つながるかんじ ~社会福祉士の独り言~

後見人(任意・保佐、補助)お引受けします。
Office Lux in Vespera (社会福祉士・行政書士事務所)代表
(社会保険労務士有資格者)。
アルツハイマー病の母を介護しつつ法科大学院で学びました。
高齢者福祉に関われたのは母のお陰。
全てが「つながるかんじ」。

つながるかんじ  ~みんなみんな 命のなかま~-メッセージボード

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ここまで 母が小規模特養へ移ってからの主に2ヶ月間を 1.環境 2.医療 3.ケア に別けて振り返った。最後に 4.ケアの効果について記したい。

母が引越した当日は 座位が保てず 体全体がまるで一本の丸太のように屈伸できず当然 歩くことなど二度と不可能と思われるような状態であった。
しかし引越し当日の夕飯後 母は未だ入居者たった1人の広いリビングで 父と私の面前で つーと涙を流していた。言葉の出ない母にとって その意味は私にはとても特別なものであった。「嬉しいわ」と言われるよりも ずっとずっと。
その10日ほど後のことだった。いつものように午後 母を訪ねると 介護士が教えてくれた。「今朝 お一人でベッドから起き出して 台所の流しのところでスポンジを持って立っておられたんです!」
母は長年 台所に立って得意な料理を振舞ってきた。それを思い出してくれたのだろうか。それともここで 自分も少し何か役割を担わなければならない。そう思ったのだろうか。
私にこんなに嬉しい驚きは 数年来なかった。きっとずっと忘れることのできない出来事だろう。

母はそれ以来 様々な変化を私たちに見せてくれた。
まず 眠れるようになったこと。それが一番大きな 母の如何に安心で過ごせているか を示す変化だろう。
それまでの4年間 入院期間中の2週間を除き 母の平均睡眠時間は2-3時間だった。もうギリギリの疲労困憊状態で 母はここへ滑り込むことが許された。
あのまま過ごしていたならば 今ごろは亡くなっていたか 寝たきりになっていたように感じている。
引越して翌日辺りから 母は夜間21-6時ころまで眠れるようになった。今では昼間 さらに2度に分けて1時間以上の昼寝もする。
これは 誰かの物音に邪魔されない個室で 夜間にパットの交換をしてもらえたり 渇水のない状態で汗もかかず そして腰に幾重にも鎧のように付けていた重石の付いたパンツやリハパン・オムツに厚いパット が消えたことも大きいだろう。
しかし最も大きな理由はおそらく安心を得たことだと思う。

私の師匠がいつも 安心・安全に加え「安楽」を言われるが 正にその通りだ。いきなり殴られたり 怒鳴られたり 物音がけたたましく響かない安全な場所で その上さらに安楽に快適なケアを受けられる。安心でないはずがない。

よく眠れるようになった母の食事は 刻み食で 見た目にも鮮やかで 美味しそうな陶器で提供されるようになり じっくりと時間をかけて 母のペースで咀嚼して完食できるまで「待って」もらえるようになった。
食後に歯磨きのために口を開けると 必ずベットリと食べカスが歯全体を覆っていたミキサー食の時と違って そしてこまめな歯磨きのお陰で。「歯も綺麗になってきたよ。」と 以前からブラッシングに来てくれている歯科衛生士が言ってくれる。

よく噛んでゆったりしたペースで食事できるようになった母の排泄リズムが把握されると タイミングを見逃さず トイレ誘導してくれるために 便器に腰掛けての排泄回数が非常に増えた。
今では狭いトイレの要領を 母も私も覚え 手摺りの位置や 座る角度など お決まりのやり方で あうんの呼吸になってきたように思う。新しいことに順応できる様を見せてもらうことで やり方次第で適応能力は引き出せると習った。

排泄がカマグの用量次第で うまくいかなくなると 看護師が適宜 増量・減量を試みてくれる。以前なら医師の指示がなければできない と言われて より看護師を多く配置している老健なのに 便秘や下痢一つのコントロールが とても大きな課題化していたことが嘘のようだ。

崩れれば直ぐに起点に戻す。それを繰り返すことで 概ねリズムが出来上がり それは皆の共有する情報となる。
排泄リズムを支えているのは 入浴後・食事時・起床就寝時の水分補給だ。
嚥下機能の衰え以外の観点から 脱水症状を心配することは もう無用となった。

こんな基本的な生活リズム ー寝ること・よく噛んで食べること・適度に飲むこと・自分で排泄することー を手に入れた母は さらに目覚しい変化を見せてくれた。
まず 真っ白だった母の髪が黒く若返ってきたことだ。80歳の母にそんな力が残っているなんて。人間の衰弱と回復。脆さと強さの両方を思い知らせてくれる。
現在の母は10年ほど若返った感じだ。肌の艶が戻り シワも消えた。

そして以前なら なかなか目の焦点がどこに定まっているのか分かりづらかったのに 今はすぐに目が合う。そして笑う。その表情は「生きている」感じだ。

そして私が話しかけると頷き 終えた頃に「ね?」と問いかけると「うん!」と返事することが多くなった。たぶん 理解できることを示したくて それが嬉しくて 大きく頷いている感じだ。
時にはなかなか聞かれなくなっていた発語も再び聞けるようになった。
「わたし」「そんなもん アカン」「痛い!」
3週間ごとに 変わらず往診に訪れてくれる精神科医も 母が「こんにちは」と言った時には驚いてくれた。

歌を唄うと真似る。発音できなくても。以前は自分勝手にただハイに何事かを訴えるように 喋り通しだった母と 今は時々 会話が1往復するようになった。

黙って座っている その表情は 自宅にいた頃の母のもので「大人の表情」だ。老健では2-3歳児のような顔つきで 認知症高齢者は だんだん子どもに戻って行くのか と勝手に思っていた。師匠に「子ども扱いされれば 自分のレベルを下げてまで合わせるのが高齢者だ。そうでなければ そこでは生きていけないからだ。」と言われたことを改めて思い出す。

いつ会っても 石けんの匂いが髪から体全体から漂い 清潔を保っている母を見ることが何よりも嬉しい瞬間だ。

これらの変化はすべて 老健ではなく特養だからだろうか。集団介助ではなくユニットケアだから出来たのだろうか。否 そんな制度やしくみだけで変われるはずはない。
特養にもユニットにも制約はある。どんな制度やしくみを作っても制約は伴う。
運用する人間の意識。制約を伴わずに変えられるのは それだけではないのだろうか。

今の施設は私にとっていわゆる「施設」ではないと言える。でも母は他の入居者と共に暮らしているのだから「家庭」でもない。
ただ感じることは スタッフ全体が 母の家族みたいだということ。
認知症でもそうでなくても。そこに「暮らし」があれば。心が通い合う人間が集えば。施設か家庭かはあまり問題ではないと気づかせてもらった。

「いってきます」この頃 母のところを出る時 私は思わずそう言う。
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ここでのケアのことを語るに 一番変わったこと。それは「 1人の人間として」「関心を示される」ようになったことだろう。
じゃあ それまでの施設や病院では何だったのだ?
たぶん 「これから行う介助の対象者」「たまたま目の前にいる者」「手のかかる入居者の1人」程度だったろうか。何れにしても 「個人」としての母 でなかったことは確かだろう。
なぜか。
関心を示されていると感じることができたのは ケアプラン見直し時の会議や何かお願いをしたり 要望を出したり こちらが思いきり気合いを入れてアクションを起こした時 だけだったからだ。
こんなことを発語しました!
トイレで排尿が出来ました!
顔中頭中背中中 汗だらけです!
何を言っても どう働きかけても 母に関心なんて 誰にも持ってもらえなかった。そのうち 2人だけで 家族だけで 喜びも哀しみも 分かち合うのがクセになった。
そんな最中に 今の特養へ引越してきた。

母が元気だった頃に 家族旅行した先で食事している写真・自宅の庭先で笑っている写真。そんな部屋の写真を見て泣いてくれた看護師がいた。

介護研修の講師が 母を部屋へ訪ねてくれた時。母にはしきりに何かを掴もうとする動作があると指摘してくれた新人の介護士。すぐに抱き枕を買った。

訪ねると 「今日はトイレの便座から 1人で立っていはったんです!」と 面会前の様子を教えてくれた介護士。

母の困ったような 笑顔の表情を見て 笑顔いっぱいになって抱きしめてくれるリーダー。

常に笑顔でゆっくり話しかけてくれる若い介護士。

寝汗を見て 夜間の温度設定は低めにと教えてくれた介護士。

これらは全部 特養へ引越してたった一週間以内に私が経験した出来事ばかりだ。
そしてもちろん 8ヶ月が経過した今も変わらない日常だ。
関心を持つ。そこから見えるものは 何と大きく 深く そして近未来を見通せるのだろうか。
私はそのことを今 毎日毎日 実感させてもらっている。

何より 嬉しい。人として生きてきたのだから モノとして扱われたくない。人として死んでいくのだから 今を精いっぱい愛されたい。年齢に無関係な当然の要求だろう。


① 時間は個人ごとに流れる

よく言われる集団介助とユニットケアのちがい。一斉に食事を開始して順番に介助し 最後の人を介助し終えた時が食事の終わり。全てが「介護する側」が主体の目線だ。

個人単位の時間は まず自由だ。起きた時間も日によって違うから 食事の開始時間も自ずと変わる。制約を受けるとすれば 他の入所者との兼ね合いだけだ。自宅にいても 家族やご近所さんとの譲り合いはあるのだから 社会的に許される範囲の制約だろう。

その食事介助の所要時間。母の場合は最大1時間だろうか。身体の傾きが酷い時など さすがにこれを超えれば 食べる側の母も食べ疲れしてくる。そこまで介助を続けてくれる。
特に咀嚼するまで絶対に口を開かない母に合わせて タイミングよく 巧く口へ運んでくれる技はプロのものだ。

そして排泄。母は今 日中は薄いパットに下着のみだ。そのパットの汚れ具合や 便座に腰掛けている長さと自発的な排泄の有無。これらを見計らう時期を経て 母のトイレ誘導の時間帯が決まってきた。
以前は数ヶ月に一度と聞かされていた 便器での排尿が 今では普通のことだし 私とトイレに入る時もほぼ毎回 自分で座ってしてくれる。

次には こまめな休息だ。前の施設では家族がいない時や帰った後は どんなにしんどそうでも 部屋で休息させてもらえず 監視の目の行き届くリビングに集団で日中のすべてを過ごさせられていた。
自由を求めて まだ歩けた母はしょっ中 徘徊してどこかへ逃げ込んでいた。裸足で徘徊し 足の裏が墨のように真っ黒けになっていることも 侭あったが 尋ねても それでいて 母が何処で過ごしていたのか?知ることはなかった。何処へ行っても行き止まる度に施錠された空間の中では 母が独りどこを彷徨っていたのか なんて誰にとってもどうでも良いことだったのだ。

今は 母の眠くなるタイミング・姿勢が崩れて座位を保てなくなるタイミング それらを見計らって 居室で寝転び 背中や足を伸ばして休息を取らせてもらえる。
母はこの頃では 朝・昼食後 数十分から小一時間 昼寝をする。起きた後は やはり覚醒し 認知機能も活発だ。
母はやっと。「母が主体となれる」時間の過ごし方を許されるようになった。

② 引越してきて変わった点

・夜中にパットを交換してもらえるようになったこと
夜中は少し厚めのパットをしている。覚醒しているタイミングを見て 行ってもらっている。きれいになった後 きっと気持ち良く安心して また寝ているようだ。

・入浴の回数やタイミング
一応 水・土曜が母の入浴と決まっている。週に二度は以前と変わらない。変わったのは しんどい日はパスして 翌日などどこかで帳尻が合うよう 臨機応変に週に二回は入れてもらっていること。
そして 便で下半身が汚れてしまった時は 風呂場へ直行してシャワーを浴びさせてもらえることだ。何度お願いしても叶わなかった「どうしようもない時の入浴の日の変更と 臨時の入浴」が今はできる。その安心感は想像していた以上だ。

・清潔の維持
以前の老健では 半年に1回ほど家族が居室を一斉掃除するという行事があった。しかしそれ以外にリビングなどを掃除する業者でさえ 部屋の畳に掃除機をかけている姿など4年間に一度も見たことはなかった。父が 自分で買った掃除機をかけていただけだ。
今は個室というのもあり 家族が掃除することも気兼ねなくできるし もちろん しょっ中 介護士が掃除に来てくれる。

更には2週間に1度と聞いてはいたけれど 実際にはもっと間隔が空いており どんなに汚れようがお構いなしだったシーツ交換。今では汚れれば即 その他必ず1週間に1回 してもらっている。
清潔が常だった母は どんなに喜んでいるだろうか。
因みにこの 居室の掃除とシーツ交換。何れも以前の施設では業者やそれ専用のパートが行っていた。ここでは介護士がしてくれる。

そして トイレの後処理。
まず いつ母とトイレに入っても そのパットがズレていたり捻れていることなく キチンときれいに当てがわれている。
また 便器の汚れが残っていることも稀だ。その都度 汚れを取ってきれいなトイレを維持してもらえていること。自分だけの清潔なトイレで何の遠慮も要らず 母は占有させてもらっている。

・座位
まるで座れなくなっていた母は まずここへきて充分に休息を取ったのち 程なく 骨盤の安定を保つという観点から クッションや座布団 椅子の購入をして 楽に座れるようになった。
身体が傾いてきたらS字型のクッションを捻じ曲げて支えたり 前にズレてきて腰が浮いてきても 以前のように(私もしていた)後ろからズボンを持って引っ張り上げたりしない。前に廻って 片脚ずつを持って ゆっくりと後ろ方向へ納める。

・食事形態のアップとオヤツ
できる限り 見た目にも美味しそうな食事を きっと母も普通食に近い形態で取れる。引越し当初の願いが聞き入れられて 母は生野菜さえ1-2cmに刻んで 他のおかずに混ぜて食べられるようになった。
オヤツは以前と同じ金額なのに こんなに豪華なの?という程 毎日毎日 違ったものが出る。ゼリーにはホイップクリームが付いているし 饅頭は大きくて柔らかくて 京都人の和菓子好きには堪えられない。
こんな甘いもの 以前は誰も歯を磨いてくれないので ほとんど食べずに果物やジュースを持参していた。
今は3本の歯ブラシで丁寧に磨いてくれ いつ見ても 歯に汚れがない。安心して甘い物も食べられるようになった。
どの行為も何かの行為につながっている。

・水分補給
私にとって以前 トラウマのようになったのが脱水症状だ。母はまずここへ来て 風呂場の脱衣所以外で汗をかくことは 寝汗以外になくなった。
しかし 以前にも増して水分補給には気をつけてもらえている。
入浴後や排泄後・就寝前後・服薬時と毎食時など トロミを付け また折に触れて お茶やポカリスエットをゼリーにしてもらい できる限り飲ませてもらっている。今では家族の補給はあくまでその付加部分であり 基本的な量の維持のためではなくなった。

・身だしなみ
髪をとかすこと 顔を拭くこと。それをするのが 以前の面会時の最初の行為だった。少しでも早く 綺麗な母になって欲しくて それを見たくて。
今はいつ行っても 解いた跡がブラシに残っているし 目ヤニや鼻水もない。穏やかで綺麗な顔をして座っている母に会うと 思わず昔を思い出して 普通に話しかけそうになるのだ。
「ママ 元気?!」

③ 今も気にしていること

1本失えて母の歯は現在13本となった。歯磨きには変わらず以前の歯科医が週に1回来てくれている。以前も書いたが 自分の歯でしっかりと咀嚼して食事することと 身体の機能が衰えて寿命が尽きること。アルツハイマーの母にはそれがどうやら ずれそうだ。せめて寿命は尽きずとも 嚥下機能が衰えて尽きるまで。
何とか自歯を残して欲しい。

会うと必ず父がしていること。私もするようになったのは 肩から背中・腰までをさすり 首筋や脚のあんまをすることだ。身体を触られることが殆どない高齢者にとって 驚くほど柔らかさが戻り 何より楽になるという。
母も自然と笑顔になり キャッキャ笑った後には よく飲めて目の輝きが戻る。

こんなに何もかもが違う。一つひとつの介助が 単体でなく連続して 同一目的に向けて行われている。
ケア・プランという目標に則り その実践が 共有化され 実行される。
そんな「かたまり」でのケアは 決して場当たり的でなく 先が見えず不安を煽るものでは決してない。何より「母という人」を知らずして行い得ないものだ。
「その人らしく」と 今では其処にも此処にも書かれているのを目にするけれど。その人を知ろうとせずに 今日までの生活を嗜好を人間関係を。何が その人らしく なのか。

驚くほどのスピードで 母のもとに駆け寄ってきてくれたスタッフに囲まれて今 言葉の出ない母は 黙って「母らしく」日々の暮らしを送っている。
私はスタッフにただ ありがとう。


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前回の投稿より早や 半年が過ぎそうだ。仕事と母との幸せな日々にかまけて怠ってしまった。しかし 時間の経過と共に刻々 状況は容赦なく変化を続けてもいる。
その様を書き記しておかなければ きっとあとあと 後悔することになる。良い状況であれば尚更だと思うようにもなった。

現在 母が暮らす特養に引越してきたのは 昨夏の2012年8月3日。
それまでと変わったこと。
⒈ 環境 ⒉ 病状 ⒊ ケア ⒋ ケアの効果
だった。
1. 環境については前々回 記した。
以下 2. 病状について記す。

⑴ 特養入所前の母
母は引越す前の正月2日に 当時暮らしていた老健の廊下で 夕食後いつもの散歩中 痙攣を起こし転倒して入院した。1/2~1/14まで 母は搬送先の病院で過ごした。

ここでは一旦 劇的に快復した。入院といえば 昨日まで「普通にあった暮らし」 がなくなり 生活の場から分断された病院 という特殊な環境に身をおいて ただただ「治療」に専念する。そのため生活維持機能が衰え また筋力の低下や運動不足から足腰が弱る場合も多い というのが通常だろう。事実 骨折や持病の悪化で入院した高齢者が 入院を境に元通りの生活に帰れなくなるケースも多い。認知症であれば 環境の変化に対応できず 混乱によって認知機能が より衰えることも考えられる。
ところがこの入院期間中 認知症に理解が薄い病院という場所で 個室という空間に身を置くことになった母は 目覚しい快復を遂げた。同期間中のほとんどを 家族と過ごせたためだ。
夜間 母と添い寝したくても出来なかった老健とは異なり 人手の薄い夜間帯に同室で家族が付き添うことを 病院というところは歓迎してくれるのだ。
母は入院当初 3日3晩眠り倒し リハビリの理学療法士を驚かせるほど あっという間に歩行し それまでずっと苦しんでいた左側への傾きも消え 認知機能も随分と回復させ 発語を多くした状態で退院してきた。当時 老健の誰もが目を見張ったことは確かだ。スイスイと軽やかに 楽そうに歩く母の後ろ姿は 忘れられない。

今でも思うにつけ 返す返すも残念になるのは この退院時の行く先が 今の特養であったならば どんなにベストだったろう ということだ。きっと退院時の状態を維持させたまま 今ごろは外へ散歩に出かけられていたかもしれない。
しかし当時はオープン前で姿かたちすらなかったのだから どうしようもないことなのだ。

代わりに舞い戻った老健で 母はたった2週間ほどの間に 不眠が戻り 汚いソファーに寝転がされて頭中 顔中に汗をかきながら一日中 天井を見せられているうちに 退院後2ヶ月ほどで歩行困難に陥った。
治療すべき病院で 十分な休息と良眠が得られ ケアを行えたために全身状態と共に認知機能が快復した。一方のケアをすべき老健で 不作為をしたために 歩けなくなった。
何かおかしくないだろうか。
いや、真剣に。

特養へ引越す夏前の梅雨入りのころから 母はトイレ介助の際も 前後から2名が支えて何とか歩く というより 何とか前に押し進む状態へ 急激に衰えていった。
左後方への突っ張りと 酷い左側への傾きのため 体全体がまるで棒のようになる。拘縮の始まり?をじわりじわりと実感した時だった。
このままでは死んでしまう。私が新しい居場所を 出来うれば終の住処を と最も焦りまくっていた時期だ。

⑵ 入所後2ヶ月の母
① 座位が保てるようになってきた。歩く以前に 「きちんと座れる」こと。骨盤の安定(後に特養の職員研修を行っておられる 浜田きよ子先生に教わったことだ)を如何に ~姿勢やクッションや前後の休息 そして体へのタッチの仕方・扱い方によって~ 保つか。それが重要だ。
あんなに ずり落ちそうな姿勢でテーブルと椅子の間に挟み込むように 辛うじて食事を摂っていた母が。
キチンと真っ直ぐに座っている。
それを目にしただけで 直感した。
母は楽に座れている。余分な力が抜けた状態で 重い上半身をクッションに預けることで。
椅子は座った際に膝が90°になる高さが良いと知り のちに母用のものを購入した。

② トイレは前々回記したとおり 個室で暑さ寒さと闘う必要もなく 気兼ねなくいつでも腰掛けられ いつまでも座っていられる。
日中着けている薄いパットに便や尿を見ることもあるが 便器で排尿排泄をするのがごく普通になった。それは 母の排泄リズムを掴み 適宜のトイレ誘導が出来ていること・便器に腰掛けた母がリラックスした前傾姿勢で踏ん張れていることを意味すると思う。

③ 固形物の嚥下機能は未ださほど衰えなくきていたため 普通食を細かく刻んだもので対応してもらうことになった。ご飯はユニットで炊くため 都度の状態に合わせて軟飯やお粥など 変えてもらえる。
お刺身やチキンカツ・煮込みハンバーグも食べる 食べる!カレーばっかりだった以前の給食と比べて 夢のような献立だ。
服薬は以前なら 時間節約を兼ねてふりかけにしてご飯に混ぜていたが 今は水分補給を兼ねて ポカリスエットのゼリーに包んで 食後に服用する。
母はまだこんなに 食べられる。少し硬めの形ある惣菜を 一所懸命に咀嚼することで 唾液を生み出し 脳に刺激が与わる。
そのためだろうか。意識が覚醒してきた。

④ 意識の覚醒は 表情を生き生きとさせる。どこかぼうっとしていた目の焦点が シッカリ定まるようになり 狭い視野のスポットにさえ入れば 目が合って笑顔が出るようになった。
緊張状態で以前ならば 笑っていてさえも消えなかった眉間のシワも 今はもうない。介護士の動きを目で追うことも増えた。テレビの画面を凝視することもある。繰り返される目の前の風景を 脳は以前よりも早い速度でキャッチし
そして 指令を出しているだろうか。認知機能の回復ぶりが目ざましい。

⑤ 体の強張りにより特養へ引越す前の母の全身は まるで一本の丸太みたいになっていた。バランスを崩せば途端にバターン!と倒れてしまう。
両腕は放っておけば 内へ内へと縮こまってくる。その腕を伸ばして さらに垂直に耳元へ近づけ 上げる。まだ何とか出来ている。潜在的には柔らかさが残っているのだ。毎日の積み重ねで変わるはず。父に倣って 背中から腰・肩から腕・脚から足首・首筋と 満遍なくマッサージも繰り返す。
今ではパーツパーツにと再び機能が回復し「とても柔らかくなったね。」と老健時代にもお世話になった精神科医が 3週間の往診の度 触りながら言ってくれる。

⑥ 独歩はもう難しくなってしまったが 体の緊張が緩和されたことで 歩行も何とか未だ維持できている。あの病院と特養の間の 老健での7ヶ月間が心底 悔やまれるけれど。調子が良ければ母は 左側から手を添えることで、また手引き歩行で 何とか車椅子を免れている。
最期まで と願ったことの一つに 母らしい行為の一つとして 歩行がある。
歩くことで 忘れようとし 整理し 没頭し そしてあの日々を乗り越えてきたのが母だからだ。

⑦ 母は特養に引越してから 夜間8時間・朝食と昼食後に小一時間も間 の睡眠を得られるようになった。老健では深夜2-4時のコアタイム 良い時でもせいぜいその前後1-2時間 という睡眠サイクルだったのに。
睡眠は当然 休息を意味するので シッカリ休息したあとは活動内容との相乗効果を及ぼす。食事・排泄・入浴・座位・意識の覚醒に伴う発語等の認知機能。休息と活動のメリハリ。そして活動の末 疲れた母はまた良眠を得られる というサイクル。
今はもうここへ来て8ヶ月が経つが 母はようやく4年近くに及ぶ不眠を取り戻せたろうか。
イビキをかいて眠る母の顔を見る度 思う。

⑧ 最後に 今 課題は液体の嚥下機能だ。常に渇いた状態で 500mlのペットボトルを飲み干すことも侭あった母だが 特養へ引越してきて尚 進行しているのが液体の嚥下悪化だ。アルツハイマー病の本体たる 脳の萎縮からくる司令の遅さにより 何の気なしに飲めていたお茶やジュースが 難しくなってきた。
母はここで穏やかに あと何年暮らせるだろう。良かったと思えば思うほど 欲張りに これまでの施設遍歴と同じくらい ここで暮らして欲しいと願わずにはいられない。
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今夜は キリスト者医科連盟の主催する ある勉強会に父と共に参加した。講師は 聖隷クリストファー大学の 奈倉道隆先生。75歳で介護福祉士を取得した老年科の医師である。初対面だった。


医療と福祉について これまで考えるところが多かった私に新たな視点を提供してくれた講座であり 得るところが大きかったので備忘録を兼ねて記しておきたい。




1.看護(Nursing)の歴史的な役割


 医療の語源はメデューム(Medium)であるが キリスト教は 神が人を癒すに際し 媒介者たる医療人を 必要とした。それが看護師だった。


 近世以前の医療における中心は あくまで看護だったらしい。病院という場所に医師はおらず ただ看護師がいた。開業医師はあくまで 病院に招かれその治療を行う技術者だったそうだ。


 医学は 人間を機械のように「モノ」と見立てることで 外科治療も発展を遂げる。対して看護は 神が造った人間として その人格や生命を重視した。どちらが善い悪いではなく ただ対象が「疾患」なのか「人間」なのかが違った。


 すなわち看護における主要任務は 神の癒しを患者に伝えること であり 医師の補助ではなかった。西洋において看護師の役割が 目に見えないところで患者の治療への意欲や 生きる力を生み出す無形のものとして機能することが多いのに比べて 日本ではそうとは言い難い現状は この辺りの違いにあるともいえる。


 加えて日本の看護師は 日進月歩の技術についていかなければならないという 医師の補助的役割が増す中 事務処理もこなさなければならず したがって療養上の世話の部分がどんどん疎かになってしまう現実がある。


 


2.アーユルヴェーダ(インドの伝統医学)


 日本は最初 表題に基づく佛教医療を取り入れ 平安時代以後は 漢方を生み出すという独特の途を辿ったそうだ。このアーユルヴェーダの「医療」において 治療者と被治療者 などという違いは大きな意味を持たなかった。ただ ①病気に適する薬物や療法 ②治療者 ③治癒を望む病人の努力 ④病人の心身を支え 環境を整備する介護者 の存在が必要とされた。 これら4つの存在が相互に連関し合って 医療は成果をあげるとされたのであり 各々に個別の意味を見出しはしなかった。


 こんな影響は明治の初期まで続いたが 西洋医学を導入するにあたり 殊さら技術的側面に力点がおかれたため ついに日本において 西洋における看護師の病院内での主導的役割等が受け継がれることはなかった。神の癒しを実践するために 患者の人格や生命・患者自身の意欲を尊重する看護ではなかったのだ。


 驚いたのは 新島襄が当時 看護学校を設立し この時代に看護師独自の役割を目指し設立された看護学校のいずれも 吸収され あるいは存続しなかったという事実だ。宗教的背景と切っても切れない関係にある 看護の役割について しかし宗教的側面を完全に排除しようとする 日本の教育の限界の中で これはある意味で当然の帰結なのかもしれない。




3.先生の見解


 家庭内で誰もが 当たり前にでき 実際にしてきた「介護」が今 専門化され社会化されている。


「健康の快復・維持」を目的とする医療とは異なり 生活支援の技術を有するプロの介護が必要とされているのだ。この「介護」の目的は「本人の自立を助長し 生活の質を向上させ もって人格を高める」ことにあるという。


 ともすれば 医療がネガティブ・ヘルス(検査を通じて治療対象を明らかにして 治療を目指す。これによればほぼ全ての高齢者は病人として治療対象となる。)であるのに対して 介護がポジティブ・ヘルス(医療的には否定されるべき行為も 全人格と生活の側面から是認されうる。)を志向するため 福祉はそろそろ「医療モデル」から脱却しなければならない。そしてその際 拠りどころとされるべきは 「ソーシャル・ワーク」の概念である。上記アーユルヴェーダの考え方はその助けとなる。


 これを実現するため 西洋が育み現在も活かし続けている「看護=Nursing」の考え方が ぜひ参考になるはずだ。ひいては介護士の専門性を そこに見出すことができるのではないか。


  介護とは「生活支援環境整備に努めつつ 要介護者の自立意欲を高める」ことだそうだ。この中の「環境」には当然 介護者自身も含まれるという。




4.感想


 ざっくばらんに質疑応答も途中何度も交えながら 全員で共有事項を確認しつつ 進行がなされていった。そのため 誤解を生じることも少なく かなり先生の真意を理解することができたように思う。


 私にとって長い間 疑問であった介護士という職業の専門性。一見して医師や看護師のように 見た目には分かりづらいがため 余計にいったい何なのか?考え続けてきた。それを考える一助となったのが 医療から独立した独自の価値観と目的を 介護は明確に据えるべきこと そして その背骨にあたる部分がソーシャル・ワークの考え方であること という指摘であった。この考え方によれば 確かに医療は 福祉を実践する中で登場する一類型として 福祉に含まれることになる。


 また 看護(Nursing)という考え方を 介護の中に取り入れることで 介護と医療の関係 また 介護と看護の関係も変わるように思えたことも大きい。さらに介護士の 専門性を兼ね備えた更なる発展について 教育上も現場でも 具体的な実践に結び付けていくことができるのではないか。そんな希望が見えた気がして 晴れ晴れとした気持ちで 私は会場をあとにした。


 

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2ヶ月が経とうとしている。
変わったこと。
⒈ 環境 ⒉ 病状 ⒊ ケア ⒋ ケアの効果
私の記憶に深く留めるために以下 順に辿っていく。

⒈ 環境について
ここへ引越してくるまで 母の体の一部ともいえるものが ヘッドギア・プロテクター・靴 だった。常に装着しており 離れることはなかったからだ。
少しでも負担を減少させるため その商品選びと 日々のメンテナンスに心を砕き続けた。

① ヘッドギア
精神科病院で転倒を繰り返していた2009年11月に装着した。
まるで孫悟空のように頭を締め付けるヘッドギア。通気性がマシなメッシュのものを2つ購入し 洗濯して交互に使っていた。それでも一日で汗臭くなってしまう。晩に介助に訪れていた頃は 消臭剤をスプレーして翌朝に備え乾かせていた。しかし仕事で日中にしか行けなくなると そのスプレーがしてもらえない。私が提案した介護士との連絡ノートを通して またケアカンファレンスの度に夜勤へ訴え続けたが 20余名の中で理解を示して 介助に加えてひと手間をかけてくれたのは2名だけだった。
そもそも何のため?
それは 転倒時の頭部打撲を防止する趣旨だろう。しかし従前 母は転倒しても手が出ず 顔を打撲するのみであり 頭部を打撲することは以後もなかった。それでも介護する側の安心材料と言われてしまえば 反対する知識も知恵もない。今 思えば情けない限りの自分に腹が立つ。
家族が面会している間くらい責めて と脱がせ 僅かな時間に乾燥させていた。脱いでいる母の姿を見て 飛んで被せに来る介護士もいた。

② プロテクター
転倒時の大腿骨骨折が多いことから 両腰回りのポケットに緩衝材としての重しを入れたパンツだ。ガードルのように密着が強い。
排泄介助に入るとまず ズボンを下ろし 次にズボン下 を下ろす。そしてこのプロテクターを下ろすと 使い捨てのトレーニング・パンツが現れる。この下に更に夜間帯や便の多い昼間帯にはオムツもしていた。そして分厚いパット。
ようやく便器に腰掛けると母は しきりに太ももの辺りを搔いた。蒸れて発疹が出来ていることが多かった。軟膏を塗っても これだけ締め付けていれば治らない。汗疹を傷つけないよう 私は常に 深爪と思えるほど神経質になって母の爪切りをしていた。
それでもいい加減にプロテクターが臀部に近い場所に装着されていたりするのを見るにつけ 私は哀しくなった。
機能しない重たい道具は ただの嫌がらせでしかない。意地になってきれいに装着することに執心した。次に排泄介助に入った介護士が唸るほど きれいなパットの充て方・パンツやプロテクターの装着。お腹を冷やさず 負担にならない上着との入れ方の順番。それを見せつけてやる。実際には誰の目にも無関心以外には惹かなかったのであろうが。
カタチを見れば 決してその場にいなくとも 当時の介助の仕方は透けて見える。キッチリと母にその痕跡が残されているからだ。
トイレは私にとって一番哀しく 一番考えさせられた場所だった。

③ 靴
何度も書いたことがある。当初は軽くて蒸れない介護用の靴を履いていた。歩く距離が増えると共に 靴底に穴が空くので またサイズも小さくなると共に合わなくなり 理学療法士と相談して 子ども用のスニーカーを履いていた。
とにかくガッチリと足の甲を押さえ 足先が遊べるようにガードする。当然 蒸れる。巻き爪が治らず 時には出血し そして水虫にも感染し続けた。それでも一日中 眠る以外の12時間以上 母はあの靴を履き続けた。
二足を交替で履くこととし 靴用の消臭剤を毎夜スプレーしていた。しかしこれも夜間に行けなくなると してもらえなくなった。スプレーはおろか 靴下さえも履き替えさせてもらえない。タンスには何十枚という靴下を用意しているのに。週2回の入浴時の履き替えだけなら 数枚で足るはずだ。
何を見て 何を見ていないのか?日中 臭い靴下を替え 靴を履き替える度 哀しくなったのを今も思い出す。

そんな母の体の一部だったものがすべて ある日突然 取れて無くなったのだ。
引っ越した当日からヘッドギアは押入れに入れたままだ。プロテクターは 腰回りを締め付けしんどいだけなので と 止めて 代わりに小さなパットに超薄手のパンツ そしてズボンだけになった。排泄リズムを掴み 適切なトイレ誘導が不可欠の前提にあることは言うまでもない。靴も履く必要がなくなった。ユニットも居室も 洗浄可能な畳敷きだからだ。

母の鎧が取れた。

④ 温度設定と換気・加湿
母は行くと夏の間じゅう 常に頭部と顔・背中じゅうに汗をかいていた。ウチワが手放せない毎日で 行けばまず汗を拭って 水分を補給し 生き返る表情を確認するのが日課だった。
未だ新しい施設では夏を過ごしただけである。しかし8/3に引っ越して以降 寝汗以外に母の発汗を見たことは一度もない。
とにかく前の老健は暑かった。設定温度は28-29℃。少し歩いたり動けばジワッと発汗する。トイレなど行けば 出てきた頃には 母も私も汗だくだった。
今は2-3℃は低いだろうか。この違いが節電の効果以上に 高齢者の潜在的な慢性の脱水状態を招来する悪影響を及ぼしていたに違いないと 今でも強く思う。

一方で頻繁な窓の開閉による換気。この頃では 吹き抜ける風をバックに リビングに敷かれたマットにころんと横になって 母は昼食前後にうたた寝することも多くなった。
以前は梅雨の時期や雨降りになってさえ 冬からの続きで使っていた加湿器がリビングにどんどんと焚かれ むぅっとむせ返るような熱気を感じて 別の階に母を連れてよく避難したものだ。
温度設定と換気と加湿。すべて一つのもので連動しているはずだ。「何のため?」「それがもし自分だとしたら?」に思いを馳せることがなくなれば 残るのは魂が抜け落ちてしまった外形 ~ それは虚しいカタチ ~ でしかない。

⑤ 物音・人の声
ユニットケアと集団介助の差異は大きい。ワンフロアにショートステイを含めて常に50数名がひしめいていた老健。一方で 現在のユニットは9名定員。
当然 人の声も少なく 総和として小さい。いわゆる喧騒の中で 食事という日常生活の動作をしなければならなかった。今は何と静かなのだろう。
何を叫んでいるのか 分からなかったTVの音も 今は聞き分けられる。私の耳にさえ こう映っていた光景を 認知機能の衰えた病人の母には どう映っていたのだろうか。
雨音さえも 聞こえてくる環境に身をおいて 安全という最低限度の要求が充足されていることを今 母は実感している。きっとそう感じる。

⑥ 個室
四人部屋で 昼間でさえ 人の声や気配を感じずにはいられない中 居室は母にとって 寛ぎの場ではなかった。そこで私はよく 階上のリハビリ室や 天候が許せば 屋上に逃げ込んだものだ。どこまでも施錠された閉鎖空間と違って エレベーターも出入り自由で涼しいし 何しろ空気がきれいだったからだ。

今は個室がある。食事前後・体の疲労が見られる度 母は頻繁に個室とリビングの間を 行ったり来たりさせてもらっている。少しベッドで横になれば 快復も早い。姿勢が戻れば 食事も通り易く 却って介護者にも優しい。そして 短時間の昼寝は 意識を戻す。

何よりも嬉しいことは トイレも個室だということだ。狭い空間で 母にとっては転倒リスクが少なく 前傾姿勢も取りやすいし第一 安全が保たれ易い。また慣れも生じ易く 本人に出来る それがどんなに簡易な動作であっても 横から必要な補助動作としての介護との共同作業が実現でき 全介助を免れるからだ。

取れない汚れが付着した便器に擦れないように 上着を全部たくし上げて ズボンの裾を大きく捲り上げた母の姿と 今の 自然に何の気を遣うことなく自分専用の便器に腰掛ける姿とは 全く違う。
エアコンの効いた居室内のトイレに座る時間は より母と私にとって 心地良いコミュニケーションのひと時に早変わりした。


引越しの当夜 リビングの椅子に座り 父と 母を囲んでいた時のことだ。ふと見れば 母の両目には涙が溢れていた。
アルツハイマー病であると告げられた2004年2月以来 初めて見た母の涙であった。
この進行性の病は治らない。
もちろん先のことは分からない。
けれども 母が病気になって以来 この瞬間ほど 「今」という時を感謝したことは なかった。

戦場を知らない私にふと ついて出た言葉は「戦場から帰還できた」だった。


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