旧・日常&読んだ本log

流れ去る記憶を食い止める。

2005年3月10日~2008年3月23日まで。

以降の更新は、http://tsuna11.blog70.fc2.com/で。


テーマ:
高村 薫
レディ・ジョーカー〈上〉 」 「 レディ・ジョーカー〈下〉

「物語三昧」ペトロニウスさんに、高村薫の『リヴィエラを撃て』をオススメしていたところ、こんな記事を書いて下さいました。

ペトロニウスさんの記事はこちら
→ 『リヴィエラを撃て』 高村薫著 素晴らしい人間ドラマでした
  『リヴィエラを撃て』高村薫著② ハードボイルド小説の心象風景とディティールの描写

ついでに、こっちも
→ 『毎日が日曜日』 城山三郎著 日本株式会社の経済戦士たちのバイブル①

で、私はペトロニウスさんにオススメしたくせに、最近、高村作品を読んでません。このブログに記事を書いたのも、合田刑事シリーズ第二作目の『照柿 』くらい。一時期はまって、一気にガーっと読んだので、『新リア王』以外は一応押さえてはいるはずなのだけれど。「企業小説」であることもあり、このたび、唯一まだ持っている『レディ・ジョーカー』を読み直してみることにしました。

高村作品は大抵がどれも緻密な描写が続くのだけれど、再読となるとなまじ筋を知っているだけに、ついつい読み飛ばしてしまうことも。なかなか最初に読んだ時の集中力では読めませんです…。『レディ・ジョーカー』は登場人物の数も結構なものだしねえ。それぞれの人生が重いです。

さて、「レディ・ジョーカー」とは何ぞや。それは、ある犯罪グループが自称する呼び名。警察の捜査に浮かび上がるような<鑑>もなく、一見ばらばらである彼らの人生において、唯一つ共通するもの。それは、「自分はジョーカーを引いてしまったのではないか」という思い。年齢も職業もバラバラの男たち。ただただ目の前に起きた出来事を見据え、与えられた仕事を黙々とこなした日々。しかし、己の人生は、確実に正負のバランスが狂ってはいまいか?

抑鬱された感情の果てに彼らが起こした行動は、大手ビール会社を恐喝して金を強奪するというもの。実際のところ、男たちには金への執着心はほとんどない。それはこの閉塞した状況を抜け出すための手段にすぎない。偶然が積み重なって選ばれた企業<日之出麦酒>も、実は必然であったのか。総会屋<岡田経友会>との関係、関連運輸会社やその主力銀行の融資疑惑を含め、日之出麦酒は様々な手に絡め取られていく。

最初の怪文書を除けば、約5年間のお話であるこの物語。『レディ・ジョーカー』は、合田刑事シリーズ第三作目であるからして、勿論合田刑事も登場する。「レディ・ジョーカー」の脅迫は実に巧妙であり、まずは日之出麦酒社長の城山を誘拐、ビールが人質であることを説明し、後に裏取引を行うというもの。「レディ・ジョーカー」の名にふさわしく、脅迫に使われるビールの色は赤。赤いビール、それは「レディ・ジョーカー」のしるし…。社長の誘拐には当然警察も介入し、また日之出の裏取引を阻止するために、生還した城山社長に張り付けた所轄の刑事が合田というわけ。

警察と企業の駆け引き、警察の捜査、企業内でのパワーバランス、報道記者の世界などなど、余すところなく、非常にみっちりと描かれます。

レディ・ジョーカー」に対峙するうち、メンバーの一人であり、暴力的でぎらぎらした思いを持て余す男に引きずられるように、合田刑事もまた隠微な思いを深めていく。彼らの行動は互いにほとんど愉悦の源でもある。この二人は最後まで突き抜けていってしまうけれど、そうではないメンバーたちもいる。どこの闇に落ちたのかすら分らない者もいるけれど、「終章」で描かれる山々や耕地の姿は美しい。泥のように、澱のように、隠されていた強烈な怒りや、憤りがそれぞれに噴出したこの事件。この事件を体験した者たちは、それぞれに生まれ変わることが出来るのだろうか。この事件が起こったことによる、様々な弊害は残るのだけれど…。

「企業小説」として「終章」で語られる出来事は苦い。背後に暴力団誠和会がつく、岡田経友会とのしがらみを暴露した日之出麦酒への報復として、社長職を辞任した城山は第一回公判の前日に射殺される。城山三郎さんの小説などとは(って、たぶん、むかーしに数冊読んだだけなんだけど)、この辺の厳しさ、リアルさが違うよなぁ、と思います。

終章」で、本庁の国際捜査課に警部として異動になったことが知れる合田刑事。照柿』で灼熱の浄化を経験し、レディ・ジョーカー』にて「再び生まれ落ちた」合田刑事。国際捜査課での活躍も見たいものです。

<おまけ> 料理について
城山の秘書、野崎女史が城山のために用意する軽食が美味しそうでねえ。実際に作るのは、自社ビルの四十階にあるビヤレストランの総料理長なのですが。

 もともとは、ザワークラウトと男爵イモを骨付きの塩豚の塊とともに白ワインで煮込んだものだが、城山のために豚の塊は抜いてあり、ネズの実入りの真っ白なザワークラウトが小ぶりの一山、ほくほくに煮上がって粉をふいたジャガイモが一つ、バター煮のサヤインゲンが少々、熱々の湯気を立ててマイセンの皿に載っていた。          (上巻p330から引用)

誘拐犯から解放されて、会社に戻ってとる食事がこれ。ザワークラウトを食べると、この場面を思い出します。
上巻/目次
 一九四七年―怪文書
第一章 一九九〇年―男たち
第二章 一九九四年―前夜
第三章 一九九五年春―事件
下巻/目次
第四章 一九九五年夏―恐喝
第五章 一九九五年秋―崩壊
終章
AD
いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)

テーマ:
 
桐野 夏生
魂萌え !  

関口敏子五十九歳。子供二人は既に家を出て、退職した夫と二人で暮らす、慎ましいけれども平凡な日々。六十三歳の夫もまだ若い。まだまだ二人の生活が続くのだと思っていたのだけれど・・・。

目次
第一章 混乱
第二章 夫の秘密
第三章 家出
第四章 人生劇場
第五章 紛糾
第六章 水底の光
第七章 皆の本音
第八章 嫁の言い分
第九章 手帳の余白
第十章 妻の価値
第十一章 夜の惑い
第十二章 燃えよ魂、風よ吹け

持病もなかった夫は、ある日突然倒れてそのまま逝ってしまった。敏子の混乱に輪をかけるように、夫の十年来の愛人の存在が明らかになり、また、アメリカに行ったきりだった息子の家族が突然同居を提案するなど、敏子の心は千々に乱れる。夫とのこれまでの生活は何だったのか、自分はこれからどうやって生きるべきか。心は揺れ、言動もまた揺れ、時に揺り戻す。

これまでしなかったことをしようと、独りで今後の事を考えるためにカプセルホテルに泊まれば、凄まじい人生経験を持ち、今ではカプセルホテルに棲むつく老女と知り合いになり(そして、金をせびられ)、夫の隆之が入っていた蕎麦食べ歩きの会に誘われてみれば、メンバーの塚本によろめき、また思いもかけぬことに夫の愛人と対決めいた事になったり。仲の良いグループだと思っていた高校時代の友人三人とも、寡婦の栄子の気持ちは分かるものの、家族持ちの和世や美奈子とは何だか距離を感じたり。

息子とて、アメリカに行ったきり、帰国したのは夫隆之の葬式が初めて。アメリカで結婚した嫁、生まれた孫とも、ほぼ見知らぬ他人である。なおかつ、息子、彰之はあちらで始めた古着屋に限界を感じ、日本に戻ってきて、隆之亡きこの家に寄生するつもりらしい。娘、美保とて、年下の彼氏、マモルとの同棲生活も長いけれども、コンビニの店員同士では、将来は難しい。

知人、友人、隣人、袖擦り合うも、の他人、血を分けた子供たち。当たり前だけれど、全て彼らは自分ではない。時に分かり合え、手に手を取り合ったりしても、反発する事だってあるし、嫌な思いだってする。それでもきっと、死んでいるように生きているよりもずっといい。慎ましやかな奥さん、毒にも薬にもならない敏ちゃん。敏子は隆之の影に隠れてこれまで知らなかった世界を知り、周囲の人間とももっと踏み込んで付き合えるようになる。時に図太くなりつつも、ね。専業主婦、関口敏子の冒険、萌えよ、出でよ、敏子の魂、という感じかなぁ。

しかし、これは作者が「あの」桐野さんであることから、怪しげな人物が出てくるたびに、ドキドキしながら読んじゃいましたよ。怪しげな人物はそこここにいて、人間の欲望を剥き出しに抉り出した恐ろしい『ダーク』のように、敏子が身包みはがされたり、酷い目に遭うんじゃないか、と気が気ではありませんでした。でも、新聞連載だったからか、意外と穏当で前向きなお話でした。私は無駄にドキドキしながら読んじゃったし、単行本の表紙はえらく派手なんですけどね。
   ←文庫も
 ←こちらでは、お馴染み村野ミロが酷い事になってます・・・
AD
いいね!した人  |  コメント(2)  |  リブログ(0)

テーマ:
 
佐藤 賢一
女信長  

織田信長といえば、知らぬ者などいない、戦国時代から安土桃山時代を駆け抜けた戦国大名。楽市楽座、関所の撤廃などの商業政策、バテレンに学んだ鉄砲の重用、土地に縛られぬ常備軍の編成や、出自ではなくその能力を問題にする能力主義など、その姿勢は実に革新的なものであった。

しかし、これらのことも、商業が盛んな尾張の地で育った、経済に明るい女としての知恵であったのなら、力に囚われぬ、力のみに恃むことをしない、また名誉に囚われぬ、名ではなく、実を取る女としての生き方であったとしたとなら、それ程不思議な事ではなかったのかもしれない。

目次
序章  斎藤山城道山、富田の寺内正徳時まで罷出づべく候間
第一章 御敵今川義元は四万五千引率し
第二章 江北浅井備前手の反復の由
第三章 明智が者と見え申候
終章  徳川家康公、和泉の堺にて信長公御生害の由承り

父、織田備後守信秀は、女である御長を跡継ぎとした。それは、男では一国、二国を取るといった、当たり前の事しか出来ぬであろうと思ったから。なんとなれば、織田弾正忠家はそもそも、大国の主では有り得ない。もとより、その持つものはとても少ない。であるからして、父、信秀は女である御長の自由な心に賭けたのだ。尾張の大うつけとして、あたりを練り歩いてきた信長は、民人の願いを知る。それは、泰平の世だ。とことん勝ち抜いて戦の世を終わらせるのだ。

ああ、天下を一統することの何が難しい? まだ年若い信長は、自身を犯したばかりの斎藤道山に、平らかな声で問いかける。誰も勝ちきれなかったのは、誰も勝ちたくなどなかったからではないか? 男は戦の世が好きだからではないか? 男は戦のために戦をする。しかし、この信長はそうではない。見据える先は、目先の勝利ではなく、泰平の世。天下布武をかけた、信長の戦いが始まる。

覚悟を持って臨んだ信長ではあったが、天下を一統するのはそこはそれ、口で言うほど簡単なものではなかった。戦場で勝手に抜きん出るものを許さない、勝手な行動を許さない、重臣に恃むことをしない、信長のやり方は、家臣たちの反発をも生む。それは男のプライドを引き裂く行為だからだ。女である信長は、御長は、しかし、それを斟酌することはない。はん、くだらない。それで戦に勝てるというのか、それで天下が獲れるというのか。

しかし、その中で抜きん出るものどももいる。勿論、それは、戦場で生臭い兜首を持ってくるような、馬鹿力にものを言わせる働きではありえない。それは頭を使ってこそ。信長の周りを固めるのは、一途な柴田勝家、猿と呼ばう木下籐吉郎、御長が恋し、後に手酷く裏切られることになる浅井長政、幼少期を織田家で過ごした松平元康(徳川家康)そして、明智十兵衛光秀などなど。

戦に継ぐ、戦の中、信長は、御長は、「信長」であることに揺れ、男と女の間で揺れる。「男だから」「女だから」、誰よりも拘るのは信長自身。男である信長、女としての御長の姿を使い分けるものの、年を重ねる毎に、男の体の優位性は御長の中で存在を増し、それに引き替え、ここぞという時に男どもに与えてきた「女」としての肉体は衰える。蝮・斎藤道山が娘、正室の御濃が言うとおり、いつまでも「女を使う」ことは出来ないし、女の身で戦場を駆け回り、ひとり、孤独に決断を下すのは辛いこと。凡百の女とは違うという自負が過ぎるあまり、長年の友であった御濃との仲もおかしくなり、男、信長としても、何をしたいのか、どうすればよいのか、段々と頭に霞がかかるようでもある。

そんな中で存在感を増すのは、明智光秀という一人の男。信長は、男としての余裕、器量に優れた光秀を重用するが、しかし、内心、これまで恃んできた自分自身が崩れてしまうようで、段々と素直にその言葉を受け容れる事が出来なくなる。後年の信長の光秀に対する扱いは、ほとんどヒステリー。自ら崩壊していくようであった信長は、光秀にある問い掛けをする。光秀はそれをどう受けたのか?

終章は、喰えない狸親父二人の会話。

面白かったことは面白かったんだけど、ここで言う「男」、「女」の定義は多少古臭いし(ま、「信長」の考える、男、女論みたいなもんなんだけど)、鮮烈に駆け抜けた織田信長の生き様を語る、最後の狸親父二人の会話もね、「男」どもはあくまでも謀議の世界からは離れられないという感じで、信長の事はうっちゃってしまったようでちょっと淋しい。まぁ、そこはそれ、天下を一変させる天才、異才なくしても、一旦動いた世界は、男どもの謀議の世界で、淡々と進んでいくのかも。

あとあれですね、 佐藤賢一さんの性描写は、「
王妃の離婚 」などはそうでもなかったんですが、なんか、痛そうですよ(まぁ、なんつーか、所謂、男根主義な感じがする)。
AD
いいね!した人  |  コメント(8)  |  リブログ(0)

テーマ:
 
皆川 博子
花櫓  

これ、面白かったー! 皆川博子さんは、色々な設定で書けちゃうんだなー。
以前読んだ「死の泉」は第二次大戦下のドイツを舞台にしていたけれど、こちら、花櫓」は江戸時代の歌舞伎、芝居者の世界を描いている。

歌舞伎の世界を全て理解出来たとは思えないんだけど、芝居者達の世界、「櫓」にかける思いには胸が熱くなる。あったり前なんだけど、中村勘三郎、市川団十郎、市川海老蔵、松本幸四郎など、見知った名前が出てきたりね。歌舞伎の一門に生まれるということ、連綿と続く伝統の世界に身を置くということは、やはり特別な重みがあることなんだろうなぁ。普通の世界とはきっとまったく違う世界。

お菊とお珊の二人は、中村座の座元の娘。二人の父は、八代目中村勘三郎。お菊は妾の、お珊は正妻の娘であるが、正妻の病が篤く、お菊の母が内内の事は取り仕切る日々。大人の思惑が渦巻く中、二人の少女は案外孤独であり、近づいたり反発したりしながら、それでも互いに唯一の味方として生きる。

また、子供の頃は芝居の楽しさ、煌びやかさしか見えなかったけれど、少女達は既にその裏側も存分に知っている。役者の世界は華やかなだけではない。地代は滞って、座元の内情は火の車であるし、歌舞伎役者は色づとめとも無縁ではない。少女達とほとんど年の変わらないあどけない伝九郎、美しい七三郎。彼らもまた、色子をこなして、役者としての色気を手に入れている。

俗にいう江戸三座。公許の櫓を上げられる小屋は、江戸に三つしかない。江戸に見世物、芝居は数あれど、三座の他は、野天の掛小屋でなくてはならぬのだ。
ここに野心を抱えた一人の若者がいた。<馬場の芝居>の若、源次の夢は、祖父が果たせなかった夢を果たす事。いつか三座のように、芝居町・二丁町で、良い役者を揃えて、大芝居を打つのだ。

彼ら芝居に魅せられた若者たちが、恋に、夢に生き、成長していく。少女だったお菊は、中村座座元のおかみに、お珊もまた揺れる不安定な時期を通り過ぎる。

櫓を上げるのは、江戸中の人たちに恋文をおくるようなもの。彼らの気持ちは、きっと届くはず。ただし、その内幕は、人々に分からなくとも良い。ただただ、芝居を楽しんで貰えれば・・・。しかし、その内部に生きる者達の姿は凄まじい。でも、この凄まじさがあるからこそ、内部に生きる者達の人生が濃密なのだろう。

すっごい面白かったのだけれど、うーん、この感動を上手く言い表せないな~。
残念無念す。

 ← こちらは講談社文庫
皆川 博子
花櫓  
いいね!した人  |  コメント(2)  |  リブログ(0)

テーマ:
 
佐藤 雅彦
毎月新聞  

「経済ってそういうことだったのか会議」 の(というか、「だんご三兄弟」の)佐藤氏による、新聞の形をしたエッセイまたは意見集。

ヨンコマ漫画ならぬ、サンコマ漫画の「ケロパキ」つきで、壁新聞的でもあるとも言えるのかも。この表紙のような雰囲気のものが、創刊準備号「じゃないですか禁止令」(これはまさに表紙になっている)から、第1号~46号最終号まで続く。「ケロパキ ボツ名作選」「テレビを消す自由 よりよくメディアとつきあうために」の二本の付録つき。

そういえば、子供の頃、母が主体となって「我が家の新聞」的なものを、時々発行したりしてたよなー、などと懐かしく思った。今でもこうやってブログにつらつら書いてたりするんだけど、ああいう手書きの文字で書くのも、当時は嫌々やっていたものだけれど、今思うと貴重な経験だったのかも、などと思う。

割とごく当たり前の意見も多いんだけど、ところどころ、「表現者」ならではと感じる「モノの見方」があって、面白かった。
第45号「す、も×8、のうち」より。
テレビ番組や映画などに多く見られる受け身で楽しむだけでいいエンターテインメントは確かに楽でありがたいです。逆に自分で考えなくてはならないインタレスト(探究心)主体の表現はちょっと面倒でもあるでしょう。しかし、今や手取り足取りの視聴率のとれるバラエティや安直なエンターテインメント・ビジネスに幻滅を感じている人々も少なくないような気がします。人間は、そもそも考える力があり、それを使うことに喜びを感じる生き物でもあります。
エンターテインメントからインタレストへ、これが今、僕が表現する上でとても意識していることのひとつなのです。

これは、付録の「テレビを消す自由」にも繋がっていく話

第5号「ブーム断固反対」は、もともと書こうと思っていた内容であったのに、まさにだんご三兄弟により氏自身がブームの渦中の人となってしまい「ブーム」についての客観的な警告ができない立場」になりながら、書かれたもの。
ブームとは記号的な消費の形であり、扇情的な力による消費の爆発的拡大である、という表現に、なるほどなるほど。
一度ブームが起こると、「そのとき、個人個人は、その商品の本来の価値よりも、「その商品を手に入れるかどうか」が大きな価値基準となり、人々は手に入れることによってかなりの部分で満足させてしまう」。ベストセラーなんかも、これに似てる。でも、「手に入れてしまえば、その商品に対して興味も愛着も続かない。だから寒々とした荒涼感が残る」のは淋しいよね、やっぱり。

第31号「これを、~とする」からは、旅先で食べた「赤ワインを発酵させたスープ」の話。ひどい味としか感じ取れなかった一行の中で、ある女性スタッフが「もしかして、ここの人たちは、これをおいしいとする?」と新たな見方を提案する。
自分が理解できないということは、自分の中にその価値を認める体系がないと言うことである、だから「このスープはおいしい」と仮に認め、改めてそのスープを飲むと逆にその価値観を含んでいる”ある体系”の存在に気づくことがあるのだ。
そう考えると、多くの文化や自然科学の成り立ちはみなそうである。
「光の速度を常に一定と考える」「量子と呼ぶ極めて小さいモノは物質と同時に波とする」と言ったとんでもないことを仮に認めると、それを包含している新しい体系が見えてきて、現実のこの世界を前より上手く解釈できる。これは、単純に違った価値観でものを見るべきであるといった教訓話ではない。創造というものの原点を示していると僕は思うのだ。

これは面白いものの見方だなぁ、と思う。「創造」というものは、遠いところにあるのではなく、実際は自分が思っているよりも、ずっと近くに転がっているものなのかも。

*臙脂色の文字の部分は、引用を行っております。何か問題がございましたら、ご連絡ください。
いいね!した人  |  コメント(14)  |  リブログ(0)

AD

ブログをはじめる

たくさんの芸能人・有名人が
書いているAmebaブログを
無料で簡単にはじめることができます。

公式トップブロガーへ応募

多くの方にご紹介したいブログを
執筆する方を「公式トップブロガー」
として認定しております。

芸能人・有名人ブログを開設

Amebaブログでは、芸能人・有名人ブログを
ご希望される著名人の方/事務所様を
随時募集しております。