旧・日常&読んだ本log

流れ去る記憶を食い止める。

2005年3月10日~2008年3月23日まで。

以降の更新は、http://tsuna11.blog70.fc2.com/で。


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ケリー・リンク, 柴田 元幸

マジック・フォー・ビギナーズ (プラチナ・ファンタジイ)


久々にわっけわからない小説を読みました。私の読みこなす能力も、全然まだまだだなぁ。

目次
妖精のハンドバッグ
ザ・ホルトラク
大砲
石の動物
猫の皮
いくつかのゾンビ不測事態対応策
大いなる離婚
マジック・フォー・ビギナーズ
しばしの沈黙
 訳者あとがき

「妖精のハンドバッグ」
はヒューゴー、ネビュラ、ローカス賞を、「マジック・フォー・ビギナーズ」はネビュラ、ローカス、英国SF協会賞を受賞とのこと。

ハンドバッグ、コンビニ、新居、婚姻、テレビ番組など、日常の普通のアイテムを使って、どこまでもぶっ飛んでいくのが特徴でしょうか。この辺は、女性SF作家だからか、少女漫画的なものとの関連を考えてしまったり。一部のSF的な少女漫画も、綺麗にぶっ飛んでくもんなぁ。もう一つ思ったのは、こちらも同じく女性SF作家である、キャロル・エムシュウィラーの「すべての終わりの始まり 」との類似。私の好みとしては、すべての終わりの始まり」の方なんだけど…。

こういうわけのわからない世界に連れて行ってくれるのも、ほんとは小説の醍醐味なんだろうけど、日常で細切れに読む、最近の私の読書のスタイルにちょっと向いてなかったかも。どこに連れて行かれるのか分らない、次に何が起こるか分らない、そういう振り幅、揺れ幅を愉しめないと、この物語の面白みはきっと半減してしまう。

今、印象に残っているのは、「石の動物」「猫の皮」「いくつかのゾンビ不測事態対応策」「大いなる離婚」「マジック・フォー・ビギナーズ」です。あれ、なんだかんだいって結構多い?笑

「石の動物」は、家中の物が全て憑かれてしまう新居に引っ越してしまった家族の話、「猫の皮」は童話風の魔女の養い子スモールの話。「いくつかのゾンビ不測事態対応策」はゾンビ不測事態対応策を練り上げる男の話。でも、もしかして、この男自体がゾンビなの? 「大いなる離婚」は死者と結婚する事が流行った世界の、生者と死者の婚姻の話(子供だって出来ちゃうのだ!)、「マジック・フォー・ビギナーズ」は不定期、不特定のチャンネルに流れる、テレビ番組「図書館」を巡る物語。

こうやって要約をしてみても、話の筋の説明にはなってないし、細かい部分は忘れていってしまうのだろうけれど、このヘンさ、みょうちきりんさはきっと忘れないだろうな~。

早川書房のプラチナ・ファンタジイ・シリーズ は、装丁も素敵なのだけれど、なんか私にはちょっと難易度が高いのかも・・・。プリーストの「魔法 」も、面白かったことは面白かったけど、結構読むのに苦戦したのです。楽しめないのが、なんかかなしい…。
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マークース・ズーサック, 入江 真佐子

本泥棒


語り手は死神。
表紙が全てを物語っているけれども、これは少女と死神(実際、大鎌は持ってないらしいけれど、人間はこのような姿を想像する)と本の物語。

「すてきとは無縁」であるそうだけれど、誠実に任務にあたるこの死神が見るのは、まず色、そして人間なのだという。一度に数万単位の魂を運ぶこともあるこの死神。魂が一人であっても数万の単位であっても、彼は彼なりに心を痛め、そのため、時にその痛みから気をそらすことが必要になる。生き残った人間たちの心の痛みに共感してしまう、心やさしき死神…。これは彼が語る、「生き残った者」、サバイバーである、ある少女の話。死神が長い間、ポケットに忍ばせていた一つのお話…。

その少女とは、ミュンヘンの郊外にある町、モルキングのヒンメル通り(訳:天国通り。皮肉なことに、そこは天国とは程遠い、貧しい人々が住む通り)に住む、フーバーマン夫妻の元に里子としてやって来た、リーゼル・メミンガーのこと。厳しい里親の母さん、ローザ・フーバーマンに、優しい里親の父さん、ハンス・ふーバーマン。親友の近所に住む少年、ルディ・シュタイナー。リーゼルは時に亡くなった弟の悪夢に魘されつつも、周囲の人に見守られて成長していくのだけれど…。

その人の真価が分かるのは、彼等に危機が訪れたとき。リーゼルは厳しく口の悪い母さんの優しさを知り、父さんの強い優しさを知る。それは1940年の11月のこと。ユダヤ人の青年、マックス・ヴァンデンブルグが、庇護を求めて彼らの元にやって来る。ナチス政権下のこの時代、この場所でユダヤ人を匿うというのは、実に大変なこと。彼らはそれをほぼ完璧にやり遂げるのだけれど、父さんの一つの失敗からマックスはこの家の地下室を去り、父さんは戦場へ送られる…。

部のタイトルは、それぞれちょっと奇妙なものだけれど、これはリーゼルに影響を与えた本のタイトルからとられている。このうち、「見下ろす人」と「言葉を揺する人」は、作中作、ユダヤ人、マックスがリーゼルのために創った物語。これもまた、アートワークを含め、非常に良いのです。

「言葉を揺する人」=ワード・シェイカー。最高のワード・シェイカーは、言葉の真の力が分かる人。リーゼルは普通一般の読書好きとは違うと思うけれど(彼女が最初の本「墓掘り人の手引書」を読んだ時、彼女は字を読むことすら出来なかった!)、言葉を一つ一つ噛み締めるようなその読書には、こちらも考えさせられてしまう。里親のローザがリーゼルに言う「ろくでなし」、リーゼルがルディに言う「ろくでなし」という言葉の響きの実に甘いこと!

物語中で、散々、死神から警告されるのだけれど、物語は当然のように悲劇的な終末を迎える。そこにほんの少しの希望はあるのだけれど…。

 わたしは言葉を憎み、言葉を愛してきた。

多くの人にリーゼルの、マックスの、そして著者ズーサックの言葉が届けばいいな、と思う。

著者ズーサックは1975年生まれ。彼はドイツとオーストリアから移民してきた両親の間に、オーストラリアで生まれたのだという。「訳者あとがき」によると、ズーサックには、子供時代に両親から何度も聞かされた第二次世界大戦の話の中で、どうしても忘れられない二つのことがあったそう。一つはミュンヘンが空襲にあったときの異常なまでの空の赤さ、もう一つは弱った体で行進させられているユダヤ人にパンを差し入れたドイツ人の少年が、兵士にひどく鞭打たれたこと。どちらも、この物語の重要な場面となった。誠実に想像力を働かせた結果がこの本なのだと思う。

沢山のエピソードがあるのだけれど、私が好きなのは町長夫人とのエピソード。最後の和解の部分がいい。

目次
プロローグ 瓦礫の山
第1部 墓掘り人の手引書
第2部 肩をすくめる
第3部 わが闘争
第4部 見下ろす人
第5部 口笛吹き
第6部 夢を運ぶ人
第7部 完璧なドゥーデン辞書・シソーラス
第8部 言葉を揺する人
第9部 人類最後のよそ者
第10部 本泥棒
エピローグ 最後の色
 謝辞
 訳者あとがき


☆ナチス関係の本の過去記事☆
いずれもフィクションだけれど、力強い。
密やかな結晶 」/消えていってしまう・・・
マグヌス 」/記憶、断片、人生
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青山 南, 阿部 真理子

眺めたり触ったり


本の楽しみは、全ページを読まなければ、また、書かれたこと全てを理解しなくては、得られないもの?

いやいや、そんなことはないでしょう。

本棚に並ぶ背表紙を、うっとり「眺め」てみたり、装丁を楽しんだり、時に本棚から抜き出して、ぱらぱらと頁を繰りながら、その手「触り」を楽しんだり…。

「眺めたり、触ったり」の他にも、表紙には「The Feel of Reading」とありまして、だから、これは本を読むその周辺の感情を書いたもの。

勿論、この本自体も、「眺めたり、触ったり」して楽しむことが出来る作りで、阿部真理子さんの絵は眺めて実に楽しく、私は図書館で借りちゃったので、表紙の手触りを知ることは出来ないのだけれど(ビニールパックみたいなのになってる)、内扉(ああ、この部分ってなんていうんだ??表紙めくって、一枚あった次にある、タイトルが書いてあるところ)の紙質も壁紙みたいで楽しい♪

阿部真理子さんのこの表紙、どこかで見たよなぁ、と思ったら、宮部みゆきさんの「心とろかすような 」でした。心とろかすような」は、探偵事務所を営む家族と共に暮らす、元・警察犬マサが語るものなのだけれど、阿部さんの絵はこのお話の魅力への貢献度がとっても高いと思うのです。

この本にも、実に様々な絵が載せられていて、楽しいですよー。「はらぺこあおむし」のように、本を突き抜けたBOOK WORMなどは、本読みのキャラクターにしたいぐらい。あと、阿部さんは犬がお好きなのかな。マサも良かったんだけど、ここに出てくる楽しげに本を読んでいる黒縁めがね犬も実にいいんだ。

テキストは、翻訳家の青山南さんによります。「Ciel Bleu 」の四季さんに教えていただいた翻訳家さんなのですが、本業の方ではまだお世話になったことがありませぬ~。ところで、「南」さんというお名前から、勝手に女性を想像していた私は、のっけからその間違いに気づくのでした。うーむ、作家さん、翻訳家さんの性別は、名前からは分からんなー。

青山さんの文も飄々といい感じ。読むのが遅い、とか嘆いておられるにも関わらず、歯切れのいい文章で、ざばざばと本や、他の作家による書評、作家の言葉がふんだんに語られます。遅読だと仰るから、油断してたのに…、となぜか唇を噛み締めそうにもなるのですが、でも、実は全部読んでらっしゃるわけではなかったりして。笑

読書という、きわめて個人的でひそやかで秘密めいた作業は、あらゆる記憶違い、思い違い、読み違い、を許容する(p194より引用)。

んであるから、私がそうとっても別にいいのかなー。

うん、でも、まぁ、読書というのは、とっても自由なものなのだよ。本を読みながら、精神はそうやって飛翔するんだよね。

*臙脂色の文字の部分は、本文中より引用を行っております。何か問題がございましたら、ご連絡ください。
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ラッタウット・ラープチャルーンサップ, 古屋 美登里

観光(ハヤカワepiブック・プラネット)


舌噛みそうな名前ですが、著者ラッタウット・ラープチャルーンサップは、1979年、シカゴに生まれ、タイのバンコックで育ったのだそう。タイの有名教育大学およびコーネル大学で学位を取得後、ミシガン大学大学院のクリエイティブ・ライティング・コースで創作を学び、英語での執筆活動を始めたのだとか(以上、表紙扉より)。


目次
ガイジン
 Farangs
カフェ・ラブリーで
 At the Cafe Lovely
徴兵の日
 Draft Day
観光
 Sightseeing
プリシラ
 Priscilla the Cambodian
こんなところで死にたくない
 Don't Let Me Die in This Place
闘鶏師
 Cockfighter
 訳者あとがき


タイの人々の暮らしを切り取った短編集。
ガイジン」、「カフェ・ラブリーで」、辺りはそんなに凄いと思わずに読んでいたのだけれど(でも、巧いですよー)、「こんなところで死にたくない」、「闘鶏師」など後半は、本当に底辺を描くというか、その辛さに凄味がありました。胃が重くなるような、その辛さに付き合った価値はある物語なのだけれど。
たぶん、「ガイコク
人」が観光として訪れるタイ。観光客が一時的に通り過ぎていく、美しくまた明るいその空の下には、きっとこんな暮らしがある。それらの対比がまた、これらの物語をより鮮やかに見せている。

「ガイジン」
 アメリカ軍人との落とし児である「ぼく」。可愛いタイ娘たちには目もくれず、「ぼく」が夢中になるのはいつだってガイジン娘。でも、ある種の娘たちにとって、「ぼく」は単なる旅先の後腐れれのないオトコなわけで。パメラ、アンジェラ、ステファニー、ジョイ、そして今度はリジー…。
 人種で暦を分ける導入部が秀逸。豚のクリント・イーストウッドも可愛い。


「カフェ・ラブリーで」

 貧しい兄弟の幼き日の話。幼すぎて、人生の悲しみを理解できなかった「ぼく」。父が亡くなって亡霊のようになった母を理解できず、また兄のやり場のない怒りも理解できず、ただ「ぼく」が求めていたのは兄の愛だけだった。

「徴兵の日」

 年に一度の徴兵抽選会の日を迎えた、「ぼく」と幼馴染のウィチュ。無二の親友であるけれども、二人の間には格差があった。裕福な「ぼく」の家庭に、貧しく、父もなく、兄のカームロンもまた徴兵に取られ、損なわれたウィチュの家庭。裕福な家庭の者たちは、軍の上層部に賄賂を贈って外れ籤を引く。そのことをウィチュや、ウィチュの母に、打ち明けられなかった「ぼく」…。
 気持のよい四月に、境内の中で行われる徴兵抽選会。仮設テントが作られ、ロープの向こうには少年たちの親類が集う。厚化粧の女装愛好家(クラトウーイ)、キティのブラウスの赤が鮮やか。

「観光」

 母と過ごす最後の夏。働きづめだった母は、息子と共にする「観光旅行」を提案する。南行きの列車に乗り、更に船で目的地へと向かう。旅の途中の美しい風景。しかし、母にはこの景色が見られなくなるかもしれないのだ。

「プリシラ」

 貧しいものは、更に貧しいものを標的にすることがある。「ぼく」とドンは、カンボジアからやって来た大した少女、プリシラと仲良くなるのだが…。

「こんなところで死にたくない」

 「私」の息子は、タイ人の女性と結婚をした。「私」は孫たちの名前すら、正確に発音することは出来ない。体を悪くして、息子たち家族が暮らすバンコックへと引き取られた「私」。この暑く、蚊ばかりがいる街、何もかもが「私」の気に入らないことばかりなのだが…。

「闘鶏師」

 町の有力者の息子であり、誰もが関わるのを嫌がる、リトル・ジュイ。有力な闘鶏師であった「わたし」のパパは、彼を怒らせてしまう。蛇のようなリトル・ジュイの復讐が始まり、パパの過去の栄光は地に落ち、彼は全てを失っていく。それを見守るしかない「わたし」とママ…。
「わたし」にもリトル・ジュイとの因縁があり、パパにはリトル・ジュイの父親、ビッグ・ジュイとの因縁があった。けれども、世の中は常にいい人、正義が勝つわけではない。戦ったところで、負けてしまうことだってある。パパは完膚なきまでに叩きのめされるのだが…。

表紙もまた印象深い本なのだけれど、中身もまたこの表紙のように、色鮮やかで美しい物語。そして、また「千年の祈り」のように、どれが一番好きか、と即答できない、どれもまた味わい深く印象深い短編なのです。これもまた、短編なのだけれど、青い空の下、世界がどんどん広がって行く感じがする。明るいばかりではなく、むしろ哀しい出来事が語られているのだけれど、その世界にはどこか懐かしい匂いが漂っている。

訳者あとがきによると、著者は現在、奨学金を得てイギリスのイースト・アングリア大学のアメリカ研究科で学びながら、長編を執筆中とのこと。こちらも是非読みたい!

■その他、世界各地の短編集■
・インド→ジュンパ ラヒリ, Jhumpa Lahiri, 小川 高義「停電の夜に
・中国→イーユン・リー, 篠森 ゆりこ「千年の祈り (Shinchosha CREST BOOKS)

最近、こういった系統のものを、いっぱい読んだ気がしていたのだけれど、改めて考えたら、この2作ぐらいなのね…。インド、中国、タイときて、さて、次はどこの国のものを読むことが出来るかなぁ。
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ダイ シージエ, 新島 進

フロイトの弟子と旅する長椅子 (ハヤカワepi ブック・プラネット)


中国の古典文学を専攻する学生だった、二十歳の若き莫(モー)は、そこでフロイトの『夢診断』と出会ってしまった。現人神と出会った至福の中で、莫は学生寮の多段ベッドの中、声をあげて読み、読んで読んで読みまくり、学友たちにフロイトモーとのあだ名を進呈された。

その時から、フロイトの忠実なる弟子となった莫は、難関を突破してパリへの留学を果たし(とはいえ、それはフランス政府国費留学生として、タクラ=マカン砂漠の砂に埋もれたシルクロード文明のアルファベットを用いた言語について、博士論文を書き上げるためであった)、知り合いのつてを辿って、ラカン派の精神分析医ニヴァ氏のもとへと通い続けた。こうして、中国人初の精神分析医が誕生したが、当初、フランス語を解さなかった莫の告白は、中国語の四川省の方言でなされ、フランス人のニヴァ氏は当然一言も意味を解さず、時にそれは喜劇に転じた…。

故国に戻った莫は、学生時代より憧れの君、胡火山(火偏に山:フーツアン)を救い出すために、賄賂となる一万ドルを手に狄判事(ディー判事)の元を訪れる。胡火山は、中国警察による拷問の場面を隠し撮りして、ヨーロッパのプレスに売ったために、成都の女子刑務所に入れられ、裁判を待つ身となっていたのだ。

ところが、かつてのエリート射撃手であり、犯罪者を裁く閻魔王との異名を持つ狄判事は、既に金は十分に持っており、胡火山の自由との引き換えに欲しいのは、まだ赤いメロンを割っていない「処女」なのだという。莫は、胡火山を救う「処女」を求め、夢分析を武器に、中国南西部の広大な土地を旅することになる。時に、「夢分析」の旗を立てた父親の古い自転車を駆り、時に電車の中で大事なデルセーの鞄を盗まれながら…。皮肉なことに、胡火山に絶対にして唯一の愛を捧げる莫自身は、友人たちの気遣いも虚しく、四十歳にして未だ女性を知らないのであるけれど。

バルザックと小さな中国のお針子 」と異なり、決して読み易い物語とは言えません。夢分析の話(というか、これは既に「分析」ではなく、「占い」だったりもするのだけれど)、現在の話、過去の話、莫の心理状況が、特に断りもなく入り乱れ、時系列だってかなりランダム。どこか茫洋とした趣のある主人公である莫と同様、このお話自体も、好きな時に好きなように飛躍する雑然としたところ、のびのびした奔放なところを併せ持つ。

慣れるまではちょっと面食らったのだけれど、これはそうやって、あっちこっちに寄り道する莫に付き合って、ゆっくり読み進めるのがいいみたい。これが、まさに「旅する」長椅子(長椅子は精神分析の重要アイテム)たる所以なのかもしれません。

そして、「バルザックと小さな中国のお針子」と同様、作者ダイ・シージエは、モテない、でも真剣な、そして傍から見るとちょっと面白い男性を描くのが非常に巧い。独特のユーモアは健在だし、特に変わった言葉や単語、変わった表現を使っているわけではないのに、世界が何だか瑞々しいのも、「バルザック~」と同様です(「防腐処理人」なんかは、かなり変わった単語だけれど、それって瑞々しさとは本来は無縁なはずだよねえ)。危機にあってなお、何となく脱力しているようなところもね。

騙されても、失望しても、莫は決して希望を捨てず、諦めることをしない。酷い目にも色々遭うんだけど、人間の伸びやかな強さ、希望を感じる。また、脇を固める人々も、伸びやかというか、実に楽天的というか。勿論、中国を舞台にしたこの物語。莫たちは、みな、文化大革命の洗礼を受けている。莫の幼馴染である「市長の娘婿」は、刑務所に入れられ、無期刑に課せられているけれど、昼間は刑務所の二軒の食堂の支配人として差配をする。夜は無期刑囚の房に戻って寝るけれど、昼間の彼は自由だ。莫のご近所さんである「防腐処理人」は、新婚初夜に夫に飛び降り自殺された過去を持つ。

けれど、彼らはあくまで、強くしたたかで明るい。電車の中で、大事な鞄を盗まれた莫も、「ここが、わが偉大なる祖国だってことを忘れたのか」と、それまでの憤慨を忘れて吹き出すのだけれど、これこそが、中国の大きさ、中国の強さなのかもしれない(あちこちで描かれる、ありとあらゆるものが落ちている床の存在には、恐れ慄いてしまうけれど)。

さて、「訳者あとがき」
によると、ダイ・シージエは2007年1月に、フランス語による小説作品『月が昇らなかった夜に』(Par une nuit où la lune ne s'est pas levée)を発表し、これには主人公の学友として「バルザック~」の馬(マー)が再登場するのだとか。フロイト~」とは全く異なり、コミカルな要素が一切排されているそうですが、日本でも早く出版されないかしらん。

目次
第一部 騎士道精神がたどる道
 一 フロイトの弟子
 二 防腐処理人にふりかかった婚前の悲劇
 三 麻雀の対局
 四 飛行機の模型
 五 うしろ盾
 六 長椅子の遠征
 七 女中市場のサッチャー夫人
第二部 明けない夜
 一 夜のライトバン
 二 午前二時
 三 <光>団地
 四 餃子が煮えた
第三部 小路(シャオルー)
 一 その歯を飲みこむな
 二 龍頭
 三 飛行靴下
 四 老観測人
 五 海参
 六 鶯
訳者あとがき
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フィリップ バラン, Philippe Balland, 高橋 利絵子
趣味の問題

これは、かなり変わった小説です。
で、読んでいる時は、それ程いいとも、すごいとも思わずに読んでたのだけれど、後になってからじわじわと心を揺さぶられるような物語でした。

主人公はフリーターのニコラ。自分のやりたい事は、文学教授の父のような代り映えのしない毎日を送ることではない。大学中退後、いきなり社会に飛び出した彼は、様々な職業、様々な国を転々とする。そんな彼の秘かな憧れは”貴族”。実際の彼は収入の関係もあり、勿論”貴族”的な生活を送ることなどは叶わないけれど、決してお金のためだけにあくせくと働くことはしない。しかし、そんな彼もそれなりに年を重ねる。これまでは「経験」を重視して仕事を選んでいたけれど、これからはもう少し遣り甲斐のある仕事をしたいもの…。

そんなニコラの前に現れたのが、フランス最大の企業の一つ、ドゥラモン・インターナショナルの社長、フレデリック・ドゥラモン。ドゥラモン・インターナショナルを継ぐべく帝王学を授けられたフレデリックは、学校に行ったこともなければ、所謂「子供」としての体験もない。子供時代から大人の世界しか知らず、無条件の愛情も知らない、そんな彼はどこか歪。

リスクをとることを嫌い、常に周到な準備を好むフレデリックは、かねてからの憧れ、中国の皇帝のような<試食係>を置くことを思いつく。白羽の矢が立ったのが、年格好の近いニコラ! 食べ物の<試食>から始まったニコラの「仕事」は、そのうち、本や映画鑑賞、女性を美味しく調えることや、危険なスポーツなど、フレデリックの私生活の様々な分野に及んでいく。そして、共依存を深めた彼らに待っていた運命とは…。

このフレデリックが物凄く横暴で傲慢な人間なんだけど、たぶん、彼が持っている淋しさや孤独が、ニコラがフレデリックを振り切れない理由なんだろう。自分が嫌いなチーズや魚介類をニコラも嫌いになるように、と画策するところなども、ほとんど犯罪。そもそも自分の好みを完璧に理解する人間を創り上げる、ということ自体も、勿論おかしいのだけれど。それって、もう一人同じ人間を創ることだしねえ。それに、外界との接触を嫌うあまり、そうやってフィルターを通したものしか受け入れない、というのも、そんなんじゃ感性が枯渇しそうだし。

フレデリックはそんな風にとっても歪な人間なんだけれど、ニコラはフレデリックよりは社交性(というか、他人に嫌われない)がある人間であるにも関わらず、やはりどこかが欠落してしまっている人間。好奇心や感受性は豊かなようなのだけれど、主体性がなく、社会に適応しきれていない。ニコラはフレデリックの完璧な<試食係>でいようとするあまり、フレデリックの気持ちにぴったりぴっちりと寄り添っていき、二人の関係はどんどんおかしなものになっていく。社会には適応できないのだけれど、フレデリックにはほぼ完璧に適応してしまうのだ。

フレデリックの横暴な要求は、まるでニコラの愛を確かめるかのよう。理不尽な要求に、ニコラがどこまでついてこられるのか?

ニコラにはこのおかしな関係から抜け出すチャンスも、そういう気持ちもあったのに、とうとう最後までフレデリックとともに突き進んでしまう。ニコラが<試食>した、フレデリックの元・妻、イザベラと娘・ローラとの関係だって悪くはなく、彼女らもニコラに好感を持っていたというのに…。

ニコラとフレデリック。この二人でなければ、きっとこんな倒錯的な関係にはならなかっただろうという点で、これは何だか二人の男性の純愛物語にも読めてしまう。純愛ってそもそも狂気的だし。

映画もあるようで、映画ではニコラは若く、フレデリックはもっと年を経た男性という設定だそう。そちらもちょっと見てみたいなぁ。いかにも、「フランス映画」っぽい感じなのかしらん。

若干、惜しいのは、「感性豊かである」とされるニコラの、感性豊かたる所以があまり伝わってこなかったこと。フランス人ニコラが、日本のマイナーなロック・グループ、<オタオ>のファンというあたりも、その感性の豊かさの記号なのかもしれないけれど、自分が日本人だからか、あまりピンとは来なかった。そこら辺が、もっと説得力あるものであったとしたならば、この物語がもっと胸に迫るものになったのだと思うのです。

キング
趣味の問題
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ダイ・シージエ, Dai Sijie, 新島 進

バルザックと小さな中国のお針子


舞台は悪名高き毛沢東による、文化大革命後の中国。知識人は悪、農民は善とされ、毛主席とその一派以外の本は姿を消した。そして、知識人を父に持つ「都会青年」である羅(ルオ)と僕は、高い高い鳳凰山にある村へと送られる。

農村に送られたのは、彼らが最初でも最後でもない。僕たちより不幸な若者もたくさんいたけれど、僕らが不運だったのは、二人の親が「人民の敵」であったこと。高校への入学は拒否され、中学を三年終えただけで農村へと送られた、十七歳と十八歳の僕ら二人の帰還の確率は千分の三。羅と僕は村の中心にある高床式の家を与えられ、人力が唯一の運搬手段である狭く険しい山道をのぼっての山仕事に励む。

そして、出会った恋と西欧の物語…。


そう長い物語ではないのだけれど、これはいいですよー。
柘榴のスープ 』のように、大きな運命を体験した作者がユーモアを交えてそれを描く感じ。

映画監督でもある作者のダイ・シージエは、実際に1971-1974年の間、下放政策により四川省の山岳地帯で再教育を受けたのだという。実体験はこんなにユーモア溢れるものであったかは分らないけれど、辛いことをただひたすらに辛いと描くことをせずとも、伝わることはきちんと伝わるし、逆にこの描き方だからこそ伝わってくることもある。

左目に血の粒が三つある五十がらみの村長、村長が思慕の念を抱く羅の小さな目覚まし時計、彼が来ることはこの上なく名誉でありお祭りでもある仕立て屋、羅と恋に落ちる仕立て屋の美しい娘「小裁縫(シャオツァイフォン)」、そして同じく下放されていた友人メガネが隠し持っていた、西欧の小説との出会い。彼らの瑞々しい感性が出会う様々な人物に出来事。娯楽のない村の中で、語り手として認知された羅と僕は、町の映画館に行くことを許され、その一字一句を村人たちの前で披露する上映会を行ったりもする。

「物語」のない世界で触れた「物語」を、羅と僕は貪欲に吸収していく。
そしてそれは羅と恋に落ちた小裁縫もまた…。


もう一つ思い出したのは、「ストリート・キッズ」シリーズの二作目、仏陀の鏡への道」のこと(「ストリート・キッズ」関連の記事はこちらこちら )。

こちらは一九七七年。一人の姑娘に心を奪われた、有能な生化学者を連れ戻す任務を与えられたニール。しかし、ミイラ取りがミイラとなり、ニールまでもがその姑娘に心を奪われてしまう。そしてここでもまた、文革と物語が重要なキーとなる。ちなみに、こちらの山は「蛾眉山」。これな実在の山だけれど、鳳凰山はどうなのだろう?

「物語」のない世界は嫌だけれど、極限の渇きの中で出会う物語の甘露のような甘さ、ちょっとその体験が羨ましくもあるよなぁ。

ドン ウィンズロウ, Don Winslow, 東江 一紀
仏陀の鏡への道 (創元推理文庫)
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コーマック マッカーシー, Cormac McCarthy, 黒原 敏行

平原の町

コーマック・マッカーシー「すべての美しい馬 」に出てきた、ジョン・グレイディのその後、です。

しかしながら、「すべての美しい馬」およびこの「平原の町」は、コーマック・マッカーシーの<国境三部作(ボーダー・トリロジー)>の二作であり、この二つの作品の間には、「越境」という物語が入るらしい。

ジョン・グレイディのその後、ということで、突っ走って、「平原の町」に行っちゃったんだけど、私はこの後、この事を深く悔やむことになるのです・・・・。<三部作>は伊達じゃないっす。きちんと順番通りに読みましょう~、ってことよね・・・。

老成しているようにも見えたけれど、何だかんだいってまだ十六歳と、主人公であったジョン・グレイディが年若かった「すべての美しい馬」に比べ、こちらの物語には、常に退廃の匂いが付きまとう。

十九歳となったジョン・グレイディが身を寄せるのは、テキサス州南西部の町、エルペソ近くの牧場。牧場主であるマックは愛する妻を亡くし、娘を亡くした義父であるミスター・ジョンソンもまた、喪失感に苛まれている。働いているカウボーイたちも、もっと新しい場所、環境の整った場所に行くことも出来るけれど、それはせずに、この古い世界に暮らしている。ソコーロが用意してくれた食事をとり、弁当を持ち、仕事へと出かけていく。しかしながら、この古い世界の終焉は近い。最終章では、この牧場も軍に収用されてしまう・・・。

ジョン・グレイディと互いに「相棒」と呼び合うのは、二十八歳のビリー・パーハム。何だか、やたらと出番が多く、何かを背負っているらしき人物だな、と思っていたら、このビリーが「越境」の主人公だったわけです。先に、こちらを押さえておくべきでした。

変わらないカウボーイたちの暮らし、馬の調教、牛追い、野犬狩り・・・・。

そんな生活の合間に、ジョン・グレイディは国境を越えた、メキシコの町ファレスで、十六歳の娼婦、マグダレーナに出会ってしまう。彼は周囲の忠告に耳も貸さず、彼女と結婚しようとするのであるが・・・。そして、訪れる悲劇。

ジョン・グレイディのその後を読みたくて、手に取った本書だけれど、作者の描きたかったことはもっと大きなことだったのだなぁ。

ラストではなんと時代は2002年! マックの牧場を出たビリーは、馬を進め、現代社会からはみ出したまま、老人となる。

詩と哲学が、土埃の中に見え隠れするようなこの作品。ラストのビリーと男との、男が見た夢の中の男の会話も、深いなー。とても、理解したとは言えないんだけど・・・。

ここに引いてしまうと勿体無い気がするので、今回は我慢しますが、最後に書かれた言葉がまたかっこいいんだ。

また、「訳者あとがき」より引用すると、作者コーマック・マッカーシーは、自作(「Blood Meridian」)に関連して、次のように語っているそう。

 流血のない世界などない。人類は進歩しうる、みんなが仲良く暮らすことは可能だ、というのは本当に危険な考え方だと思う。こういう考え方に毒されている人たちは自分の魂と自由を簡単に捨ててしまう人たちだ。そういう願望は人を奴隷にし、空虚な存在にしてしまうだろう。

確かに、確かに、コーマック・マッカーシーの作品に出てくる人物達は、みな、魂と自由を捨てない者たち。しかし、これがまた時代にそぐわない。時代はどんどん、彼らの世界を圧迫していく。コーマック・マッカーシー自身も、かなり気骨のある人物のようで、ある大学から二千ドルの報酬で講演を頼まれても、”私がいいたいことは誰も買わない小説のなかに全部書いてある”と断り、極貧の生活を続けたのだそう(「訳者あとがき」より:ベストセラーとなった『国境三部作』以前の五作は、どれも五千部以上売れたことがなかったとのことなので、これは多分その売れない時代のこと?)。

さて、「すべての美しい馬」は、みずから志願してジョン・グレイディ役を獲得したマット・デイモンを主演として映画化され、2000年6月にはアメリカで公開されたそう。マット・デイモン、なかなか似合うのではないでしょうか。うわー、見たい! 日本では公開されないのでしょうか・・・(もしくは、既に公開されてて、私が気付かなかっただけ??)。

と、思ったら、発見! DVDだったら見られるのね~。

ソニー・ピクチャーズエンタテインメント
すべての美しい馬
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ジェフリー・ユージェニデス, 佐々田 雅子, Jeffrey Eugenides
ミドルセックス  

四十一歳になった、「わたし」が語る数奇な運命。それはまた、三代遡った遺伝子の旅の話でもある。ギリシャの山村からトルコ軍の迫害を逃れ、いとこを頼ってアメリカに渡った祖父母の話、そこから始まる一族の話、半陰陽者であった「わたし」の思春期の話、男性として生きる事にした現在の「わたし」の話・・・。膨大な時がこの物語の中には流れている。

目の大きな美しい少女として育った、カリオペ・ヘレン・ステファニディスは、長じて「カリオペ」ではなく、単なる「カル」となった。完璧な美少女だったカリオペは、思春期になっても生理がなく、身体は薄っぺらでぎくしゃくと大きくなるばかり。美しい少女ではなくなったカリオペは、女子校の同級生である「あいまいな対象」に対する熱い思いに苦しむ。それは全て、5-α-リダクターゼ欠乏症のためであった。半陰陽を見逃され、少女として育ったものの、カリオペは生物学的には男性だったのだ。

「カル」となって、米国国務省に職を得て、外務職員となった「わたし」は、ジムで鍛えた筋肉の鎧をつけ、誂えのスーツに身を包み、外的には順調な人生を歩んでいたものの、その内面には問題を抱えていた。好きになった女性と、最後の一線を踏み越える事が出来ないのだ・・・・。

目次
第一部
 銀のスプーン
 縁結び
 不埒なプロポーズ
 絹の道
第二部
 ヘンリー・フォードの英語の坩堝
 ミノタウロス
 氷上の結婚生活
 詐術(トリックノロジー)
 クラリネット・セレナーデ
 世界のニュース
 すべては卵から(エックス・オヴオ・オムニア)
第三部
 ホームムーヴィー
 オーパ!
 ミドルセックス
 地中海食
 ウルヴァレット
 高揚への目覚め
 あいまいな対象
 恋するテイレシアス
 肉体
 壁の銃
第四部
 お告げをする陰門
 ウェブスターでの自分捜し
 若者よ、西へ
 サンフランシスコの性別違和
 ヘルマフロディトス
 エア-ライド
 終点
解説/柴田元幸


「姉さんは、ただ姉さんってだけじゃない。親のまたいとこの子ってことにもなるだろう。だったら結婚したってかまわないよ。全てはレフティーのこの言葉から始まった。カリオペの祖母、デスデモーナとレフティーが育った、ギリシャのビシニオスという山村では、誰もが何らかの関係で繋がっていて、親のまたいとこの子との結婚もそう稀なことではなかったのだ。更に、遺伝子の悪戯は続く。いとこのスーメリナから生れたテッシーと、デスデモーナとレフティーの息子、ミルトンが結婚し、カリオペが生れる。近親婚の結果、カリオペは半陰陽者の遺伝子を持って生れる事になる。

と、こういった理屈は抜きにしても、まるでノンフィクションのように作りこまれた物語には圧倒される。本当に合った事のようだけれど、これはあくまでノンフィクション。

自動車産業の町、デトロイトを舞台にしたこの物語は、勿論、そういった産業の話とも無縁ではなく、幅広く見ればアメリカという国の物語でもある。移民としてアメリカにやって来たレフティーが、最初に職を得たのはフォードの工場であった。1970年代に思春期を過ごしたカリオペの兄、チャプターイレヴンは裕福な家を嫌い、ヒッピーのような生活を送る。

ヘビトンボの季節に自殺した五人姉妹 」でも思ったんだけど、ジェフェリー・ユージェニデスという人は、少女を媒介にしてアメリカという国を描いているように思う。その時期、その季節のアメリカ・・・。思春期の少女たちが媒介とされるのは、その感受性の強さ故なのかなぁ。で、また、その少女の揺らぎが実に繊細に描かれるのだよね。

彼らが手に入れたグロスポイントにあるミドルセックスの家。ブルジョアの生活様式を取り払って、内部の壁もほとんどなく、新しい世界に住もうという新しいタイプの人間のために設計された家。その家に、彼らは古い生活様式、古い家具を持ち込んで、その設計意図を台無しにはしたけれど・・・。
「カル」は新しい世界で生きて行く。この長い物語を語り終えたカルの未来はどうなるのだろう。語ることは癒される事、新たに生れ出る事に等しいのだから、未来はきっと明るいはず。

蚕が効果的に出てくるところも魅力的。小さな体から己の何倍もの糸を吐き出す蚕の幼虫。まるで、長い長い物語を紡ぐカルのようでもある。

この物語のことは、
有閑マダム さんのところで知りました。
有閑マダムさん、良い物語の紹介をありがとうございました♪

 ◆有閑マダムさんの記事はこちら → 
本* Middlesex
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エリザベス ムーン, Elizabeth Moon, 小尾 芙佐
くらやみの速さはどれくらい

自閉症のルウ・アレンデイル、三十五歳。
医学の進歩により、彼の暮らす近未来においては、自閉症は幼時の内に治療する事が出来るものになっていた。だから、三十五歳のルウたちは、治療法が間に合わなかった最後の世代の自閉症者。

それでも、ルウの生活は順調だった。抽象化や再反復など、彼の高度なパターン認識を活かした製薬会社での仕事は、車を買い、アパートを借りられるほどの十分な給料になり、趣味のフェンシング・クラスには彼が好意を寄せる女性、マージョリだっている。

ところが、ルウたちが所属するセクションAを目の敵にする新任の管理部長、ミスタ・クレンショウがやって来てから、これまで波風一つ立たなかったルウの生活に変化が訪れる。ミスタ・クレンショウは、ルウたち自閉症者たちが必要とし、与えられていたミニ・ジムや、個室など、彼らに対する「コスト」、「贅沢」を槍玉に挙げる。どうして、彼らは正常(ノーマル)な者たちと同じ境遇では働けないのだ? 更に、ミスタ・クレンショウは、解雇をちらつかせながら、会社が買い取った成人の自閉症の新しい治療法を、ルウたちに受けさせようとする。

無知はくらやみ。知らないことはやみ。知ることは光。
光は速さを持って突き進む。
けれども、光がまだ到達しないところには、いつでもくらやみ、やみがある。
くらやみは光よりも先にあるもの、光の先に存在するもの。
だとしたら、くらやみの速さはどれくらい?

ルウの生活に干渉してくるのは、ミスタ・クレンショウだけではない。ルウに好意を寄せるが故に、彼を公然と攻撃するエミー、自立したルウの境遇を羨み、嫉妬する、ろくでなしのドン。しかしながら、ルウの窮状を見て、彼を助けようとする人々も現れる。フェンシング・クラスの主催者であるトムとルシアはルウへの関わりを深め、ルウの近所に住む警官のダニーは、ルウが必要とする助けのみを与え、またクレンショウにやられるばかりだった、セクションAの管理者、ミスタ・オルドリンもルウたちに対する支援を最後まで諦めなかった。

この物語は主にルウによって語られるけれど、時に語り手はミスタ・オルドリンや、トムへと変わる。正常者と自閉症者の違い。それは優劣の違いではなく、認識や得手不得手の違い。ルウは人の表情を読み取ったり、早い言葉に対応することは不得手だけれど、フェンシングの対戦では、対戦者のパターンを読み込んで素早く対応し、勝利すらおさめることが出来る。しかしながら、ルウがこれまで培ってきた全ての生きるための技、感覚、記憶、感情は、自閉症者としてのもの。それはルウがノーマルになったら、消えてしまうものなのか? 彼らは最初からやり直さなくてはならないのか?

様々な刺激がルウを変える。また、ミスタ・オルドリンの活躍により、ルウたちが新しい治療法を強制される事はなくなったけれど、セクションAの中からは、自発的にこの新しい治療を望むものも現れる・・・。

無知はくらやみ、知ることは光。
相反するものは、それが進む方向以外のあらゆるものを共有する。
くらやみが最初にそこにあり、光はそこに追いつく。

そして、ルウの進む道は・・・。

トムとルウの会話は興味深い。
「きみが彼女からはなれていき(ユー・グロウ・アウェイ・フロム・ハー)、マージョリを傷つけることになろうとも」
「ぼくは彼女からはなれていくとは(アイ・グロウ・アウェイ・フロム・ハー)思いません」
たがいに親しい二つのものがともに成長(グロウ)すれば、それらはもっと近づくことになり、離れていきはしないと、ルウは考えるが・・・。

ルウの変化を望む者、変化は必要ないと思う者。それぞれの思いはあるけれど、既に光は満たされてしまった。そこに現れた光、光自体が触れるものを圧迫する。

 未来を想像してみようとすると―この日の残り、明日、来週、残りの人生―それは私の目の瞳孔をのぞきこむようなもので、ただ黒いものが私を見返しているだけだ。光が速度を上げて入ってくるときすでにそこにある暗闇、光がやってくるまでは未知のもの、知ることができないもの。
 知らないことは知ることの前にやってくる。未来は現在の前にやってくる。この瞬間から、過去と未来は、ちがう方向で同じものになる、しかし私はあちらに行くのであって、こちらに行くのではない。
 私があそこにたどりつくとき、光の速さと暗闇の速さは同じものになるだろう。

そして、ルウは選ぶ。先に進むことを、成功に賭けることを、新しい友人を見つけることを。元・ルウが悩んでいた暗闇は、新しいルウにとって、挑戦する事の出来る新しい領域。新しいルウは、見知らぬ暗闇があり続けることを喜ばしく思う

一見、ハッピーエンドに思えるエピローグだけれど、これは実に複雑な結末。ルウが選んだ事で、得たものと失ったもの。私はルウをルウたらしめていた、自閉症者としての彼の美点を悼み、惜しむ。世界は複雑で変化していくもの。変化から最も遠いところにいるように見えたルウの運命に、嘆息する。
ぐいぐい読ませる名作で、ルウの目に映る世界の鮮やかさにも、目を奪われた。

(オリヴァー・サックスやテンプル・グランディンへの感謝の言葉が、謝辞に記されていました。
→ 関連過去本:オリヴァー サックス, Oliver Sacks, 吉田 利子
      「火星の人類学者―脳神経科医と7人の奇妙な患者 」)

*臙脂色の文字の部分は、本文中より引用を行っております。何か問題がございましたら、ご連絡下さい。
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