2007-09-04 22:51:00
「フロイトの弟子と旅する長椅子」/フロイトの弟子にして、ドン・キホーテ、莫(モー)がゆく
テーマ:早川書房ダイ シージエ, 新島 進
「フロイトの弟子と旅する長椅子 (ハヤカワepi ブック・プラネット) 」
中国の古典文学を専攻する学生だった、二十歳の若き莫(モー)は、そこでフロイトの『夢診断』と出会ってしまった。現人神と出会った至福の中で、莫は学生寮の多段ベッドの中、声をあげて読み、読んで読んで読みまくり、学友たちにフロイトモーとのあだ名を進呈された。
その時から、フロイトの忠実なる弟子となった莫は、難関を突破してパリへの留学を果たし(とはいえ、それはフランス政府国費留学生として、タクラ=マカン砂漠の砂に埋もれたシルクロード文明のアルファベットを用いた言語について、博士論文を書き上げるためであった)、知り合いのつてを辿って、ラカン派の精神分析医ニヴァ氏のもとへと通い続けた。こうして、中国人初の精神分析医が誕生したが、当初、フランス語を解さなかった莫の告白は、中国語の四川省の方言でなされ、フランス人のニヴァ氏は当然一言も意味を解さず、時にそれは喜劇に転じた…。
故国に戻った莫は、学生時代より憧れの君、胡火山(火偏に山:フーツアン)を救い出すために、賄賂となる一万ドルを手に狄判事(ディー判事)の元を訪れる。胡火山は、中国警察による拷問の場面を隠し撮りして、ヨーロッパのプレスに売ったために、成都の女子刑務所に入れられ、裁判を待つ身となっていたのだ。
ところが、かつてのエリート射撃手であり、犯罪者を裁く閻魔王との異名を持つ狄判事は、既に金は十分に持っており、胡火山の自由との引き換えに欲しいのは、まだ赤いメロンを割っていない「処女」なのだという。莫は、胡火山を救う「処女」を求め、夢分析を武器に、中国南西部の広大な土地を旅することになる。時に、「夢分析」の旗を立てた父親の古い自転車を駆り、時に電車の中で大事なデルセーの鞄を盗まれながら…。皮肉なことに、胡火山に絶対にして唯一の愛を捧げる莫自身は、友人たちの気遣いも虚しく、四十歳にして未だ女性を知らないのであるけれど。
「バルザックと小さな中国のお針子 」と異なり、決して読み易い物語とは言えません。夢分析の話(というか、これは既に「分析」ではなく、「占い」だったりもするのだけれど)、現在の話、過去の話、莫の心理状況が、特に断りもなく入り乱れ、時系列だってかなりランダム。どこか茫洋とした趣のある主人公である莫と同様、このお話自体も、好きな時に好きなように飛躍する雑然としたところ、のびのびした奔放なところを併せ持つ。
慣れるまではちょっと面食らったのだけれど、これはそうやって、あっちこっちに寄り道する莫に付き合って、ゆっくり読み進めるのがいいみたい。これが、まさに「旅する」長椅子(長椅子は精神分析の重要アイテム)たる所以なのかもしれません。
そして、「バルザックと小さな中国のお針子」と同様、作者ダイ・シージエは、モテない、でも真剣な、そして傍から見るとちょっと面白い男性を描くのが非常に巧い。独特のユーモアは健在だし、特に変わった言葉や単語、変わった表現を使っているわけではないのに、世界が何だか瑞々しいのも、「バルザック~」と同様です(「防腐処理人」なんかは、かなり変わった単語だけれど、それって瑞々しさとは本来は無縁なはずだよねえ)。危機にあってなお、何となく脱力しているようなところもね。
騙されても、失望しても、莫は決して希望を捨てず、諦めることをしない。酷い目にも色々遭うんだけど、人間の伸びやかな強さ、希望を感じる。また、脇を固める人々も、伸びやかというか、実に楽天的というか。勿論、中国を舞台にしたこの物語。莫たちは、みな、文化大革命の洗礼を受けている。莫の幼馴染である「市長の娘婿」は、刑務所に入れられ、無期刑に課せられているけれど、昼間は刑務所の二軒の食堂の支配人として差配をする。夜は無期刑囚の房に戻って寝るけれど、昼間の彼は自由だ。莫のご近所さんである「防腐処理人」は、新婚初夜に夫に飛び降り自殺された過去を持つ。
けれど、彼らはあくまで、強くしたたかで明るい。電車の中で、大事な鞄を盗まれた莫も、「ここが、わが偉大なる祖国だってことを忘れたのか」と、それまでの憤慨を忘れて吹き出すのだけれど、これこそが、中国の大きさ、中国の強さなのかもしれない(あちこちで描かれる、ありとあらゆるものが落ちている床の存在には、恐れ慄いてしまうけれど)。
さて、「訳者あとがき」によると、ダイ・シージエは2007年1月に、フランス語による小説作品『月が昇らなかった夜に』(Par une nuit où la lune ne s'est pas levée)を発表し、これには主人公の学友として「バルザック~」の馬(マー)が再登場するのだとか。「フロイト~」とは全く異なり、コミカルな要素が一切排されているそうですが、日本でも早く出版されないかしらん。
目次
第一部 騎士道精神がたどる道
一 フロイトの弟子
二 防腐処理人にふりかかった婚前の悲劇
三 麻雀の対局
四 飛行機の模型
五 うしろ盾
六 長椅子の遠征
七 女中市場のサッチャー夫人
第二部 明けない夜
一 夜のライトバン
二 午前二時
三 <光>団地
四 餃子が煮えた
第三部 小路(シャオルー)
一 その歯を飲みこむな
二 龍頭
三 飛行靴下
四 老観測人
五 海参
六 鶯
訳者あとがき











