「ライオンと魔女」/本の世界と映画の世界 | 旧・日常&読んだ本log

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流れ去る記憶を食い止める。

2005年3月10日~2008年3月23日まで。

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C.S.ルイス, 瀬田 貞二, C.S. Lewis
ライオンと魔女 ナルニア国ものがたり(1)

先週末に、映画「ライオンと魔女」を見た。映像→原作(本)の順で見ると、そんなに不満を覚えないのだけれど、原作(本)→映像の順では大概不満を覚えるワタクシ。心が狭い?と思いつつも、今回もそんな感じでありました。

ナルニアの魅力は静か動か?というと、私の中では、断然「静」であり、多少説教くさくもあるルイスのキリスト教的世界観が好きで、子供時代にどっぷりはまったものだった。勿論、ナルニアに長い冬をもたらした白い魔女を、子供たちがアスランと共に打ち倒すという、大きなテーマが背後には流れているのだけれど、そこには子供たちとナルニアの住人達との濃密な触れ合いがあり、アスランの子供達への温かい言葉、優しく時に厳しい眼差しがある。物語としての大きな流れの他にある、これらの濃やかな情景が好きだった。

映像は本とは違って、大きな流れの他に、更にプラスして、小さな濃やかな情景を描くのが不得意のように思う。特に今回の映画では、冒頭を見ても、物語としてのダイナミズムを「戦い」に求めたように思うし、筋は分かり易いけれど、すっかり活劇になっていて、ナルニア国ものがたり」というよりは、ナルニア国戦記」という方が相応しいような印象を受けた。とはいえ、本を読んだ人には、それぞれの濃やかで印象に残る小さなシーンがあり、それを全部入れていたら、とても収拾が付かない、というのも良く分かるのだけれど。
◆好きだった原作の小さなシーンたち

・初めてタムナスさんのお家に行った時に、ルーシィが聞かせてもらった森のくらしのふしぎの数々(真夜中のダンス、水の精ニンフ、木の仙女ドリアード・・・)

・ビーバーさんちの気持ちのよい住処での美味しい食事
(獲りたての魚のフライ、濃い黄色いバターをたっぷりつけたじゃがいも、濃いミルクorビール、素敵にねとねとする大きなマーマレード菓子)

・ビーバーさんと子供たちの白い魔女からの逃避行
(春を見つけながら、楽しい夢のような思いで歩く!その疲れは、一日表で良く働いたものが感じる心地よいもの)

・スーザンとルーシィをお供に、悲しげに疲れた様子で魔女との取り決めに向かうアスラン

・戻ってきたアスランと、二人の女の子とのおかしな鬼ごっこ
(ビロードのような足の裏!)

・アスランの背中に乗って、春たけなわのナルニアをわたる長い旅

・泥だらけ、汗だらけの巨人ごろごろ八郎太が、ルーシィからハンカチを借りる所

・エドマンドに薬を注ぐルーシィに、他のけが人もいることを諭すアスラン

あげて見ると本当に細かい所ばかり。タムナスさんのシーン、アスランの背中に乗るシーンは、映画でもちゃんとあったのだけれど、もうちょっと長く見たかったなぁ。映画ではほとんどのシーンが緊迫していたように思うけれど、原作では結構楽しくのほほんと過ごしている部分も多くある。その辺がほとんど削られてしまったのが、残念だった。ルーシィの大きくてくるくるのお目目が、ナルニアの楽しさ、この世界への感動、感激を表現していたのかもしれないけど。私の子供の頃の夢の一つに、「アスランに乗る」ということがありまして、この映像はそれにちょっと近かった。

映像と本との手法の違いというものはやはりあって、本のような情報量の多いものから映像をおこす時、ある程度の取捨選択が必要で、切り口もまた違ってくる。そういう意味では、ゲド戦記」などもどういう解釈で、映像におこされるのか、心配でもある。ガチガチの原作至上主義者のようで、ちょっと自分が嫌になったりもするのだけど・・・。