人はどこから来てどこへ行くのか。
私たちの本質とは何なのだろうか。
なんのためにこの世に生まれてきているのか。
人生で出会う人々、出来事にどんな意味があるのかetc..
これはそんな「知りたい」を元に、垂木勉が、徒然に書き込んでいくブログです。
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2016-01-08 09:30:15

2015年大晦日 感謝の会

テーマ:ブログ
2015日の入り


皆様、明けましておめでとうございます。
新年をいかがお過ごしでしょうか。
ほとんどの方は仕事や家事など、また日常生活が始まっている事でしょう。

私も既に仕事がスタートしています。
そして仕事は私の存在と分かれる事なく、従いまして気負う事なく、何か生理的、精神的流れの中にあるように自然に行われていきます。
面白いですね。


さて、お陰様で2015年も大晦日の日の入りを眺めつつ感謝の会を行いました。

会では参加した方々が1年間の感謝の気持ちをエピソードとともにお話しされます。

私たちは日頃どうしても、上手くいっていることについては一時の喜びがあったにせよ、すぐに当たり前の事として忘れてしまい、問題点に焦点を当ててしまいがちです。
例えば10の物事のうち、1つでも問題と感じる事があれば、その時から問題がその人を占める殆どの中身なってしまい「問題=良くないこと」という前提に立って、9つの良いことがあってもたった1つの良くないと思う問題に焦点が当たり、これに捉われてしまい、そこから生まれる反応が即ち対応になってしまいがちです。
個人差があるにせよこれは、人間に備わっている習性のようなものなのでしょう。
それゆえ感謝するエピソードを語っていただくことは、1年を振り返った時に問題点から焦点が移り、実は感謝できることが沢山あったと気付くという意味では、それはそれで素晴らしいことです。
2008年から始め、今回で8回目となりましたこの会の当初に思っていた事も、1つには上記のように日頃気付かずにいる事に気付くいいタイミングだろうというものでした。
また、年始に寺社仏閣を訪れて願い事をする初詣には、神仏に対する請求書的な要素が感じられ、一体感謝はどこにあるのだろうかといった疑問もありました。

ここまでは、気付く事についても、感謝する事についても、個人が良くなったり、何かを得たりするということを前提としてのことですし、また実際にそのように思って会を開催してきました。
実は今回の感謝の会にあたっても、私自身「今年感謝すること」というようなくくりで自分に起こった事を想起しようと幾度か試みてみたのですが、なぜかその観点からは具体的内容が浮かんでこないという事が起こりました。
この会を主催している「自分」という立場からすれば、この現象はあり得ない事だとして、たちまち不安と恐怖が沸き起こってきました。
何日か悶々とする日々が続きました。
そんなある日、ふとこんな言葉が浮かんできたのです。
それは、常々、タイミングが訪れた時に、目の前の人に語っていた「塞翁が馬」という言葉です。
これは多くの方がどこかで見聞きしたことのある言葉でしょう。
聞きかじりですが、中国の古い書物「淮南子(えなんじ)」に書かれている故事だそうです。
以下、広辞苑にあるこの故事を要約して記したものを引用してみます。
 
「塞翁の馬が逃げだが、北方の駿馬を率いて戻ってきた。
喜んでその馬に乗った息子は落馬して足を折ったが、ために戦士とならず命長らえた」

それぞれの出来事の度に人々が塞翁の所にやって来て、慰めやお祝いを述べたようです。

この人々の行い自体は、通常生きている私達にとってはごく当たり前の行為であり、むしろ好意という言葉に匹敵することなのでしょう。


はて、そうなのか。。


この故事の言わんとするところは「人生は吉凶・禍福が予想できない」ことの例えのようです。(当初私自身もこのように捉えていました)

ここまでは普通に生きている感覚の私達にでも、多少の学びや経験の振り返りから、なんとなく納得できるものかも知れません。

ただここには、人生には「吉凶・禍福」がある、という大前提があります。

ところが「起こっていることに最初から付いている意味はない」となるとどうでしょう。

私達は、意味のない中立な出来事に、私達自身が付けた意味を体験していると言われたらどうでしょう。

これはここ数年の私に訪れた転換のポイントでした。

つまり、馬が逃げた=悪い事、駿馬を連れて来た=いい事、息子が落馬し足を折った=悪い事、戦士とならず命を長らえた=いい事。

これですと本来意味を持たない連綿と起こる出来事に付けた意味に翻弄されることになります。


私達の思い込みが人生の意味だとしたら。。


すると今度は、はたとこんなことが浮かびました。

出来事に「感謝すること・感謝しないこと」はあり得ない!

起こる事が起こり、起こらない事は起こらない。


これは例えば

一見マイナスに見える事も見方を変えれば、これによってもたらされたいい事もあるから、良しととらえよう。

これによって学ぶ事が出来たのだから、良いことだったのだ。

というように、ある意味付けから別の意味付けに変えることによって、自分にとっては得だったと、意味付けの世界でコントロールして有利になろうという、意味付けを何かを得るための手法として使い始めるということにつながっていきかねないことでもあります。

元々中立で意味はない。

この事とは、似ているようで全く違ってしまっています。

意味がない。
というのと
有利な意味付けをしよう。

とでは全然違ってしまっています。


森羅万象、全ては意味がなく、また、あり得ない奇跡の連続で成り立っている。

全体があり、それ自体がすでに完全調和。

出発するともろもなければ、たどり着くところもない。

生きている、又は、生かされていること自体が奇跡的な完全調和。

奇跡とは「有ることが難い=有り難い=感謝」だったんだ!

そんなことが、電車の中だったか、ぼーっと道を歩いている時だったに浮かんできました。
感謝とはそのようなことだったなんて驚きです。

この時に、感謝することを具体的事例として想起できなかったことを問題とする意味も消え失せました。

ひとたびそうであれば、逆に自然(じねん)としてどんな現象、事例も自ずとただ感謝となり、さらに物事に意味を持たせる事すらもただただそれである。

このような事が浮かんできたのは「私というものはなく、私という思い込みがある」そして「起こっていて起こっていない」というここ最近の「ノンデュアリティー(非二元)」との出会いや「禅」に触れている事が契機となっている、という「私」が紡いだ二元的ストーリーとして逆説的に根を下ろしつつあります。

そもそも「全体」から分離した「個(自分・私)」というものがないなら、ストーリーを紡ぎ出す個もなければ、これを理解する個もなく、全ては「個(自分・私)」という概念とは関係なくただ「全体」なのです。

読んでくださった方々、こうなると、もうわけわかりませんよね。
当然「私」にもわかりません。
そもそも「私」が「理解」出来る事ではないからです。

もちろん、ここまで書いた事は良いとか悪いとかのことではありません。

この続きは、また時が来たら書くとします。

読んでくださって有り難うございました!












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