高めることが求められる。電力小売りが全面自由化され、競争は激しくなっている。廃炉費用を負担しながら企業の活力を保ち続けられる枠組みでなければ長続きしない」
「企業の活力をと持ち続けられる枠組み」が、株主や金融機関の負担を免除し、電力料金や税金で一私企業の不手際を救済するものだとしたら何をかいわんやである。

そもそも、「大津波」は想定外でも、「原発危機の事象」は想定内であったはずであることを、東電の原発事故時運転操作手順書の存在とその内容を分析することにより、また同様の分析を既に行っていた政府事故調の資料から我々の前に提示している。そこには、ある種の国民的英雄とも目された福島第一原発の吉田所長にも厳しい目が注がれている(他方、手順書に忠実だった福島第二原発の現場対応は評価されるとしている)。

「現場の基本データに対する無頓着な態度は、徴候ベースの手順書に従って事故対応を進めていく発想が、最初の最初からまったくなかったことを示唆している」

著者のまとめは、

「「阪神淡路大震災の何倍もの悲惨」という認識も、「福島第一原発が大津波到来直後にシビアアクシデントの状況に陥った」という認識も、「今般の原発事故があらかじめ想定されていた範囲をはるかに超えたものであった」という認識も、「原発事故が早期に収束した」という認識も、「汚染水問題が完全に制御されている」という認識も、すべて実証的な根拠が脆弱なものばかりであった」

というものだ。経済学者の面目躍如といったところだろう。

さらに、こういった実証的な根拠に基づかない認識が政策に結び付いてしまうより上位の原因として、「公的な精神の欠如」を挙げている。

「私たちの社会は、私的な利益や政治的な権益に抗しながら客観的で合理的な意思決定を重んじる精神、すなわち、公的な精神を取り戻す必要に迫られている」

という。しかしこれはどうだろう。
私が尊敬し、国会事故調の委員長を務められた黒川清 先生が指摘されているような「規制の虜」「日本のエスタブリッシュメントの甘さ」は(因みに、著者は国会事故調の査読を務められたそうだが、本書の中で同事故調のまとめを酷評している)、冨山和彦 さんのいう、「インセンティブの奴隷」である我々の元来の習性から来るものと言える。「インセンティブ」に抗して、「客観的で合理的な意思決定を重んじる」ことなど、本当にできるのだろうか。むしろ、「インセンティブ」の持ち方を変えるような社会的規範を作っていかなければならないのではないだろうか。いずれにしても困難な事業であることには変わりない。

関連記事:「【書籍紹介】黒川清(2016)『規制の虜-グループシンクが日本を滅ぼす』講談社」
 
http://ameblo.jp/tsuyoshiwatanabe/entry-12141210947.html

企業経営に関わるものとして付言すれば、特に原発事故対応について、ここまでの著者の分析をもってした場合、「事故時運転操作手順書」の内容を理解し、それを実践する能力がそもそも東電のマネジメントに不足していたという指摘がないことに違和感を持つ。「公的な精神」や「認識の誤り」ではなく、「能力の欠如」を疑う余地はないか。
実はこれはよくある話で、例えば、ある事故が発生した場合、事故を引き起こした側は、「悪いのは当然我々でございますが、実はこの案件にはもともとこういう無理な面もございまして…。もちろん、それをわかった上でお取引させて頂いておるわけですが、何卒今後はいろいろな面でご協力を賜りたく…」というような話に持ち込もうとする場面に遭遇する。しかし、「本来の手順はどのように決まっているのでしょうか?」といなると、ちゃんと手順は決まっているのに、何のことはない、それが守られていなかったというだけのこと、という話。もちろん、「なぜ守られなかったのか」という分析はいずれにせよ必要なのだが、最も単純な選択肢である「担当者の能力が低かった」という要因に対する認識と対処は意外に効果的に働くのかもしれない。

最後に、筆者が当初は予定していなかった原発事故対応の分析を本書に加えることになったいきさつに大いなるシンパシーを感じたので紹介しておきたい。

「原発事故からずっと一部不通となっていた国道6号線は、2014年9月15日に全線開通した。その月の末に、レンタカーで福島市から飯館村を経由して南相馬市に出て、そこから国道6号線で南下していわき市まで運転した。途中、福島第一原発や福島第二原発を左手に見渡すことができた。当時、避難指示解除準備区域については、一般車でも進入することができた。平日だったこともあって、飯館村では、住民に出会うことはなかった。表現することが難しいが(※)、私が訪れた区域は、人々の息吹が完全に奪われてしまった空間のように感じられた。富岡町の海岸線は、大津波で損壊した建物や瓦礫がそのまま放置されてしまったかのようであった。そのような殺伐とした風景に接して、あまりにも悲しい事態をもたらしてしまった原発事故への政策対応についても、本書であらためて書き下ろしてみようと心に決めた」


※ 2011年9月、当時の鉢呂経産相が原発周辺自治体を視察した感想として、「死のまち」と表現し問題視されたことにリンクしたのだろう。私も以下のブログで同じような難しさを感じて書いた。

関連記事:「南相馬市へ ~国道6号線の風景、楢葉、富岡、大熊、双葉、浪江~」
http://ameblo.jp/tsuyoshiwatanabe/entry-11941099915.html


現場に出よ。そこにしかないものがある。

(2016年8月7日)

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