旧・日常&読んだ本log

流れ去る記憶を食い止める。

2005年3月10日~2008年3月23日まで。

以降の更新は、http://tsuna11.blog70.fc2.com/で。


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皆川 博子

猫舌男爵

人を食ったようなタイトルに惹かれて借りてきた、皆川さんの本です。味も舌触りも異なる五本の短編。どれもいいなぁ、流石、皆川さんだよなぁ、と一人頷いてしまいました。

目次
水葬楽
猫舌男爵
オムレツ少年の儀式
睡蓮
太陽馬


好きだったのは、「猫舌男爵」と「睡蓮」、「太陽馬」。
水葬楽」は侏儒が奏でる音が印象的であり、「オムレツ少年の儀式」はやはりここで小道具はオムレツでなくてはならないよなぁ、と感じました。ふわふわと調えられたオムレツって、なんか幸せではありませんか?

■「猫舌男爵
これは、ヤマダ・フタロのニンポをこよなく愛する、ヤン・ジェロムスキなる人物による翻訳本。
ヤマダ・フタロの本を漁る内、彼の手に入ったのはハリガヴォ・ナミコ(針ヶ尾奈美子)が書いたという短編集、「猫舌男爵」。日本語を学ぶ彼は、この本を訳すことに決めたのだが…。翻訳をするには、語学力に激しく難があるジェロムスキは、周りの人間を巻き込みながら、翻訳とは言い難い本を著すことになる。そして、更にこの本が与えた悲喜こもごもとは…。
老日本語教師、コナルスキ氏の怒りから受容の様子が面白かった。うん、まぁ、その生活もありだよね。
山田風太郎は、昔から面白い面白いと聞いていて、十年ぐらい前に一度チャレンジしたんだけど、ダメだったんだよねえ。今だったら、何とかなるかしらん。

■「睡蓮
ある狂女の物語。美貌と美術の才能に溢れるエーディト・ディートリヒは、なぜ「狂女」となってしまったのか。時系列を遡る書簡や日記がスリリング。

■「太陽馬
敗走中のドイツ兵が語る現況と自らの歴史、彼らが閉じ籠った図書館にあったという、言葉ではなく指弦を操るという一族の物語が交錯する。
最初は読みづらくて、取っつき難かったんだけど、読み終わった今、これが一番心に残る。

敗走中のドイツ兵である「俺」。今ではドイツ兵と共に行動している「俺」だけれど、俺の出自は、トルコ語で<豪胆なる者、叛く者、自由なる者>という意味を持つ、コサックの民。皇帝に忠誠を誓う、気高く誇り高き民。
広大な土地を有する富裕なコサックの子に生まれた「俺」は、戸外では常に馬上にあり、そして疾風を、陽光を楽の音に変え、言葉なき歌を歌った。幼き幸せな日々。しかし、運命はコサックを襲う。コサックが忠誠を誓った帝政は倒され、彼らコサックはボリシェヴィキに容赦無く襲われる。それは姉と結婚することで、ドイツ人からコサックとなった、義兄もまた…。
忠誠を尽くすべき皇帝を失い、また義兄を最悪な形で失った「俺」が新たに尽くすのは、ドイツ軍将校である「少尉殿」。崩れかけた図書館に潜伏中の彼らの手に、降伏勧告書がもたらされた。大尉、少尉、従軍牧師、ユーリイ、俺。俺たちはどう動く?

取っつき難かった主因でもある、この中で語られる指弦を持つ一族の話がまた魅力的でねえ。言葉では表しきれない響きや感動が、きっと世の中にはある。それは「俺」が馬上で歌った言葉なき歌と同じ…。

さて、コサックといえば、あの「コサックダンス」しか知らず、また騎馬民族といえばモンゴル!だった私にとって、「俺」が語る彼らコサックの歴史は全く未知の世界。ロシア革命含めて、もそっとその辺の知識が欲しいよ~。
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シルヴィー ジェルマン, Sylvie Germain, 辻 由美
マグヌス

語られるのは、一人の男性の幼年期から中年までの人生の断片、0から29までの番号をふられたフラグマン(断片)。それを補足するのは挿入される注記(ノチュール)、それを強めるのは同じく挿入される続唱(セカンヌ)や、反響(レゾナンス)

フランツ=ゲオルク、もしくはアダム、マグヌス。三つの名前を持つことになる、彼の人生は波乱に満ちたもの。

五歳までの記憶がない幼い彼に、「気高さと悲しみに満ちた家族の叙述詩」を繰り返し語り、言葉によって彼を生みなおした母親の名は、テーア・ドゥンケンタル。彼の名ともなった、フランツとゲオルクという名は、偉大なるドイツ帝国のために、身を犠牲にした母親の双子の弟の名。父親、クレーメンス・ドゥンケンタルは医師であり、熱狂的なナチス党員でもあった。

しかし、ドイツ帝国の破滅は近い。家族は家を捨てて逃亡し、父親は更に一人メキシコへと逃げ、その地で死ぬ。盲目的に父親を崇拝していた母親は、亡命していた兄のロタールに少年を託し、やはり死ぬ。

少年、フランツ=ゲオルク・ドゥンケンタルは、ロンドンのロタール伯父の家に引き取られ、アダム・シュマルカーと名を変える。五歳までの記憶を無くした少年は、それ以降全ての物事を記憶しようと、凄まじい集中力を発揮した。語学の才能にも優れた少年は英語にも順応し、更に父親の死の地であるメキシコの言葉、スペイン語の習得も始める。しかし、記憶は彼を蝕み、苛む。彼の両親の罪は消えることがない。

そして、更に彼の人生は幾たびかの転換点を通り、彼はマグヌスと名乗るようになる。それは、幼いころから彼と共に過ごしてきた茶色いぬいぐるみのクマの名前。

彼の人生は喪失と再生の繰り返し。愛する女性との二度の永遠の別れ、一度は見切ったロタール伯父への帰還…。記憶を喪い、偽りの記憶を塗り重ねられ、自分がどこから来たのかすら分らない少年。更に獲得した記憶もまた、愛する人の死により、無となってしまう。それでも人間は生きていき、無から何かを生み出すことが出来る。ラストの再生の様子(そして、それはクマのマグヌスとの別れでもある)、旅立ちは美しい。

かなり変わった形式の「小説」だけれども、実に引き込まれる物語でした。こんなアプローチがあるのだとは! あの激しさとはまた別なのだけれど、アゴタ・クリストフの「悪童日記」以来の衝撃でありました。

これ、「高校生ゴンクール賞」の受賞作なのだとか。すごいね、フランスの高校生。

■その他気になった、「高校生ゴンクール賞」受賞作。


■印象的な引用がなされていた本。

フアン ルルフォ, Juan Rulfo, 杉山 晃, 増田 義郎
ペドロ・パラモ (岩波文庫)

amazonには、ラテン文学ブームの先駆けとなった古典的名作、とありました。
コーマック・マッカーシーの国境三部作のうちの、「すべての美しい馬 」と「平原の町 」の二作は何とか読んだけど、これはまた歯ごたえありそうですよ。がりがり。
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ヘンリー・F.マクブライト, 林 望
日本再見録―ヘンリー君の現代日本ウォッチング!
PHP研究所

イギリス人青年、ヘンリー・マクブライト氏が、文部省(当時)の教師招聘プロジェクトに応じて合格し、東京近郊の高校の英語教師として日本に渡った。そのヘンリー氏の目に映る「日本」とは如何に?

さて、タイトルにもなっている「再見録」。なぜに「再見」かというと、ヘンリー氏の曾祖父である、ウィリアム・マクブライト氏は、1920年代の半ばに、極東発見(原題”The Far East I Found”,1926.Duckwell,London)』なる書物を著した人物なのだという。曾祖父は、この時代のイギリス人が、ややもすれば持ちがちだった、ある種の傲慢さとは無縁の人物であり、怜悧で公平な視線でもってして、極東日本を描き表わしたのだという。家族の歴史として、この曾祖父の話を聞いて育ったヘンリー氏は、日本という国に興味を持ち、長じて教師招聘プロジェクトに公募したというわけ。

訳者は、おなじみ林望(リンボウ)先生。リンボウ先生が訳すのに、まさにぴったりな題材ではございませぬか?

目次

第一章 学校にて
     教育現場で唖然、呆然
第二章 町を歩けば
     氾濫する「自販機」の狂気
第三章 便所と神様
     美徳?悪徳?「無菌」の国
第四章 不思議な旅
     修学旅行、初日の夜から大酒乱酔
第五章 日本食(Japanese food)tohananika
     ラーメン、カレーが日本料理代表?
第六章 郵便受けの中の人生
     驚嘆!「宅配裏ビデオ」のカラクリ
第七章 結婚式の奇々怪々
     無宗教国の超宗教的儀式
訳者あとがき
INDEX


高校教師となったヘンリー氏は、目次にあるような様々な出来事に遭遇する。様々な出来事といっても、高校教師として招かれただけあって、出会う出来事も、まさに庶民的というか、地に足がついてる感じ。年の近い同僚の”ヤマシタ”の助けを借りて、日本および日本文化への理解を深めるヘンリー氏の目線は、鋭くも温かい。

同じ日本人から見ても、結婚式は結構不思議なことが多いけれど、修学旅行はあって当然と思っていたので、そこまで疑ってみることがなかったな~。けれど、「イギリス人ヘンリー氏」の目を通してみる、修学旅行の不思議なこと!「宅配裏ビデオ」のカラクリは、あれが詐欺の一種だとは全く知らなかったのだけれど、とにかくポルノ的なものが氾濫している日本の現状は、外からはかなり不思議に見えるものなのだね。同僚のヤマシタ氏が、これまた飄々とした人物で(第七章の結婚式は、ヤマシタ自身のものなので、その章においては、かなり草臥れてもいるのだけれど)、二人のやり取りもなかなか面白いのです。

さて、残念なことを一つ。「訳者あとがき」を見て驚いたのだけれど、著者のヘンリー・マクブライト氏は持病の喘息発作から心不全を発症して、訳稿の完成の二か月前、二十九歳にして急逝されてしまったのだという。なので、この本は本国イギリスではなく、日本でのみ刊行されるという変則的な形になったのだとか。残念です…。
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村山 早紀, 朝倉 めぐみ

ささやかな魔法の物語―カフェ・かもめ亭 (ポプラの木かげ)


カフェ・かもめ亭は、ノスタルジックな素敵な喫茶店。海辺の街、風早にあるこの店は、現・マスターである広海の曽祖父の代、七十年近くも昔から現在まで、さまざまなお客を迎え、送り出してきた…。

表通りをはずれた、一歩裏道に入った通り、石畳の道に向かって店の扉は開く。店内には緑と絵が溢れ、船に関する道具や小さな自動ピアノ、そしてこの店の象徴でもあるかもめのモビールがゆらゆらと揺れる。

Ciel Bleu 」の四季さんのところでお見かけして、いいなーと思っていた本です。あちこちでご活躍のイラストレーター朝倉めぐみさんの表紙もいいですよね。物語の雰囲気にぴったり!

 ■四季さんの記事はこちら→「ささやかな魔法の物語 カフェ・かもめ亭」村山早紀
もくじ
砂漠の花
万華鏡の庭
銀の鏡
水仙姫
グリーン先生の魔法
ねこしまさんのお話
かもめ亭奇談
あとがき


砂漠の花」~「ねこしまさんのお話」までは、お客さんや出入りの業者さん(というほど、物々しいものではないけれど)が語る不思議な話。「かもめ亭奇談」のみが、いつも聞き役に回っていた、マスターの広海自身が体験する不思議な話。

砂漠の花」の青い花の美しさ、「万華鏡の庭」で寺嶋青年の掌に残った万華鏡の青い破片など、「青」の美しさ、綺麗さが印象的でした。

不思議な話のようでいて、種を明かすと不思議ではない。けれど、やっぱり実はそこには不思議な力が働いていたかもしれない、「ねこしまさんのお話」もふんわりと優しいお話でした。お話自体は、学校に居づらくなってしまったかおるのお話なので、辛いところもあるのだけれどね。

四季さんも引用されていらっしゃいますが、あとがきにあった「明日、読みかけの本のつづきを読むために、わたしは生きていたのです」という言葉が印象的でした。明るい少女にも、やはり思春期特有の悩みはあったのかもしれないけれど、マイナー側によっていた自覚のあった、私にも覚えのある感情だなー、なんてちょっぴり苦く思うのでした。でも、大人になってこんな物語を紡ぐことが出来たり、その物語を楽しむことが出来るのだから、大人になるっていいよなぁ、としみじみ。

同じく四季さんのところで、気になった村山さんの本。
←コンビニに御稲荷さん。この取り合わせの妙よ!
村山 早紀, 名倉 靖博
コンビニたそがれ堂―街かどの魔法の時間 (ポプラの木かげ)
ポプラ社には、「ポプラの木かげ」というシリーズがあるらしく、ポプラ社のHP を見たら、このシリーズの特徴は、木かげのようなやさしさあふれる本の世界★であり、
涼しい木かげにはいって、ゆっくりとくつろぐように、本の世界であそぼう。そこでは、魔法使いが活躍し、動物たちが楽しそうにしゃべっているかもしれない・・・。
ファンタジーを中心にした創作文学。小学校中学年から楽しめるストーリーのシリーズです
」だそう。

 ←ポプラの木かげの中では、amazonの紹介文を読むと激しく平仮名が多そうだけれど、こちらのシリーズも気になるなぁ。「古道具屋さんのおしじさんが拾った洋服ダンスから黒ねこがとびだして、「ブンダバー」と名のったのです!」(ポプラ社紹介文より。…「おしじさん」って、「おじいさん」の間違い?それか、ほんとに「おしじ」さんなのか?)。古道具に黒猫という組み合わせがまた魅力的だわ。

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三浦 しをん
三四郎はそれから門を出た

目次
 三四郎はいかにして門を出ることを決意したか まえがきにかえて
一章 犬のお散歩新刊情報
二章 三四郎はそれから門を出た
三章 本のできごころ
四章 役に立たない風見鶏
五章 本を読むだけが人生じゃない
六章 愛の唄
 三四郎は門を出てどこへ行ったのか あとがきにかえて
特別附録「火宅拝見」イラストレーション:浅生ハルミン(後ろ見返し)


三浦しをんさんは、「愛がないなら、黙して語らずにおけ」を書評の信条としていきたいのだという。そんなしをんさんの愛のこもった書評と、本の周辺の話、家族の話、またはananに連載された、時流に微妙に乗っているような乗っていないようなお話(何せ、「役に立たない」風見鶏だし)を集めたエッセイ集。

しをんさんのことを「ブタさん」と呼ぶ弟や、パワフルさが透けて見える母との会話もいいけれど、やっぱり「愛」ある書評が楽しかったな~。自分が読んだものだと、そうそう!と思ったりして。

二章の「三四郎はそれから門を出た」は、朝日新聞に連載されていたもの。通常の書評は、一冊の本について書くものだと思うのだけれど、ここでは一見関連のなさそうな二冊について、面白い着眼点で共通項を見つけて紹介してくれるのが面白かった。たとえば、最相葉月さんの「東京大学応援部物語」とマルキ・ド・サドの「ジェローム神父」を、”報われぬ献身の美しさ”で括ったりとか。

笑っちゃったのが、京極夏彦さんの「陰摩羅鬼の瑕」における表現。しをんさんは、氏の「京極堂シリーズ」とは、総じて高級幕の内弁当のようなものだと考えるのだそう。それは、選び抜かれた素材で丹念に調理されたおかずと、白米(京極堂の蘊蓄)とのハーモニーを重視した、安心して食せる満腹感のあるもの…。ところが、一作目の「姑獲鳥の夏」には、「幕の内弁当だと思って食べ進んだら、弁当の底にカレーが敷きつめられていたよ!」という驚きがあった、とのこと。姑獲鳥の夏」は、ねえ。凄いとは思うし、好きだけど、あれ、基本的に確かに一発芸だし…。

さて、本に塗れたエッセイの中で、私が気になったのは以下の本。

 

硬軟合わせて、いろいろな本が取り上げられていたけれど、ナチス親衛隊であった母について、娘が書いたノンフィクションと、漫画家・山本直樹さん(そいえば、最近スピリッツで見ないなー)の三十年間の夢の記録、この二冊が興味を惹いた。しかし、黙って行かせて」はともかく、ラジオの仏」は図書館にはないだろうなぁ。いつか読めるといいな。
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服部 まゆみ

ラ・ロンド―恋愛小説


服部まゆみさん初読みです。サブタイトルに「恋愛小説」とある本書。三篇の物語は緩やかに繋がりながら、まるで踊るようにそれぞれの恋をうつす。

目次
父のお気に入り
猫の宇宙
夜の歩み


父のお気に入り
新劇の十一歳年上の女優、妙子と付き合うことになった、大学院生の孝。二人を結びつけたのは、ジョン・フォードの戯曲「あわれ彼女は娼婦」。孝は美しく大人の女性である妙子を愛するが、彼には中学時代の忘れ得ぬ思い出があった。それは赤ら顔の醜く太っていた同級生の、意外なほどに艶めかしい桃の果肉のような白いうなじ。孝は偶然、その同級生、河合と出会うのだが…。
読み終わってタイトルの意味を思うと、うわーとなる。

猫の宇宙
同級生の姉、瑠璃に憧れていた「わたし」。四姉妹であった彼女の妹、鴇子と結婚したけれど、瑠璃とは似ても似つかぬ妻や、縁戚との騒々しい日々の生活は頭痛ばかりをもたらす。義父の元アトリエ、現・「わたし」の書斎に籠ってはマーラーを聴く毎日。そんな代り映えのしない日々であったが、進学に伴い、札幌から瑠璃の娘、藍を預かることになった。「わたし」は藍との会話に心休まるものを感じるのだが…。
さて、「わたし」の専門は哲学で、職業は私大の講師。哲学の道を選んだのには、幼き日の弟の疑問が絡んでいたのだが、自称・芸術家の弟、克己は、三十五を過ぎてもろくな仕事に就きもせず、私の苛立ちを煽る。それどころか、弟は幼き日の疑問にも、勝手な解釈を見つけたようで…。

夜の歩み
前二篇を繋ぐ物語。妙子と孝の二人が、行きつけのジャズバー『滝』の前で出会ったのは、「猫の宇宙」に出て来た藍と克己。二組のカップルの行方はいかに?

みんながみんな、腹に一物を抱えたまま、恋を踊る。そんなわけで、ここで出てくる恋愛は、お天道様の下でピクニック!というようなものではなく、暗い眼差しを湛えた隠微な感じ。この中でいえば、真っすぐで猪突猛進型の藍や、ひたすらに己の正しさを信じる「わたし」などは、まだまだ甘ちゃんと言えるのかしらん。この怖さをもっと突き詰めていくと、皆川博子さんの小説のような雰囲気になるような気がします。

 ■思い出した皆川博子さんの短編集→「鳥少年

恋愛ものでいえば、こちらはもうそれはそれは直球のド・ストレートですが、自分の中では、姫野カオルコさんの「ツ、イ、ラ、ク 」がやっぱりまだまだ一番。「ツ、イ、ラ、ク」のサイドストーリーである、「 」の文庫本が出ているのを発見して、解説を立ち読みしたのだけれど、この解説が愛に溢れていてとっても良かった! 一編集者、四十代の男性が書いたという解説だったのだけれど、男性から見ても、やっぱりこの一連の作品はとても力のあるものだったんだなぁ、と。「ツ、イ、ラ、ク」が直木賞を外したことについても触れられています。ほんと、「ツ、イ、ラ、ク」はもっと評価されるべき作品だと思うんだけどな~。良かった!、と思った単行本が文庫化されると、その解説を読むのが楽しみだったりします。桃」の解説はほんと良かったです、あれは愛ですね。

さて、また「ラ・ロンド」の話に戻りますと、それなりに力のある作品だとは思うのだけれど、私はこういう系統だったら、皆川博子さんを読みたい。著者、服部まゆみさんの作品の中で、「ラ・ロンド」はどんな位置づけなのかなぁ。
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森福 都

琥珀枕


安心の森福さんの中国伝奇モノ。

此度の物語では、すっぽんの化身が出てきます。すっぽんとはいえ、非常に長い長い時を生きている徐庚先生。その叡智は限りなく、中国は東海郡藍陵県の県令の子息、趙昭之を教え導くのです。

目次
太清丹
飢渇
唾壺
妬忌津
琥珀枕
双犀犬
明鏡井

解説 末國義己


少年、趙昭之は県令の一人息子。県令たるもの、善く人々を治めなければならない。であるからして、市井の出来事にも通じているべき。そこを導くのが、すっぽんの化身たる徐庚先生。先生は全てを教えてくれるわけではないのだけれど、趙昭之と徐庚先生は今日もまた、県城を見下ろす香山の照月亭に向かうのです。さて、そこから見える景色はいかに? 七つの物語。

太清丹」では、不死をもたらすという仙薬から、美女の恐ろしさをかいま見、「飢渇」では、飢えた幽鬼に取りつかれた人間を見、またそれすらをも利用する人間の強かさを見る。「唾壺」では、矢鱈と耳の良い塩売りの秘密を知り、「妬忌津」では美女を川に引きずり込む妖怪、妬忌津の正体を知る。
琥珀枕」では、若かりし頃の徐庚先生が出会った事件が語られ、「双犀犬」では趙昭之の両親の出会いが語られる。「明鏡井」で語られるのは、趙家の官舎の裏庭にある井戸で起こる怪異。

太清丹」に出てくる、体に巣食う赤蛭や、蛭珠(ひるだま)はおぞましいし、「妬忌津」では艶やかな人面瘡が探偵役となる。しかも怪異は人間の手によるものとオチがついたかと思いきや一転…。出てくる怪異も、気持ち悪いものから、あでやかで艶やかなものからさまざま。あっつい夏にこんな怪異がぴったりくる。

連作スタイルで、最初は怪異は外部のものであり、それとの関連が薄かった少年、趙昭之も、ラストの「明鏡井」では、立派に怪異に立ち向かうことになる。緩やかな成長物語、と読むことも出来るのかも。徐庚先生は今日もどこかで、少年を導いているのやもしれません。そもそも徐庚先生が、趙昭之を教え導くことになったのも、先生の評判を聞いた昭之の父が屋敷の庭に掘らせた大きな池に玉砂利を敷き、礼を尽くして招いたからなんだよね。不思議が当たり前の顔をして隣にあるこの世界。なかなかいい感じなのでありました。森福さんの中国ものはやっぱりハズレなし!

☆関連過去記事☆
・「吃逆 」/探偵はしゃっくり癖の進士様!
・「狐弟子 」/人間は、結構ズルい

 ← 単行本の表紙もいいな。
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フィリップ バラン, Philippe Balland, 高橋 利絵子
趣味の問題

これは、かなり変わった小説です。
で、読んでいる時は、それ程いいとも、すごいとも思わずに読んでたのだけれど、後になってからじわじわと心を揺さぶられるような物語でした。

主人公はフリーターのニコラ。自分のやりたい事は、文学教授の父のような代り映えのしない毎日を送ることではない。大学中退後、いきなり社会に飛び出した彼は、様々な職業、様々な国を転々とする。そんな彼の秘かな憧れは”貴族”。実際の彼は収入の関係もあり、勿論”貴族”的な生活を送ることなどは叶わないけれど、決してお金のためだけにあくせくと働くことはしない。しかし、そんな彼もそれなりに年を重ねる。これまでは「経験」を重視して仕事を選んでいたけれど、これからはもう少し遣り甲斐のある仕事をしたいもの…。

そんなニコラの前に現れたのが、フランス最大の企業の一つ、ドゥラモン・インターナショナルの社長、フレデリック・ドゥラモン。ドゥラモン・インターナショナルを継ぐべく帝王学を授けられたフレデリックは、学校に行ったこともなければ、所謂「子供」としての体験もない。子供時代から大人の世界しか知らず、無条件の愛情も知らない、そんな彼はどこか歪。

リスクをとることを嫌い、常に周到な準備を好むフレデリックは、かねてからの憧れ、中国の皇帝のような<試食係>を置くことを思いつく。白羽の矢が立ったのが、年格好の近いニコラ! 食べ物の<試食>から始まったニコラの「仕事」は、そのうち、本や映画鑑賞、女性を美味しく調えることや、危険なスポーツなど、フレデリックの私生活の様々な分野に及んでいく。そして、共依存を深めた彼らに待っていた運命とは…。

このフレデリックが物凄く横暴で傲慢な人間なんだけど、たぶん、彼が持っている淋しさや孤独が、ニコラがフレデリックを振り切れない理由なんだろう。自分が嫌いなチーズや魚介類をニコラも嫌いになるように、と画策するところなども、ほとんど犯罪。そもそも自分の好みを完璧に理解する人間を創り上げる、ということ自体も、勿論おかしいのだけれど。それって、もう一人同じ人間を創ることだしねえ。それに、外界との接触を嫌うあまり、そうやってフィルターを通したものしか受け入れない、というのも、そんなんじゃ感性が枯渇しそうだし。

フレデリックはそんな風にとっても歪な人間なんだけれど、ニコラはフレデリックよりは社交性(というか、他人に嫌われない)がある人間であるにも関わらず、やはりどこかが欠落してしまっている人間。好奇心や感受性は豊かなようなのだけれど、主体性がなく、社会に適応しきれていない。ニコラはフレデリックの完璧な<試食係>でいようとするあまり、フレデリックの気持ちにぴったりぴっちりと寄り添っていき、二人の関係はどんどんおかしなものになっていく。社会には適応できないのだけれど、フレデリックにはほぼ完璧に適応してしまうのだ。

フレデリックの横暴な要求は、まるでニコラの愛を確かめるかのよう。理不尽な要求に、ニコラがどこまでついてこられるのか?

ニコラにはこのおかしな関係から抜け出すチャンスも、そういう気持ちもあったのに、とうとう最後までフレデリックとともに突き進んでしまう。ニコラが<試食>した、フレデリックの元・妻、イザベラと娘・ローラとの関係だって悪くはなく、彼女らもニコラに好感を持っていたというのに…。

ニコラとフレデリック。この二人でなければ、きっとこんな倒錯的な関係にはならなかっただろうという点で、これは何だか二人の男性の純愛物語にも読めてしまう。純愛ってそもそも狂気的だし。

映画もあるようで、映画ではニコラは若く、フレデリックはもっと年を経た男性という設定だそう。そちらもちょっと見てみたいなぁ。いかにも、「フランス映画」っぽい感じなのかしらん。

若干、惜しいのは、「感性豊かである」とされるニコラの、感性豊かたる所以があまり伝わってこなかったこと。フランス人ニコラが、日本のマイナーなロック・グループ、<オタオ>のファンというあたりも、その感性の豊かさの記号なのかもしれないけれど、自分が日本人だからか、あまりピンとは来なかった。そこら辺が、もっと説得力あるものであったとしたならば、この物語がもっと胸に迫るものになったのだと思うのです。

キング
趣味の問題
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岡田 恵美子

ペルシアの四つの物語

目次
王書―サームの子ザールの誕生   フェルドウスィー
ホスローとシーリーン          二ザーミー
ライラとマジュヌーン           ニザーミー
七王妃物語                ニザーミー
解説


構成上第三部に分かれるという「王書」から取り上げられるのは、英雄伝説時代を描いたという第二部から「サームの子ザールの誕生」。サームの子、ザールは、頬は陽とまがう類稀なる美しさなのに、不吉にも生まれた時から髪は真っ白。不幸を恐れたサームにより、捨てられたザールは、霊鳥スィーモルグに育てられる。なんかね、この辺は、色なしの膚を持つ捨て子ファラー(@古川日出男「アラビアの夜の種族 」)を思い出しました。アラビアとペルシアは厳密には違うのだろうけれど、古川さんはこの辺も参考にされたのかな、なんて。

印象深かったのは、「ライラとマジュヌーン」。「マジュヌーン」とは、「狂人」を意味する言葉。ライラを恋するあまり、狂人となってしまった、一人の男。もともと、実は思い合っていた二人は、幸せになれたはずなのに…。恋の純度が高すぎたために、男は狂気の淵を軽々と飛び越えてしまう。それともそれは逆なのかな。本来、恋の障害はなかったはずなのに、恋の純度、密度を高めるためか、男は狂人となってその恋に自ら大きな障害を作ってしまう。

本当はもっと長い物語の、ハイライトのみを紹介するような形の本なので、詳しい方には物足りないかもしれないのだけれど、私のようなペルシア文学入門者にはちょうど良い本でした。美しい「ミニアチュア」もふんだんに載せられているしね。

ミニアチュアの語源は、Minium 鉛丹(四酸化三鉛)であり、初期には中国の影響である鳳凰や雲が画面を埋めていたのだけれど、次第に空間をビッシリと紋様で埋める独自の画法が定着したとのこと。ササン朝ペルシアから唐草文様が伝わったと、むかーしむかし、小学校の教科書で読んだ気がするけど、ここで載せられているミニアチュアも、所謂中東的という感じではなく、何も言われなければ、中国のものと信じてしまうような画風。シルクロードってことなのかしらん。そして、イスラム教ではなく、ゾロアスター教を信仰していたのも、関係しているのかなぁ。

少し前に読んだ「柘榴のスープ 」など、ちょっとイラン(ペルシア)に興味がわいている今日この頃。ペルシアの名だたる物語のハイライトを読んだだけだけれど、やっぱりペルシアは物語る民族なんじゃないかなぁ、と感じました。しかも、口承文学な気配が漂って、何だか物語に酔える感じ。もうちょっと周辺を読んでみようと思います。ペルシアは美しいな。
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ダイ・シージエ, Dai Sijie, 新島 進

バルザックと小さな中国のお針子


舞台は悪名高き毛沢東による、文化大革命後の中国。知識人は悪、農民は善とされ、毛主席とその一派以外の本は姿を消した。そして、知識人を父に持つ「都会青年」である羅(ルオ)と僕は、高い高い鳳凰山にある村へと送られる。

農村に送られたのは、彼らが最初でも最後でもない。僕たちより不幸な若者もたくさんいたけれど、僕らが不運だったのは、二人の親が「人民の敵」であったこと。高校への入学は拒否され、中学を三年終えただけで農村へと送られた、十七歳と十八歳の僕ら二人の帰還の確率は千分の三。羅と僕は村の中心にある高床式の家を与えられ、人力が唯一の運搬手段である狭く険しい山道をのぼっての山仕事に励む。

そして、出会った恋と西欧の物語…。


そう長い物語ではないのだけれど、これはいいですよー。
柘榴のスープ 』のように、大きな運命を体験した作者がユーモアを交えてそれを描く感じ。

映画監督でもある作者のダイ・シージエは、実際に1971-1974年の間、下放政策により四川省の山岳地帯で再教育を受けたのだという。実体験はこんなにユーモア溢れるものであったかは分らないけれど、辛いことをただひたすらに辛いと描くことをせずとも、伝わることはきちんと伝わるし、逆にこの描き方だからこそ伝わってくることもある。

左目に血の粒が三つある五十がらみの村長、村長が思慕の念を抱く羅の小さな目覚まし時計、彼が来ることはこの上なく名誉でありお祭りでもある仕立て屋、羅と恋に落ちる仕立て屋の美しい娘「小裁縫(シャオツァイフォン)」、そして同じく下放されていた友人メガネが隠し持っていた、西欧の小説との出会い。彼らの瑞々しい感性が出会う様々な人物に出来事。娯楽のない村の中で、語り手として認知された羅と僕は、町の映画館に行くことを許され、その一字一句を村人たちの前で披露する上映会を行ったりもする。

「物語」のない世界で触れた「物語」を、羅と僕は貪欲に吸収していく。
そしてそれは羅と恋に落ちた小裁縫もまた…。


もう一つ思い出したのは、「ストリート・キッズ」シリーズの二作目、仏陀の鏡への道」のこと(「ストリート・キッズ」関連の記事はこちらこちら )。

こちらは一九七七年。一人の姑娘に心を奪われた、有能な生化学者を連れ戻す任務を与えられたニール。しかし、ミイラ取りがミイラとなり、ニールまでもがその姑娘に心を奪われてしまう。そしてここでもまた、文革と物語が重要なキーとなる。ちなみに、こちらの山は「蛾眉山」。これな実在の山だけれど、鳳凰山はどうなのだろう?

「物語」のない世界は嫌だけれど、極限の渇きの中で出会う物語の甘露のような甘さ、ちょっとその体験が羨ましくもあるよなぁ。

ドン ウィンズロウ, Don Winslow, 東江 一紀
仏陀の鏡への道 (創元推理文庫)
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