旧・日常&読んだ本log

流れ去る記憶を食い止める。

2005年3月10日~2008年3月23日まで。

以降の更新は、http://tsuna11.blog70.fc2.com/で。


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桂 米朝
上方落語 桂米朝コレクション〈1〉四季折々 (ちくま文庫)

上方も何も、ほとんど落語を聞いたことはないのだけれど、ちょうど北村さんの「円紫さんと私」シリーズを読んでいたこともあり、図書館で目について借りてきた本です。私の落語体験と言えば、タクシーの中で運転手さんが聞いているもの、というくらいのお寒いものなんですが…。当時、実家が終バスが終わるとタクシーで帰るしかない場所にあり、深夜料金を払って帰ったものです。暗い夜道を行く中、くつくつと笑いながら、落語を聞いている運転手さんが印象的でした。

さて、こちらの桂米朝コレクション。「どもならん」くて、「かなわんなぁ、これ」な出来事が、笑いに転ずる様が楽しかったです。すべて理詰めでいくわけではないけれど、時代に合わない部分も何とか考えながらなさっているわけですね。後は、こうやるといやな後味が出てしまう(だって、落語の登場人物と言ったら、それはお調子者なわけですし)、というところを、ほのぼのと、からりと明るい笑いに持っていく。それが演者の技なのでしょうね。

最初に米朝さんの、その噺に対する考えや解説が入り、その後にお噺が収録されているスタイルです。「千両みかん」における、以下の文がまさに、落語というものを表しているのかと。

 時代が変わりすぎてしまいましたが、なればこそ、古い時代の物語をしゃべることによって、その夢の世界へ見事にお客様を御案内し得た時の、われわれの喜びもお客様の興趣も、一段とまさるのではないかと考えます。

そうやって、今はもうない夢の世界へ案内してくれるのが、落語なのですね。

目次
けんげしゃ茶屋
正月丁稚
池田の猪買い
貧乏花見
百年目
愛宕山
千両みかん
蛇含草
まめだ
かけとり
風の神送り

解説 小松左京


百年目」は、「円紫さんと私」シリーズの若き日の円紫さんが、師匠のやるこの噺を聞いて、落語をやろう、と決めた噺。というわけで、当然、「空飛ぶ馬 」にもこの噺の解説は出てくるわけですが、やっぱり字数の関係もあるし、この時は噺を全部わかったわけではなかったので、このお噺をきちんと読めたのも嬉しかったな。

貧乏花見」は、大正期に東京へ移されて、「長屋の花見」という題のお馴染みの落語になったのだとか。疎い私でも、タイトルくらいは聞いたことがあったかな。貧乏長屋のパワー溢れる人々が良かったです。お茶を持ち寄って樽に入れて「お茶け」と称したり、そんなものをこの人たちが持っているはずもない、持ち寄った晩菜の大層な名前も楽しい。

これ、今amazonを見たら、全8巻のシリーズなのだとか。2は「奇想天外」で、3は「愛憎模様」、4は「商売繁盛」、5は「怪異霊験」で、6は「事件発生」。7は「芸道百般」、8は「美味礼讃」。むー、テーマもみんな気になるではないですか。わが図書館に、全部置いてあるのならば、ぼちぼちと読んでいきたいシリーズでありまする。

*臙脂色の文字の部分は、本文中より引用を行っております。何か問題がございましたら、ご連絡ください。

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T.S. エリオット, Thomas Stearns Eliot, 池田 雅之, ニコラス ベントリー
キャッツ―ポッサムおじさんの猫とつき合う法

もくじ
猫に名前をつけること
おばさん猫ガンビー・キャット
  *
親分猫グロウルタイガー 最後の戦い
あまのじゃく猫ラム・タム・タガー
おちゃめなジェリクル猫たちの歌
  *
泥棒コンビ猫マンゴジェリーとランペルティーザー
長老猫デュートロノミィー
ペキニーズ一家とポリクル一家の仁義なき戦い
  *
猫の魔術師ミストフェリーズ
猫の犯罪王マキャヴィティ
  *
劇場猫ガス
ダンディ猫バストファー・ジョーンズ
鉄道猫スキンプルシャンクス
  *
猫に話しかける法
門番猫モーガン氏の自己紹介

 訳者あとがき 猫になりたかったポッサムおじさんの猫交遊録


ミュージカル「キャッツ」の原作である、詩人T.S.エリオットのユーモラスな猫の本。

以前、エロール・ル・カインの手による絵本(「キャッツ―ボス猫・グロウルタイガー絶体絶命 」)を読んだことがあるのだけれど、この絵本に収められていた三つのお話も、勿論この本に収められている。

実は、絵本で三つのお話(詩?)を読んだとき、ちょっと消化不良気味だったんだけど、こちらの文庫ではたんまりお話が載せられているので、そういったこともありません♪ でも、引き続き、エロール・ル・カインの絵本、「魔術師キャッツ―大魔術師ミストフェリーズ マンゴとランプルの悪ガキコンビ」は探そうっと。
また、キャッツはお話というか、ほとんど詩なので、言葉遊びの面も大きく、その辺の解説が丁寧に下に載せられているのも嬉しかったなぁ。「キャッツ」に登場する猫たちの名前には、T.S.エリオット自身の造語が多いのだって。

ミュージカル「キャッツ」でも印象深く、また「キャッツ―ボス猫・グロウルタイガー絶体絶命 」にもあったJellicle Catsは、Jelly「柔らかくて、プリプリした」、-cleはラテン語のclueの異形で「小さな」ものを表す接尾辞から出来た言葉なのだそうな。

さらに、訳者あとがきによりますと、「ポッサムおじさんOld Possum」というのは、先輩のアメリカ詩人エズラ・パウンドがエリオットにつけた渾名なのだとか。「猫に話しかける法」を読むと、エリオットと猫との付き合い方が良く分かります。


 犬は犬、猫は猫であって、お調子者でいなか者の犬とは違う。
 だから、みなさんから猫にご挨拶を。
 でも、猫は、人様になれなれしくされるのが大嫌い、
 そのことを忘れてはいけません。
 猫たるもの、人間から敬意を表されるのは、
 当然至極なこと。
 「犬は犬、猫は猫」ということ。
 これこそが、猫に話しかけるコツ。
 
 (イタリック部分は、省略語、意訳して引用しています)

この本には様々な猫が出てくるけれど、エリオットの敬意あふれる猫との付き合い方が良く分かるでしょう? 「お調子者でいなか者」っていうのはあれだけど、確かに犬の方が猫よりも、人が好い感じがするよなぁ。でも、猫は気難し屋であるからこそ、親しく接することができれば、より喜びは増すのかな。
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カズオ・イシグロ, 小野寺 健, Kazuo Ishiguro「女たちの遠い夏

カズオ イシグロ, Kazuo Ishiguro, 小野寺 健

遠い山なみの光


カズオ・イシグロの「女たちの遠い夏」。原題は、「A Pale View of Hills」ということで、私が読んだのはちくま文庫版「女たちの遠い夏」なんだけど、ハヤカワ文庫から出ているものは「遠い山なみの光」というタイトルになっているそう。訳者も同じ方のようだし、これ、中身は一緒なのかなぁ? 原題に近いのはハヤカワ文庫だけれども、読み終わってみると、ちくま文庫版のこのタイトルも、翻訳としてはとてもいいな、と思う。

イギリス人の夫と二度目の結婚をし、イギリスに移り住んだ日本人女性、悦子。日本人の夫、二郎との子供、景子の自殺という事態に直面した彼女は、帰し方を振り返る。

もう、全編、カズオ・イシグロならではの、「信頼ならざる語り手」の風味が満載。この作家の場合、書かれていることよりも、書かれていないことの方が、実は重要だったりするので、うーむ、実際はこの時何が起こったのだろう?、この人はどう考えていたのだろう?、と色々想像しながら読みました。こういう書き方のスリリングさに、慣れてくると、ゾクゾク、ドキドキしちゃうなぁ。

悦子が思い出すのは、主にあの夏の出来事。彼女が一人目の子供(景子?)を妊娠中に、過ごした戦後の長崎での思い出。

まだ親子が同じ家に住む事が当たり前だった時代、新婚の二郎と悦子が暮らしたのは、狭いけれどそれなりに現代的で、若夫婦が多く暮らすアパート。その夏、二郎の父、「緒方さん」は、悦子たち夫婦の元に逗留する。

「緒方さん」が象徴するのは、価値基準が変わってしまった世の中で、上手く適応することが出来ない人間。生涯を教育に捧げた「緒方さん」だったけれど、戦後においては、アメリカによる民主主義が幅を利かせ、戦前の教育は全て悪であるとされた。息子もまた、自分自身の仕事に忙しい現役世代だからして、父親のそんな気持ちを顧みることはない。この父子の将棋の場面など、かなり切ない。悦子のみが、その「緒方さん」の気持ちに寄り添うのであるが・・・。見たことないんだけど、ちょっと小津映画の『東京物語』のようでもあるのかな?

いま一人、登場するのは佐知子という名の、少々得体の知れない女。彼女は所謂、「アメリカさん」であり、悦子たちが暮らす集合住宅から少し離れた古い木造の家に、娘、万里子と暮らす。悦子は何かと彼女たち母子を気に掛けるのだけれど、佐知子の態度はあまりいいとは言えない。本来は名家の嫁であり、戦争さえなければこんな暮らしをしてはいなかった、と薄笑う彼女。口では娘の幸せが一番、と言いながら、娘の万里子を放っておいたり、万里子が飼っていた子猫を引越しに邪魔だから、という理由のみで殺してしまったりなどと、母親としてもちょっとどうか、という感じ。佐知子が象徴するのは、自分自身の幸せや可能性のみを追求する人間なのかなぁ。学校に行っていない娘の万理子も、一風変わった感じで、それは悦子の自殺した娘、景子の生前の引き篭もる様にも通じている感じ。

日本を棄てて、アメリカに出て行こうとする佐知子。端から見れば、そんなあやふやな可能性に、自分や娘の人生を賭けてもいいのか?、と思えるのだけれど、不確かなものだと分かっていても、何もない人生よりは余程ましだと佐知子は言い切る。

多くは語られないけれど、それはきっと日本人の夫、二郎と別れ、イギリスに渡った悦子の生き方とも重なるはず・・・。

回想する悦子の傍にいるのは、イギリス人の夫との間に生まれた娘、ニキ。ニキは悦子の生き方を肯定するけれど、ニキ自身の人生への母親の干渉は固く拒む。そして、ニキもまた、親の干渉を拒んだ自分の世界、彼女の居場所であるロンドンへと帰っていく・・・。

様々な価値観、阻害されたコミュニケーション、脆弱な世界・・・。こう並べると否定的にも思えるけれど、興味深く、面白く読みました。全編を覆うのは、何となく不穏なイメージだし、「幸せです」と言い切るたびに、不幸や不安が覗く感じなのだけれど・・・。

うーん、そしてこれは、悦子=佐知子で、景子=万里子なのでいいのかな。佐知子母子と妊娠中の悦子の三人で、長崎のケーブルカーに乗ったときの思い出について、「あの時は景子も幸せだったのよ」とあるのだよね。やはり、カズオ・イシグロは油断がならないのでありました・・・。


■カズオ・イシグロの感想
・「
わたしを離さないで 」/この無慈悲な世界の中で ← これにて瞠目
・「
わたしたちが孤児だったころ 」/揺らぐ世界の中で・・・・
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荒俣 宏
新編 魔法のお店


目次
序 マッチ売りの少女とまだらの笛吹き 荒俣宏
 マッチ売りの少女 アンデルセン
第一章 魔法の品あります
 われらの街で R・A・ラファティ
 星を売る店 稲垣足穂
 謎の水晶 H・G・ウェルズ
 奇妙な店 ウォルター・デ・ラ・メア
 おもちゃ ハーヴィ・ジェイコブズ
 マルツェラン氏の店 ヤン・ヴァイス
第二章 運命のまっている店
 魔法の店 H・G・ウェルズ
 ピフィングカップ A・E・コッパード
 かどの骨董店 シンシア・アスキス
 ザカリウス親方 ジュール・ヴェルヌ
 お茶の葉 H・S・ホワイトヘッド
第三章 わな、あるいは迷路へ
 支那のふしぎな薬種店 フランク・オーエン
 小鬼の市 クリスチーナ・ロゼッティ
  瓶の中のパーティ ジョン・コリア
 白いダリア エルゼ・ラスカー=シューラー
  作品解題 荒俣宏
 文庫版あとがき

お店は商品を売るところ?勿論そうでもあるんだけど、「序 マッチ売りの少女とまだらの笛吹き」における荒俣氏の言葉を借りれば、店とは無数の入り口とたったひとつの出口をもつ「魔法の空間」なのである。そんなわけで、これは様々な入り口から覗き見た、沢山の「魔法の空間」を扱った短編集。

第一章は、「魔法の品あります」。さて、ここで取り扱う商品とは?

われらの街で」は、奇妙なお店が立ち並ぶ地区の話。どう見てもその店に収まるはずのないサイズや量の品物を安々と出荷してみせる店、タイプライターも見当たらないのに公認代書士を掲げる娘の店、注文した途端見当たらなかったビールが現れる店・・・。この地区の住人にとっては、「作る」と「寄せ集める」ことは違うようなのだが・・・「原料が要るっていうことは、つまり寄せ集めることで、決して作ることじゃありません。

星を売る店」は、小説家の私が夜の街で見つけたコンペイ糖のような「星」を売る店の話。コンペイ糖にはそんな秘密があってもおかしくないかも? この「星」は、おもちゃの汽車の動力として良し、コクテールの中に入れても良し、粉末にしてタバコの中に巻き込んで良し、フラスコの中に入れてアルコオルランプで温めて蒸気を吸っても良し・・・。

謎の水晶」は不運な骨董店の店主、ケイヴさんの話。ケイヴさんが仕入れた水晶には、不思議な世界が見えるのだが・・・。

奇妙な店」は物陰にひっそりと潜んでいた音を売る店の話。

おもちゃ」は骨董店のショウウィンドウに、子供の頃のおもちゃを見つけたハリーの話。しかも、それは最初に見つけたトラックだけではなかったのだ!

マルツェラン氏の店」。店の中の品物を売り切ったら隠居暮らしをするのだと、その日を楽しみにするマルチェラン氏。しかし、皺になったこともなければ汚れた事もない、いつでも新品のままでいる永遠の帽子だけが、ぽつんと一つ残ってしまったのだ。
第二章は「運命のまっている店」。登場人物を待ち受ける運命とは一体如何に?

魔法の店」は、良い子にしか入れないという、ロンドンにある<純正魔法の店>の話。何があっても、何が買えても不思議はない。だってここには、純正の魔法があるのだから! 

ピフィングカップ」は厄介な貰い物をしてしまった、床屋のピフィングカップ氏の話。その鉢には人徳の程を試す仕掛けがあるというのだが・・・。 

かどの骨董店」はある日、感じの良い骨董店を見つけたピーター・ウッドの話。ところが、別の日に訪ねた骨董店の様子は、美しく明るい姉妹が居た時とは、また全然違ったもので・・・。

ザカリウス親方」は時計職人のザカリウス親方の話。神をも恐れぬ時計職人ザカリウス親方の運命は?

お茶の葉」は珍しくもちょっとロマンチックなお話。ニューイングランドの女教師、ミス・アビーが練りに練ったヨーロッパ旅行の旅先で見つけたピンクのネックレスの話。「かどの骨董店」とも似ているけど、こちらはミス・アビーの朗らかな性格のままに、ほのぼのとした結末。
第三章」は「わな、あるいは迷路へ」。序文の通り、お店は不思議な世界の入り口となる。

支那のふしぎな薬種店」は、この世の全ての愉しみや快楽に飽いてしまった役人が訪れた薬種店の話。そこで彼が見たのは、愛らしい宝石のような、決して歳をとる事のない娘。

小鬼の市」は、詩の様なオペラのような?決して食べてはならない小鬼の市の果物を、甘言につられて食べてしまったローラと、ローラを助けるその姉のリジイの話。

瓶の中のパーティ」。豪奢な暮らしを夢見るフランクがみすぼらしい横町で見つけたのは、様々な瓶を売る店。そこで見つけた良く役に立つ、「実用的な」瓶から出てきたのは、願い事を何でもかなえてくれる妖鬼(ジン)だったのだけれど・・・。

白いダリア」は可憐な白いダリアと、青い櫛の恋のお話。

コミカルなものあり、幻想的なものあり・・・。でも、どの風味も味わい深い短編集です。

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石垣りん「ユーモアの鎖国」

石垣りんさんを知ったきっかけは、「表札」という詩だったと思う。ずっしりきたのを覚えている。その後、あちこちでぽつぽつとお見掛けした詩も、いいなぁと思うものが多かった。この本のことは、ブログを始めた頃から是非書こうと思っていたのだけれど、ついそのままになっていた。Kyoko さんの石垣りんさんの記事 を拝見して、ようやく書いてみる事にしました。

ちくま文庫表紙裏より
戦争中には、戦死にまつわる多くの「美談」がつくられた。ある日、焼跡で死んだ男の話を耳にした。その死に「いのちがけのこっけいさ」を感じた時、数々の「美談」に影がさすのを覚えた。そして自分の内の「ユーモアの鎖国」が解け始めたのだ。戦中から今日までに出会った大小の出来事の意味を読みとり、時代と人間のかかわりを骨太にとらえた、エピソードでつづる自分史。

一つ一つは短いエピソード。でも、石垣さんの目を通すことで、ずっしりと重みを持つような気がする。当時は肩身が狭かった、詩を書き、文学を好む娘であった石垣さんは、この「好きなこと」をするために、少女期から永く自分から働きに出て、定年となるまで銀行員として働き続けた。その暮らしの中から、詩が生まれ、これらの文章が生まれたのです。


印象深い箇所。 いつも以上に引用が多いです。
全ていい言葉で、削れなかった。

「果実」:
「いいかい?自分から落ちてはいけないよ。落ちた木の実は鳥もつつかない。枝の上で待つことだ。ああおいしそうだなあ、と思って人がそれをもぎとるまで」
聞いていて自分が、からだごと小枝の先で重くなるりんごのような気がした。
(中略)
けれど師の言葉は、だから待て、と言うのではなかったと思う。ひとり実って、与えることをごく自然に待つ姿。どんなに心がひもじくても物乞いしてはならない愛というもの―師がこぶしを軽く上げて見せた、その高さにいまも目がとまる。不肖の弟子はかすかな風にも落ちてばかりいた。待つことは、しんぼうのいる、むつかしいことでもあった。
「ひとり実る」って、いい言葉だと思う。媚がない。

「待つ」:
個々には何を待ったかわかっていても、それらはすべて、待つということの部分にすぎなかったような気がする。時を待つことも。人を待つことも。
詩を書くことも、待つことのひとつではなかったかと思う。未熟だけれど、それさえ私が一人で書いたものはひとつも無いような気がする。いつも何かの訪れがあって、こちらに待つ用意があってできたものばかり。
待つ用意。私にも何か訪れるものがあるのだろうか。
こんな覚悟がないから、駄目かなぁ。

「詩を書くことと、生きること」:
ただ、長いあいだ言葉の中で生きてきて、このごろ驚くのは、その素晴らしさです。うまく言えませんけれど、これはひとつの富だと思います。人を限りないゆたかさへさそう力を持つもので、いいあんばいに言葉は、私有財産ではありません―。権利金を払わなければ、私が「私」という言葉を使えない。といったことのない、とてもいいものだと思います。
苦しい中で、働いてきた人ならではの言葉だと思う。

「立場のある詩」:
こんな風に、自分の内面にありながらはっきりした形をとらないでいたものが徐々に明確に出てくる、あらためて自分で知るといった逆の効果が、詩を書くことにはあるようです。かりにも私の場合、書くことと働くことが撚り合わされたように生きてきた、求めながら、少しずつ書きながら手さぐりで歩いてきた、といえます。 自分の詩に欲をいえば、その時刻と切りはなすことの出来ない、ぬきさしならない詩を書いてみたいと思います。永遠、それは私の力では及ばない問題です。
綺麗なものを綺麗だと言うものだけが、詩ではない。
実用的な、抜き差しならぬ詩。

「持続と詩」:
私にとって詩は自身との語らい。ひとに対する語りかけ。読んでもらいたいばかりに一冊にまとめたのですけれど、みとめてもらえるというようなことは勘定外でした。詩が私を教育し、私に約束してくれたことがあったとすれば、書いても将来、何の栄達も報酬もないということ。も少し別の言いかたをゆるしてもらえるなら、世間的な名誉とか、市場価格にあまり左右されない人間の形成に、最低役立つだろう、ということでした。その点では、詩は実用的ではありません。その非実用性の中に、私にとっての実用性をみとめたのでした。

石垣さんの文章を読むと、清廉な心持ちに触れて、気持ちがしんとする。「魚の名前 」の川崎洋さんの話があることを、再読してはじめて気付きました

石垣 りん
ユーモアの鎖国
*臙脂色の文字の部分は本文中より引用を行っております。何か問題がございましたら、御連絡下さい。
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三島由紀夫「反貞女大学」ちくま文庫

三島由紀夫による講義を受けることが出来ます。私が持っているちくま文庫版には、この表題でもある女性学「反貞女大学」と、対になる男性学「第一の性」が収められている。

ちくま文庫表紙裏より
「貞女とは、多くのばあい、世間の評判であり、その世間をカサに着た女の鎧であります」さあ、鎧を脱ぎましょう、この大学では、姦通学、嫉妬学、社交学、整形学など種々の講座があります(反貞女大学)。
そのあとで男性をじっくり研究して(第一の性)幸わせとは何なのかお考え下さい。三島のユニークな男と女の研究書二篇を収録。


■「反貞女大学」ではこんな講義があります。

反貞女であればこそ、健康で、欲が深くて、不平不満が多くて、突然やさしくなったりするし、魅力的で、ピチピチしていて、扱いにくくて、まあまあ我慢できる妻でありうるのです。私はこの講義の中で、人間生きていれば絶対の誠実などというものはありえないし、それだからこそ、人間は気楽に人生を生きてゆけるのだ、という哲学を、いろんな形で展開したつもりでした。「絶対の誠実」などを信じている人たちの、盲目と動脈硬化はおそろしい。私はその肩を、多少手荒く、揉みほぐして差し上げようと思ったのです。

結構辛辣な所もありますが、意外と自由な考えなのです。「思い込みから解放して差し上げましょう」というスタンス。この時代でこんな考えを持っていたのだなぁ、というのが何だか不思議。


■「第一の性」は、<総論>と各個人について論じた<各論>からなっている。<各論>の最後には「三島由紀夫」が登場。「三島由紀夫」論はなかなか面白い。「何だ、どう見られてるのか、ちゃんと分かっているんだ」、とニヤリとする感じ。
----------------------------------------------------
三島由紀夫については、この明晰な頭脳と、最期の様子がどうにも結びつかなかったのだけれど、吉本隆明氏「追悼私記」を読んで何となく納得。以下、引用します。

三島由紀夫「重く暗いしこり」より

三島由紀夫の死は、人間の観念の作用が、どこまでも退化しうることの恐ろしさを、あらためてまざまざと視せつけた。これはひとごとではない。この人間の観念的な可逆性はわたしを愕然とさせる。<文武両道>、<男の涙>、<天皇陛下万歳>等々。こういう言葉が、逆説でも比喩でもなく、まともに一級の知的作家の口からとびだしうることをみせつけられると、人間性の奇怪さ、文化的風土の不可解さに愕然とする。


いかに知的な作家であり、明晰な頭脳を持っていても、観念だけではどちらにも進み得るのだろうか。
----------------------------------------------------
「第一の性」の<総論>は、「男はみな英雄」から始まるのだけれど、次の一文など鋭いというか何だか笑ってしまうというか。


男は一人のこらず英雄であります

男性方、失礼。でもこれって、男性の「少年性」や、ある種の「可愛らしさ」に通じているように思うのです。

三島 由紀夫
反貞女大学

*臙脂色の文字の部分は引用を行っております。何か問題がございましたら、御連絡下さい。
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三島由紀夫「三島由紀夫レター教室」


文豪・三島由紀夫。実はちゃんとした小説を読んだことは殆どなく、こういった変則的な本ばかり読んでいる。中でも、これはかなりの変化球?

表紙裏より
職業も年齢も異なる5人の登場人物が繰りひろげるさまざまな出来事をすべて手紙形式で表現した異色小説。恋したりフラレたり、金を借りたり断られたり、あざけり合ったり、憎み合ったりと、もつれた糸がこんがらかって・・・・・・。山本容子のオシャレな挿画を添えて、手紙を書くのが苦手なあなたに贈る粋な文例集。解説 群ようこ

説明難しい(というか、このままというのか?)本だけれど、面白い。みんな好き勝手に手紙を書いています。登場人物は以下の5名。
(A) 氷ママ子(四十五歳):かなり肥った、堂々たる未亡人で、元美人。
(B) 山トビ夫(四十五歳):ママ子と同年のボーイ・フレンド。
(C) 空ミツ子(二十歳):氷ママ子の英語塾のかつての生徒。
(D) 炎タケル(二十三歳):貧しいながら、芝居の演出の勉強をしている、大まじめな、理屈っぽい青年。
(E) 丸トラ一(二十五歳):まんまるに肥っているので、世にも楽天的である。人が楽天的に見てくれる以上、そうならざるをえない。

ここに挙げただけではない、細かい設定が最初の「登場人物紹介」でなされ、まさにこういう人が書いたんだなあと、思わされる手紙をしたためます。私はこの中では、すっとぼけた丸トラ一が好きかな。身近に居たら、腹が立つのかもしれないけれど。

彼ら五名の手紙が飛び交って、話は進んでいきます。しかも最後には、みんな収まるべき所に収まります。こういう本を読むと、三島由紀夫って頭良いんだなーと思います。しかし「レター教室」と題しながらも、所謂形式的な手紙の書き方は上手くなりません、きっと。笑(思ったことを、さらさらと書けるようにはなるのかもしれない)

最後の「作者から読者への手紙」もさりげなく毒を吐いていて、私は好きです。三島由紀夫自身も、何を伝えたいのかよく分からない、ファンレターには悩まされたようです。そういう意味でこの「レター教室」は、みんな伝えたいことをきっちり伝えているので、前言を翻すようですが、やっぱりきちんと「教室」になっているのかな。

世の中の人間は、みんな自分勝手の目的へ向かって邁進しており、他人に関心を持つのはよほど例外的だ、とわかったときに、はじめてあなたの書く手紙にはいきいきとした力がそなわり、人の心をゆすぶる手紙が書けるようになるのです。(「作者から読者への手紙」より)

著者: 三島 由紀夫
タイトル: 三島由紀夫レター教室


*臙脂色の文字の部分は本文中より引用を行っております。何か問題がございましたら御連絡下さい。

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