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今週の闇金ウシジマくん/第309話②

2013-05-29 05:52:28 テーマ:闇金ウシジマくん‐洗脳くん

ひとつ前の記事 の続きです。



本ブログではなるべく触れないようにしてきたが、洗脳くんは明らかに北九州の監禁殺人をモデルにしている。しかし、本編の読解にはむしろそうした知識は邪魔になるかもしれないというのもあり、いっさい考えにいれないようにしてきた。といっても、僕のあの事件の知識は、まとめサイトをちらっと見て吐き気を覚え、新堂冬樹『殺しあう家族』なかばで挫折し、という程度なのだけど。今回まゆみが読んでいたフランクルの講演集は、調べてみるとどうやら、北九州の事件でまゆみ、あるいは勅使川原の位置にあった、要するに実行犯としての女が獄中で読んでいたものらしい。欄外の編集部注でわざわざ触れられているところからしても、これは明確な「メッセージ」と見ていいだろう。モデルはあの事件であると。



いま手元にないので記憶にたよるしかないのだが、ウシジマの迷言集巻末にあったインタビューによれば、もともとこのはなしは生活保護くんの前に書かれる予定だったとか(記憶ちがいだったらすみません)。タイミング的にはオセロ中島の洗脳事件とも重なったが、じつはそれは無関係であったとか、そんなことをいっていた気がする。もっとも不気味なのは、洗脳くんがはじまった直後に、例の尼崎での事件が発覚したことである。本記事でもこれらの事件と照らし合わせて考えることは僕の手に余るのでしないが、その符合の不気味さは指摘しておいてもいいだろう。




いったい「洗脳くん」とはなんだったのか。なぜいまこれが書かれたのか。これについては、洗脳の仕組みについて考えることからはじめたほうがいいかもしれない。といっても、毎度くりかえすように、僕は精神分析の専門家ではないので、素人の付け焼刃、なまわかりの知識を大きくふりまわしてみせているだけなので、読むかたにはあらかじめそのことを踏まえてもらいたい。

これも何度も書いていることで、読者のみなさまは耳にタコかもしれないが、僕の考えでは、少なくとも神堂と勅使川原の洗脳の手法は、トラウマの書き換えというところにあった。これは『映画の構造分析』における、内田樹のフロイト解釈を援用したものだが、トラウマというのは「語ることのできない物語」のことをいう。記憶の果て、幼少時に、あるとりかえしのつかない、いわゆる「トラウマ的」事態に遭遇したわたしたちは、その嫌な記憶を回避するため、抑圧し、忘れようとする。わたしたちの言語、つまり思考の作法は、語彙や文法や語り口や思考癖などを通して、その事態を語らないように設計されていく。そうして形成された人格は、中心にぽっかりと穴を抱えることになる。だが、わたしたちは、ちょうど「ドーナツの穴」を「ドーナツ」抜きで語ることができないように、それを語るすべをもたない、というより、語らないように形成されたものが、いまのわたしたちにおける人格なのである。内田樹のことばでいえば、「その人の言語運用そのものが、その「言語化できない穴」を中心に編み上げられている(155頁)」のである。抑圧されているものは、たとえば夢などで、べつのかたちをとってあらわれてくる。ときにはそれはひとに苦しみをもたらす。それを緩和するためには、トラウマを語らねばならない。だが、くりかえすように、原理的にわたしたちはそれを語ることができない。そこで、「分析医」が登場する。分析医は、なにもその経験知から正確に抑圧されているものを言い当てることを仕事にしているわけではない。本人にもわからないものを、他人が見つけることなどできない。仮に見つけられたとして、それが正解であると保証するものはどこにもない。ではなにをするかというと、対話をするのである。対話を通し、物語を「創作」するのである。虚構の物語でも、そこに一種のカタルシスが感じられたとき、症状が緩和することはまちがいない。

上原まゆみにおいては、勅使川原がこの分析医の役目を果たしていた。ただし、勅使川原はそのトラウマの物語を共作したりしない、まゆみに気付かれぬように「捏造」するのである。このちがいは、かなり繊細なもので、なにがちがうかと問われてもよくわからない。いずれにせよまゆみが快復の実感を得ていたとしたら、それは分析医と変わらないのではないかといわれると、僕には反論できない。そうなのかもしれない。ただし、そこで創出された物語には、接続すべき「続き」があったのである。

まゆみはスピリチュアル系婚活女子、美人で仕事もできるが、彼氏は年下の甲斐性なしで、言い知れぬ不安感のようなものを抱いていた。神堂の言葉遣いは、ふつう「・・・いいんです」と撥音になるところが「・・・いいのです」というふうになっていて、ぜんたいとしてあえて芝居がかったものになっていた。唐突に出てくる比喩とか、あるいはじっさいのふるまいとかもそうかもしれない。ともかく、芝居がかった、つまり「まるで台本を読んでいるような」口調は、「準備」を感じさせ、会話の即興性を損なってしまう。いまじぶんの発したことばに反応してこのひとはことばを発していると、そういう実感が失せてしまうのだ。しかし逆に、ここには効果もある。それは「余裕」の演出である。スピリチュアル系女子がすべてそうなはずはないが、少なくとも、勅使川原はそうした「傾向」のある女性を選択し、神堂に教えたはずだ。スピリチュアルなワーディングには、「ハイヤーセルフ」とか「インナーチャイルド」みたいに、たんに現行の「世界」でも流通していることばを言い換えただけのものでありながら、べつの次元の空気を感じさせるものがある。わたしたちのよく知るものではない原理で、あるいは世界は説明可能かもしれない、そういう直感に、スピリチュアルな言葉遣いは応えるものなのである。くりかえすようにすべてのひとがそうであるはずはないが、少なくともまゆみは、そこに傾きつつあった。そして、そのように傾きつつあるからこそ、神堂の「余裕」、すなわち、まゆみの知っている原理では捉えきれないつかみがたさに、「包容力」を感じてしまう可能性もあるのだ。



占い師として、勅使川原がどの程度のものかはよくわからないが、最初のじてんですでにまゆみはかなり勅使川原を信頼していた。そこにどういう操作があったかわからないが、ともかく、神堂が現れて以降の「運命」の演出には決定的なものがあった。冷静に考えるとたんじゅんなことだ。勅使川原と神堂はグルだったわけだから。

しかし、しっかりと築かれた信頼関係のなかで、「あなたはほんとうはこういうひとなのだ」と、スピリチュアル界における「まゆみ」というにんげんの解釈を聞かされることで、まゆみのトラウマは徐々に変更されていき、つまりまゆみのつかう言葉、思考法、最終的には人格も、勅使川原仕様に変わっていったのだった。まゆみは、じぶんの言語や思考法が以前とはすっかりちがってしまっていると、ほんとうの意味で自覚することはできない。なぜなら、自覚しようとするその意識じたいが、すでに改変されているものだからである。こうして、神堂のことばを無抵抗に受け容れる準備が整ったというのが、僕の考えである。まゆみの内には、神堂のことばを客観的に解釈することばがすでに欠落している。不安は覚えても、なにが不安なのか言い当てることができない。神堂は運命のひとであると、改変されたまゆみの直感が告げてくるからだ。



そこからどのように神堂が取り入っていったのか、僕としてももう忘れてしまっているので、興味のあるかたには記事を遡ってもらうとして、「洗脳くん」のおそろしさというのはこの「語ることのできない」というところにあるというのが僕の結論である。それは、肉蝮や三蔵といった、野性的な過去の悪役を思い返してみればいい。本作は、真鍋先生のことばではいままでで最悪のはなしになるということではじまった。僕としては、その肉蝮や三蔵よりひどい悪役というのはどうしても想像できなかったが、そもそも「悪」の質が異なるのである。極端なことをいえば、肉蝮や三蔵というのは「モノ」である。あんな異様な風体の男が、たとえば包丁をもって向こうのほうから走ってきたら、とりあえず僕は回れ右をしてダッシュで逃げる。逆にいえば、そうすれば回避することが可能だということである。しかし神堂はそうではない。洗脳されているものは、それが解除されないかぎり、洗脳されている、あるいは洗脳されていたことを自覚することができない。だとするなら、いまこうして洗脳とは無関係のつもりでいる「わたし」が、なんの洗脳のもとにもいないと、どうして断言できるのか。重要なのはげんに洗脳されているかどうかということではない。わたしたちはいつでも、ある「物語」のなかを生きている。また、ある語られないトラウマ的物語に内部から規定されるかたちで生きている。それはたしかである。だが、わたしたちにはその「物語」がじっさいのところ「何」であるのか、言い当てることがぜったいにできないのである。



たぶん、ここのところについての真鍋先生の結論は、まゆみと桜の描写にあらわれているとおもう。非常に詩的な描写で、解釈はわかれるかとおもうが、僕はあそこに、なにか超越的な物語の直観を感じた。三国志のゲームや映画なんかを見ていて、あまりにもひとがかんたんに死ぬので、そんな、はなしたこともない、わけのわからん軍師の考えた策に乗って、どうしてそんなかんたんに命を燃やせるのだろうと、最初のころは考えたものである。しかし、たぶんそういうふうに感じるのは、わたしたちが、現代人として「死に縁取られたものとしての生」に慣れすぎてしまっているからかもしれない。わたしたちは、眠りにつき、いちど意識を失っても、じぶんが昨日のじぶんとまったく同一人物であるということを疑わない。「死」だけが、わたしたちの自己同一性を断絶する。そういう「生」の観点では、どうしても、「わたしの存在していない世界」というのを想像することが難しい。死んでしまえばこの認識は中断し雲散霧消してしまう。だとするなら、世界はじぶんが生きているあいだしか存在しないも同然なのである。だが、ここでいう、三国志に出てくるものたち、特に歴史に名を残すこともないであろう一兵卒たち、彼らでは、それがありありと想像されているのである。そうでなければ、あんなふうに命を賭すことなどできない。信頼する君主や将軍の野望が達成されているよき世界、そういうものが「わたし」ぬきで存在することを想像できるからこそ、仮に納得できなくても、生命を賭けることができるのである。



「洗脳くん」は日常の襞に潜んでいる。わたしたちの与する物語の全貌を、わたしたちは語りつくすことができないという不安感が、洗脳くんの最悪性を保証するものだろう。だがまゆみは、子供と、くりかえしやってくる季節のなかに、そうした認識にかかわる物語を超えたゆるがぬものを見たのである。僕には子供はいないが、子をもつ親の世界というものも、じっさい近いのではないだろうか。たとえば子の成長をじぶんの手柄、つまりじぶんの物語に回収されるものとみなすのではまた異なるだろうが、じぶんの親や祖父母と、また子供たちを見たときにたしかにおとずれる超越の感覚は、手ごたえのあるものだろう。「わたし」の認識を通さずともたしかに存在している世界、そこに、まゆみは大いなる包容力を見たのではないだろうか。




かつてないほど長い記事になってしまった。なんかまだ書きたいことあったような気もするんだけど忘れた。カウカウについては「数年後」も健在というのが、なかなかおもしろい。要するに、丑嶋を狙う滑川や肉蝮、ハブ、それにマサルなんかは、数年後もそれを達成できていないらしい。




今回はとにかく、真鍋先生お疲れさまでしたとしかいいようがない。神堂みたいな男をあたまのなかに飼って描いていくというのは、想像しただけでたいへんなストレスだ。それにこの長さである。ツイッターなどではなんでもないように書かれているが、そうとうにお疲れではないかとおもう。ウシジマくんはしばらく休載。再開は7月8日発売号から。真鍋先生ほんとうにお疲れ様でした。



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今週の闇金ウシジマくん/第309話①

2013-05-29 05:51:10 テーマ:闇金ウシジマくん‐洗脳くん

第309話/洗脳くん37







かつてない長さとなった洗脳くんもいよいよ最終話。ブログを読み返すと、サラリーマンくんが30話、ヤミ金くん29話、ホストくんが元ホストくんと合わせても32話ということで、フーゾクくんやフリーターくんもかなり長かったとおもうがこれらより長いということはないだろう(たぶん)。洗脳くんはシリーズ最長のエピソードとなった。第1話は2012年の7月あたま・・・ほとんど1年くらいやっていたことになる。




神堂と上原一家のもとに丑嶋がやってきて、これからいよいよ取り立てが開始される。借金は、まゆみとみゆきがしていたものの、利子を合わせて200万ということだった。神堂は、現在交際中の女(莉子?)ならそれを払えるとして、丑嶋たちとともに彼女のもとにむかう。

顔はぼこぼこで、おまけに首輪までしている。お金持ちなのか、女はあっさり200万もってきているが、それらについて訊ねる。神堂は、強盗におそわれてカードも通帳もとられた、しかしいま200万取引先に振り込まないとたいへんなことになると、怪我と金をうまく結びつける。首輪は、顔がぼこぼこなので、それに合わせたイメチェンであると。まあ冷静に考えるとおかしいが、しかしよくもまあ、ぺらぺらとこれだけの作り話が出てくるものである。才能としかいいようがない。



金を手にして出発したあと、何人の女をだましてるのか、その執着心はなんなのかと、柄崎が神堂に問う。そこでまた、神堂がぺらぺらはなしはじめ、柄崎も丑嶋も取り合わない感じなので、つい見過ごしてしまいがちだが、ここは神堂がまともにしゃべる最後の場面なので、よく読んだほうがいいかもしれない。

人間が発展させてきた科学技術の根本にある動機は、「楽して生きたい」ということだ。その結果として、無力などうでもいい人間があふれかえり、環境は汚染され、人類は滅亡へと向かっている。けれども、悲観してそれをやめるわけにはいかない。






「何故なら

人間は進化をやめたら存在価値がなくなるのです。



私の生き方はそれと一緒です。



たとえ破滅に向かっていても

私は私である為に女を求めていくのです」





そういう癖というか、洗脳を行う過程で微妙に論点をずらしていく語り口に慣れているせいか、神堂のしゃべりかたは、イライラしているときなど「だからなに?」と問い返してしまいそうな冗長さなのだが、やはり重要なセリフのようである。人は科学技術を発展させ、進化していく。しかしそれは、同時に破滅に向かうことでもあった。神堂は、じぶんもそれと一緒だという。といっても、進化しているという意味ではないだろう。人類が破滅に向かっていると自覚しながら、その存在価値を維持するために進化をやめられないように、神堂もまた、女を求め、そして、ここでは省略されているが、洗脳・支配することをやめることはできないのである。だから、「一緒」なのは、人類にとっての「進化」と、彼にとっての「女(を求めること)」ということだとおもうのだが、「楽して生きたい」がどこまでかかっているのかはよくわからない。たぶんかかっていないだろう。だいぶ前に見たが、神堂が上原家にもたらしたランキングのシステムは、最初から破綻を内在させたものだった。それぞれが毎日稼いできた額を比較し、順位のままに待遇を変え、最下位は電気、ということになったとき、この額をクリアすれば最下位でも電気なしとか、そういう絶対的なラインがなければ、ランキングされているものたちは必然的に他のものの足を引っ張るようになる。自分以外のものがなるべく稼がないようにと願い、最悪のばあい、和子のように行動に出てしまったりするのである。教育の現場で、競争原理を強く持ち込むことでむしろ全体の学力が低下していく、というような見方もあるようだが、これはそれとよく似ている。彼女たちからすれば、1万稼ごうと10万稼ごうと、最下位であれば電気ということが動かないのであれば、それらは等価なのであり、こういう考えが広がると、総額は決して伸びることがなく、むしろ日を追うごとに下がっていってしまう。ではどうすればよかったかというと、むずかしい問題だが、彼女たちは、そもそも神堂に対する関係性でしばられ、あの状況になっていたので、絶対的なライン・・・たとえば1日10万とかを超えればみんな電気なしということになると、神堂との関係について差をつけたい相手とじぶんが、神堂において等価ということになってしまう。誰だって、愛情という関係性においては、相手の特別でありたい。愛でしばられた関係である以上、このシステムに客観的なラインを設けるわけにはいかないのである。


とはいえ、神堂にはそういう自覚もあったのだろう。支配下においた一族は、こう見ると原理的に持続できるものではない。愛で複数のものを支配している以上、扱いの区別は避けられぬものであり、彼女たちのほうでもそれを求めるのであり、扱いの上のものと下のものが必ず出てくる。下のものは上のものの足を引っ張り、そうして、このシステムは破綻する。そして、破綻した家族を見捨て、次のところに移っても、同じことはくりかえされる。そのたびごとに、事件が警察などに発覚する危険性は高まっていくし、そうでなくとも、どれだけ周到に準備をしても、今回の丑嶋のようなトリックスターがまぎれこんでこないとも限らない。だが問題はそこにはないと、神堂は考える。それをやめたら、彼は彼でなくなってしまう。世界は、そんな彼の存在を認めない。「世界」のなかには、彼を彼たらしめているものが流通する経路がないので、したがって彼は存在することができない。必然として、神堂は「世界」と対立することになるだろう。前回の丑嶋の「やっちゃいけないことなんてない。罪を背負う覚悟があれば」という発言を考えてみると、つまり、この「罪」というのは、「世界」が世界内での「行為」に対してつけた符牒なのである。「罪を背負う」というのは、「世界」の認めない、つまり「罪」となるふるまいをしながら、「世界」とは対立せず、そのなかで生きていくということなのではないか。「世界」の外に立って対立的に相対化し、ある意味では自閉し、じぶんの世界を構築したという点で、神堂と丑嶋は異なっているのだ。



とここで、唐突に丑嶋が、例のパーキングでの100円のことを持ち出す。だいたい1年くらい前だとおもうが、それの利息と迷惑料で100万円だというのである。ええと、10日5割だから、100×1.5の36乗・・・か?計算はしませんけど、そんなものか。しかし、これはちょっと奇妙ではある。つまり、なぜ200万と同時に取り立てなかったのかと。たしかに、たったいまとりたてた200万は、みゆきとまゆみのものだった。しかしじっさいには、神堂に請求すべき額は300万だったということになる。前回、恐怖演出のところで、300万で死体処理をやってくれというはなしをしたとき、100万手元に残るんだから悪いはなしではないだろ、みたいなことも丑嶋はいっている。これは、丑嶋は、100円のことは忘れていたか、あるいは取り立てる気はなかった、ということかもしれない。「私」のはなしばかりしている神堂を目にして思い出したというところかもしれない。



丑嶋は神堂の乗っていた白い車をもっていく。100万にはならないようだが、残りは上原まゆみから回収するということである。



神堂はもうあまり抵抗しない。警察にチクられるよりマシだと。「神堂大道」も潮時だ。明日からまた新しい名前で、新しい人生を始めよう。




だが松田家に帰宅した神堂を待っていたのは延川と辻下の刑事二人組みである。天見時代からの神堂を追っていた関西の刑事が、ついにたどりついたのだ。その過程は、まったく語られない。彼らはミルク缶を発見していた。ビデオを検証して、大量買いしていったものをしらみつぶしにあたっていったとしても、果たして神堂、というか松田家にまでたどりつけるものだろうか。かたわらには勅使川原が正座している。彼らは麻生川弥生という、勅使川原の前の名前の時代を知っているから、あるいは彼女が監視カメラにうつっていて、手配したとか、そんなことかもしれない。

延川は殺人の容疑で逮捕すると宣言。きちんと逮捕状もある。証拠はあるのかという神堂に、果たしてそれが証拠といえるのかどうかはよくわからないが、延川は驚くべきことをくちにする。カズヤ・・・殺鼠剤を飲まされて体力を奪われ、抵抗できずに虐待をくりかえされた末に発狂したkzy。なんと、あれは陽狂だったというのだ!そんなばかな。

狂人のふりをして神堂の目をそらしつつ、カズヤはダンボールハウスの内側に、じぶんの血で、じぶんや家族への虐待を記録していたのである。神堂は、あのオナニー野郎が?!と驚いている。なるほど・・・、カサコソだったか、ガサガサだったか、カズヤがダンボールに戻ったあとの奇妙な揺れをして、神堂はかってに自慰だとおもいこんでいたが、あれはもしかするとカズヤが記録しているときの揺れだったのかもしれない。

いずれにしても、カズヤは狂っていなかった・・・というのは微妙な表現かもしれない。カズヤは、じっさいのところ、たしかに狂っていたろう。けれども、あるいは、そもそもカズヤにおける狂うという選択そのものが、現実から組織的に目をそらすための方便であったのかもしれない。カズヤは、むしろ狂わないために、狂うことを選択したのかもしれないのだ。じっさいのところあのカズヤに、どうにかアホのフリをすることで現状を乗り切ろうとするような頭脳も精神力も体力もあったとはおもえない。ここではカズヤの理性が、身を守るためにそれを選んだのではないか。そして、狂ったままに、事態を記録した。彼には、事態の記録という行為もまた、狂った認識を通したものだったかもしれない。

まあカズヤについてはとりあえずいいか。刑事がここにきている時点で神堂はアウトだろうけれど、決定打をカズヤは与えたわけだ。



神堂は警察につれられていくが、だいぶあがいている。裁判でもかなりあがいたらしい。上原家の和子、みゆき、まゆみ、そして勅使川原は判決を受け容れたが、神堂だけは上告したらしい。逮捕からかなり日がたっているようだ。刑事ふたりの会話によると、まゆみが休憩10年のところ、洗脳による心身耗弱で6年に減刑。和子とみゆきも、こちらは柏木を殺害しているので求刑無期懲役のところ懲役28年に減刑。そして、神堂と勅使川原は死刑・・・。刑事ふたりの雑談なので、細かなところはよくわからない。和子とみゆきの殺人というのは柏木のことだとおもうのだが、では重則の件はどうなったのだろう。そしてカズヤは・・・?仮にいま狂っていると判断されたとしても、重則死亡時はそうではなかったわけだしな・・・。電気のスイッチを押したのはみゆきだが、もういまとなってはどの段階で重則が死んだのか誰にもわからないわけだし。それとも、現時点狂っていたらとにかく刑務所の前に病院ということになるのだろうか。でもそうなると、あの記録文は証拠というか証言としては信頼のおけないものになるよな・・・。




まゆみは獄中出産したのだろうか。数年後、仮出所かもしれない、まゆみが刑務所から出てくる。ずいぶんやせてしまったようだ。ひとつひとつの行動に自信がもてず、おびえている。切符の買い方さえ忘れてしまった。アパートのテーブルには、3つのぬいぐるみが椅子に座らされている。もう二度ともどってこない家族、重則、和子、みゆきのかわりだろうか。

出所してからの仕事は、どこかのデパートの清掃員らしい。なにか本を読んでいる。最後のページの文句によると、『それでも人生にイエスと言う』という、『夜と霧』の作者、フランクルの講演集らしい。



そうして、沈黙の日々を送っていたまゆみのもとに、丑嶋がやってきた。なんでもない会話がまゆみには久しぶりだ。

まゆみのはなしでは、以前働いていた会社の上司、つまり編集長が身元引受人になってくれたらしい。彼女が本を作る仕事をしようとおもったきっかけは、インフルエンザのときに母に読んでもらった絵本だという。現実よりも世界が広がっていたと。

丑嶋はまゆみに刑務作業の賃金を要求する。神堂に最後に請求した100万、あれは車だけではたりないというはなしだった。たぶんそのぶんをいま回収にきたのだろう。まあ、じっさいはたんにまゆみが心配で様子を見にきただけだとおもうが。



まゆみは、あの決定的な日、丑嶋がいっていたことをくちにする。罪を背負えばやっちゃいけないことはないと。丑嶋は覚えがないとしらばっくれるが、まゆみは、「やはり人には、やってはいけない事があると思います」という。丑嶋はなにを当たり前なことを、というが、これも、丑嶋から教わったことだとまゆみはいう。つまり、じぶんの意志をハッキリ伝えるということ。



まゆみのいう「いけないこと」とは、施設にいる自分の息子を見に行くことだった。息子は、遊具のとりあいで友達と喧嘩している。それを見てすぐわかったという。それは、母親的直感なのか、それとも、気の強さを通して知れたものなのか。まゆみは緊張の面持ちでそれを見ている。どんな気持ちだろう。たしかに、彼は、彼女の子供である。と同時に、あの神堂の子供でもあるのである。

だけれども、心配はいらなかった。彼はすぐに友達と仲直りして笑いあっていたのだ。じぶんよりもよほどたくましいと。



丑嶋に堕胎の金を借りにいったときも桜が満開だった。丑嶋は桜を見上げている。いっとき、悪魔の洗脳で硬直し、まったく見えなくなった世界も、きちんと季節を踏んで進んでいく。理解を絶しながら、それでもふとしたときに温かな他者が、それぞれのしかたで働きかけてくる。そこには世界があり、巡りゆく季節は、たぶんまゆみに主観を超えたイメージ、これからずっと未来も、世界はきちんと明瞭に存在しているということを伝えただろう。ふと、涙を流しているまゆみに気付いた丑嶋は、数年後も健在らしいカウカウファイナンスのポケットティッシュを差し出すのだった。







おしまい。






全37話。洗脳くん編完結。・・・長かった!

しかしその長さも、必然というか、しかたのないところだったろう。洗脳というのは、しているものとされているものをただ呈示してみても、なにも見えてこない。多くのばあい、その両者を見ても、わたしたちは「こうすればいいのに」とか「おれはあんなやつに洗脳されたりなんかしない」とか、そういうことをおもうだろう。僕にも、とりわけ神堂には、苛立ちを通して、そういうことをまず考えた。だが、それこそが、洗脳のおそろしいところなのである。それを、伝わるか伝わらぬか、とにかく描かなければならない。短い描写ではそんなこと描けるはずもないのだ。



長くなったのでふたつにわけます




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今週の闇金ウシジマくん/第308話

2013-05-22 06:02:57 テーマ:闇金ウシジマくん‐洗脳くん

第308話/洗脳くん36




母親によって胎内の赤ん坊もろとも殺されそうになっているまゆみだが、その修羅場に丑嶋社長がやってきたのだった。

丑嶋はこの異様な状況を目にし、なおかつ柏木の携帯も発見してしまった。生かしておくわけにはいかない。神堂は殺人マシンと化した和子とみゆきを解き放ち、攻撃をしかけさせる。だが、トンカチをふりかぶった和子は、丑嶋の迫力と、外に仲間がいるということばに制止され、不思議な理屈で再びまゆみを殺そうとする。要するに、和子的には、神堂云々とかより、まゆみへの憎しみが現在のところではすべてなのである。

そして、振り下ろされたトンカチを誰かが受けて出血、というところで前回終わったのだった。


さて、誰がその攻撃を受けたのか。丑嶋社長が、うずくまってお腹を守るまゆみの、その後頭部に下ろされたハンマーを、左の手のひらで受け止めたのである。まゆみはだいぶあとで、丑嶋がかばってくれたことに気付いているので、このとき丑嶋の手の甲はまゆみのあたまに触れていない。つまり、丑嶋の手は、ハンマーによってなにかかたいものに挟まれるようにして叩かれたのではなく、空中でとまっている。それでこれほどの出血とは、和子の一撃は明らかに殺意のこもったものである。たしかに、ちょうど指のつけねのところで、肉の薄いところなので、骨が砕けて皮膚が破れでもすれば、このくらい血は出るかもしれない。しかし、特にコンクリの床においた手に振り下ろしたとかいうわけでもない手のひらをこれほど損傷させるというのは、おそるべき速度である。


というわけだから、たぶん開放骨折ということだとおもうのだが、丑嶋は「ってーなーおい」ぐらいで、表情も変わらない。さらにおそろしいコンビネーションで丑嶋の背後に迫ったみゆきの包丁による一撃も、「おう!?」と驚きつつもかわし、逆に抱えてつかまえてしまう。丑嶋の表情はいっさい変わらない。最強すぎる。どれだけの修羅場をくぐったらこんな冷静でいられるんだ。


とはいえ、チャンスでもある。足元にうずくまるまゆみが、床の包丁を拾って下から刺してきたら、丑嶋もかなり困ったことになったかもしれない。神堂は、なんとまゆみに「そいつを刺し殺せ」と命令したのだ。これまでの犯罪のほとんどを神堂は、まゆみたちに自主的にやらせることで実行してきた。現実に裁判になったとき、「やれなどとはひとこともいっていない」というような言い訳がどれほど通用するのかは不明だが、ともあれ、ことばとしては、神堂は具体的なことはなにもいってこなかった。それをしたということは、神堂にとってもよほどの事態ということである。それは、神堂じしん、そういう「言い訳」がじつはほとんど通用しないかもしれないことを悟っているということのあらわれでもあるかもしれない。だって、ほんとにそれでいっさいの罪が免れるのだとしたら、いまここで丑嶋がこの家を制圧してしまって事件が明るみになってしまっても、神堂にはなんの関係もないことになるはずだからである。あるいは、丑嶋はアウトロー、いったいわないの法的なロゴスの領域の外にあるものであるから、そういう慎重さを捨てたということかもしれない。もとより上原家は自壊するのを待つばかりだった。それが洗脳のルールにもとる行動だったとしても、もはやたいした問題ではないと、そういう判断かもしれない。


しかし、もともとの丑嶋への攻撃を「外に仲間がいる」の攻撃であきらめた和子は、意外にも冷静にそのことを神堂にいう。だが神堂は「嘘だ」という。待たせている意味などない、いるなら最初からきてると。

その段階で、うずくまったままのまゆみが、真上にある丑嶋の手から垂れた床の血をみて、じぶんがかばわれたことを知る。


丑嶋がまゆみに語り始める。まゆみはお腹の子を守っている。しかし、他人を守りたければ、まず自分を守り、救わなければならない。意志をもって強くならなければ、悪い人間に利用されるばかりであると。悪い人間というものには、まさしく当の丑嶋じしんが含まれるはずだ。最近はそうでもないが、人間のさまざまな弱さにつけこんで、必要以上の金を回収するということを、丑嶋もある程度はやってきている。だが、まゆみに関してはおもうところがあるのかもしれない。丑嶋は、それではいけない、少なくとも、それでは、いままゆみがしようとしている「誰かを守る」ということは達成できないと告げるのだ。


まゆみは重則が死んだときのじぶんの卑怯さを告白する。たしかにまゆみは、重則が手ひどく通電されていたとき、かわいそうとおもう前にじぶんでなくてよかったと安堵していた。そして、父にその位置にいてもらい続けるために嘘までついた。神堂もそれに同意する。あなたはやってはいけない事ばかりしてきたと。



「人にやっちゃいけねえ事なんてねえ。


罪を背負う覚悟があればな。


それがないやつは虫けら同然だ。


お前に言ってんだぞ、神堂」



リスク覚悟で闇金業を営む丑嶋らしい哲学だ。

世界にはさまざまな禁忌やそれを現代的に解釈した違法行為がある。極端な例でいえばたとえば、どのような法律を採用している国でも、殺人を禁止していない国はないだろう。「ひとを殺してはいけない」は人類普遍のルールといっていい。だが丑嶋の解釈は少しちがう。殺人は、してはいけないことである。だから、すれば罪になる。すれば罪になるようなことは、やはりしてはいけないことである。したがって、罪が生じる以上、それはやはり「やっちゃいけないこと」である。だが丑嶋は、その罪を背負う覚悟があるのなら、そうはならないという。たとえば殺人は、法律や、あるいはもっと人類の深部にある、人類を人類たらしめる秩序のようなものが禁止している。自我の外部にある一種の父性が、それが罪であると告げるからこそ、殺人は罪になり、「やってはいけないこと」になる。その外部から告げられる法は、原則的にアンタッチャブルであり、憲法みたいにやすやすと改正できるものではない。しかし、逆に言うと、その行為に罪の符牒をつけるのは、その外部の公準だということになる。果たして、罪になるからやってはいけないのか、やってはいけないから罪になるのか、いずれにしてもその「罪」や「やってはいけない」はどうして定められたのか、たいへんむずかしい問題だとおもうが、いずれにせよこうした問題は哲学の領域、通常生活するレベルで、「なぜひとを殺してはいけないか」という問いは成立しない。殺してはいけないから、殺してはいけないのである。むしろ、問いをたてるとするなら、「なぜわたしたちは『なぜひとを殺してはいけないのか』という問いのたてかたをしがちなのか」というふうにすべきだろう。ひとを殺したいわけでもない人間が、なぜ殺してはいけないことにいちいち疑問をもつのか。短いことばで議論しつくせる問題ではないが、ひとまずここでは、そうした外部の公準に不如意さを覚えるからだ、ということにしておこう。殺人にかぎらず、そうした理由の判然としない禁止事項がじしんのふるまいを制限していると、そのようにおそらく感じるのだ。しかしそうした問いの成立の背後には、世界というものはあまねくわたしの認識によって把持されるべきである、という理知主義的な前提がある。だからこれが哲学の問いとなるのは自然なのだ。

だいぶ脱線したが、このことはあとでもういちど考えよう。丑嶋では、罪が生じる以上、その行為は公準によって「やってはいけないこと」に登録されている事項である。そして、わたしたちは、どうあがいても、その公準から逃れることができない。納得できなくても、「罪」はやってくる。つまり、丑嶋では、「罪」になるから「やってはいけない」という回路がないのである。公準が、法が、「罪」とするからといって、「やってはいけないこと」にはならない。まさしく「アウトロー」らしい発言であるし、同時に、束縛し、洗脳していた「法」の意識からまゆみを解き放つことばである。


そのようにいう丑嶋に神堂は反論せず、私だけを信じろとまゆみにいう。だが即座に丑嶋は、信用できるやつはじぶんから信じろなんていわないという。今回の丑嶋はずいぶん能弁である。もしかすると今回の丑嶋は、いつものクールの丑嶋ではないかもしれない。つまり、ぜんぜんそうは見えないけど、これはちょっと怒っているんじゃないだろうか。

神堂は、じぶんはまゆみの道標であるという。そしてまた即座に丑嶋は、「目的地を決めるのは道路標識じゃねえ。ハンドルを握ってる運転手だ」との名言で応える。

まゆみは、包丁に伸ばしかけていた手を戻し、からだを起こして、「刺すのは嫌です」と表明する。



「なぁ、



にィっ!!」



すごい不細工な表情で神堂が下唇をかみ締める。洗脳の対象に反抗されるのははじめての経験なんだろう。

で、そこに、なんでか知らんが、たよりになるカウカウのフルメンバーがやってくる。問答無用で柄崎は神堂の顔面に拳を叩き込み、社長の心配だ。高田が和子を、加納がみゆきをとりおさえるなか、190センチくらいある丑嶋が神堂にドロップキック。あーすっきりした。ていうか丑嶋土足かよ。


とりおさえられた和子とみゆきはたぶん手を後ろ手に縛られ、なぜかまゆみも並んで正座し、例の神堂の勅語が流れるテープを聞かされている。神堂は、重則や柏木を含む2リットルペットボトルを不安定に組んだ足場にのり、天井から伸びる電気のコードに首を吊られている。顔は試合後の桜庭ぐらいぼこぼこだが、べらべらしゃべり続けるのはさすがだ。丑嶋は借金やら迷惑料やらで200万請求する。そんなもんでいいのかという気もするが、そんなもんなのか。パーキングの100円の件は、とりあえず触れられない。神堂は警察に訴えるという。追い詰められている証拠だ。警察が踏み込めば丑嶋より神堂のほうが厄介なことになるし、だいたい相手はアウトローなのである。丑嶋も心得ている。冷蔵庫にはバラバラの柏木が入っている。墨に見覚えがあるということだ。勝手に冷蔵庫をあけるなんて育ちが悪いとかなんとか、神堂はこんな状況でよくまあいえるな。


丑嶋ははなしを続ける。知り合いが死体処理に困っていて、300万で請け負う人間を探しているという。それをやらないかと。

テープレコーダーが「カチ」という音をたてるが、それはとまったということなのか、相変わらず動いているということなのか、神堂は和子に、じぶんのためにまた肉団子をつくってくれというが、返事はなく、聞こえているのかどうかよくわからない。神堂は丑嶋のビジネスパートナーにでもなったつもりだろうか、早く縄をほどいてくれという。そして、殺されたのはどんな人間かと問う。もちろん、処理される死体というのは、神堂のことである。

丑嶋が神堂の足場を崩したので、神堂は天井から吊られることとなる。泡を吹きながら神堂は、200万なんてすぐ用意できるみたいなことをいう。結婚を申し込んだ女性・・・たぶんこないだのメガネの、おそらく莉子という女性、彼女なら、いくらでも払うと。


というわけで、丑嶋は神堂に首輪をつけ、鵜飼いの鵜と鵜匠の関係で、取立ての旅に出発である。



つづく。



なんと、次回で洗脳くん完結らしい。勅使川原、神堂を追う刑事、柏木を失ったヤクザ、みゆきや和子、それに当然まゆみなど、すべてにあと一度で決着をつけられるのだろうか。今週もすごい急展開だったが、来週もすごいことになりそうだ。


今回はとにかくウシジマ無双であった。強すぎる。バキの世界にいってもそこそこやっていけそうな強さである。そして柄崎のパンチと社長のドロップキックで、この36話ぶんのもやもやはすっきり晴れた。まあこういうのは一方的というか拙い読みだとはおもうのだけど、もやもやしてしまったのだからしかたない。


今回は丑嶋がよくしゃべった。そして、はっきりと表示はされないが、たぶん丑嶋はそうとうあたまにきてる。「お前に言ってんだぞ、神堂」なんていう芝居がかったセリフさえくちにしている。芝居がかったといえば、死体処理の「お前だ」のくだりも、ずいぶん凝った恐怖演出である。この演出は、凝ってはいるが、まゆみたちは背をむけて耳をふさがれているので、観客は当の神堂ひとりである。ここでは、誰も見ていないのに恐怖演出をしているということそれじたいが恐怖演出になっている。丑嶋たち闇金は、じっさいに表出される暴力ではなく、その暴力の演出によって主に取り立てを行う。それが通用しないものも多数いるのだが、基本的には「暴力のにおい」によって相手から金を回収する。これらの暴力は、むしろふるわれないことで価値をもつ。その「におい」から広がるイメージが、彼らに金を払わせるのである。だが、今回のこれは、そういうものとは少しちがうようである。恐怖させることそのものに丑嶋は意味を見ているようにおもえる。それがどこから出てくる感情であるのかはわからない。というかそれはまゆみの人柄しかありえないわけだが、具体的にどこでそういうつもりになったのかというとよくわからない。しかし、今回に限っては、赤ん坊を守ろうとしたまゆみの行動は大きかったろう。むかしから丑嶋は親子の関係みたいなものに弱い。だが、それじたいは認められた行為であっても、まゆみはあまりにも弱すぎる。丑嶋は、まゆみに強くなるチャンスを与えた。それは、じぶんの意志で物事を決めるという、ごく当たり前のことだった。しかしそれができなくてはじぶんを守る強さは得られないし、当然赤ん坊だって守れない。まゆみが思考を放棄し、包丁を手にしていたら、それもまた丑嶋は容赦なく叩きのめしていただろう。だがおそらく、まゆみの人柄からしてそうはならないと踏んでいたろうし、だからこそ、ここまで力を尽くして彼女を守ろうとしたのだろう。


さて、神堂がまゆみの道標であるというのは、非常にわかりやすい表現だった。丑嶋は、目的地を決めるのは標識ではなくドライバーだという。標識は、これ以上の速度を出してはいけませんとか、ここを通ってはいけませんとか、「してはいけない」禁止事項をつきつけるだけで、運転はしてくれないし、目的地も決めてくれない。つまり、まさしく神堂は、まゆみにとっての公準、「やってはいけないこと」を決める外部の父性だったのである。

うえのほうでだらだら考えたように、なぜひとを殺してはいけないのかと、なぜわたしたちは問うのかというと、そこに不如意を覚えるからであり、不如意を覚えるからには、意のままに世界を把持したオールマイティな「わたし」というものをわたしたちは想定しているのである。

おそらく、丑嶋はまさにこの場所にいる。といっても、すべて物事は合理的に説明可能であるとか、計量可能であるとか、そういう思想であるということではない。これは、彼の職業上の必然のようなものである。彼は、「闇金狩りくん」でいっていたのだったか、この職業のリスクをじゅうぶん承知しているし、今回のことばをみるとそれが「罪」であることも理解し、それどころか背負ってさえいるようである。法の外で生き、しかもヤクザ組織のような後ろ盾も基本的にもたず、そのヤクザ組織などとわたりあう丑嶋は、最終的にたよりになるのはじぶんの肉体、そしてカウカウの仲間しかないと、そういう、じつに孤独な生にある。それは、一種の宿命であったかもしれないとはいえ、ずいぶん悲しい生き方であるし、そういう、要するになんの保証もない、じぶんの身ひとつがたよりの生き方というのは、他者への不信も呼び込むだろうし、そうとうにきついだろうとおもう。少なくとも僕にはできない。たぶん、誰にもできない。すべきでもない。

ともかく、彼には、彼を彼たらしめる、「だれがなんといおうと君は丑嶋馨だよ」とくりかえし承認してくれる外部の「道標」というものがない。彼には、彼自身の手によって、じぶんが「丑嶋馨」であると証明していく以外ない。それが丑嶋的なアウトローという孤独な生き方なのである。だから、丑嶋は、みずからの手で、世界そのものをつかまなくてはならない。世界を把持しなくてはならない。丑嶋じしん、世界すべてが把持可能、計量可能だなどとはおもっていないだろう。そんなバカではない。そうではなく、彼には、そのように志向していく以外に、アウトロー的生き方をまっとうするしかたがないのである。


そういう人生の証明があるから、あのような説得力の、一見不合理なことばが出てくる。くりかえすように、これは万人に通じる生ではない。だがたぶん、それを通じて見えてくる一種の真理が、彼のことばには含まれている。「右折禁止」と書いてあれば、ひとは右に曲がらない。曲がれば「罪」になるからだ。だが、じっさい右に曲がることがなにをもたらすか、計量的に把持していこうとする丑嶋では、「曲がってはいけない」は前提ではない。彼自身が発見していくことなのである。そのかわり、思考を停止して「法」にしたがわない代償として、彼はつねに覚悟を決めていなくてはならない。それが、たぶん丑嶋のすごみにもつながっているのだろう。


こう見ると、神堂は「権威」の象徴とみることもできるかもしれない。くわしいことは次回見ることにするが、まさしくこの、わたしたちを思考停止させ、蒙昧にしたがわせるように仕向けるのが神堂の方法だったからである。細かい手法はもうくりかえさないが、こうしたことのもっともおそろしい点は、わたしたちがなにに目をつぶっているか、なにが見えていないのかということを自覚できないというところだ。僕の乱暴な仮説では、神堂の洗脳はトラウマを書き換えるところからはじまる。トラウマというのは、わたしたちが語ることのできない、自覚することのできないもののことをそう呼ぶのであるから、書き換えられてももちろん気付くことはできない。洗脳されているものたちは、洗脳が解けるまで、洗脳されていたことに気付くことができない。だとするなら、いまこの瞬間のこの「わたし」が、なんらかの物語にもとづいたことばによって「洗脳」されていないと、どうしていえるだろう。神堂の、これまでの野生的な悪役と異なる怖さというのは、こういうところにある。肉蝮や三蔵のこわさというのは、いってみればモノ的なこわさである。回れ右してダッシュして逃げれば、とりあえずその場はしのげる、そういう怖さだった。しかし神堂は、わたしたちの日常を形成する基本的な物語の襞に潜んでいる。というか、「潜んでいない」とは構造上誰も断言できない、そういうものなのである。


次回で洗脳くんも完結。「取立て」はどのように行われるのか。そしてパーキングでの100円の貸しは10日5割でどのくらいに増えているのか?!見ものである。





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今週の闇金ウシジマくん/第307話

2013-05-15 04:48:26 テーマ:闇金ウシジマくん‐洗脳くん

第307話/洗脳くん35



顔と髪を焼き、じぶんの「女」を殺したのがまゆみだとおもいこんでいる和子は、娘が妊娠していることを知り、通電で赤ん坊を殺そうとする。

そうおもいこませたのは神堂であって、その目的としては、もはや金づるとしては機能しなくなった上原家を一掃したいというのがあるはずだ。彼が思い描いている過程がどのようなものかはわからないが、目下のところ、ふいに闖入してきた「他者」としての赤ん坊をどうにかしたい。それも、たんに排除するのではなく、まさしく赤ん坊が「他者」としてまゆみにもたらした客観を利用するかたちで、これまでそうしてきたように、上原家全体が自壊するよう仕向けるのである。和子は、赤ん坊を、そしてまゆみを殺す気満々である。たぶん、それをそのままにしていてもよいのかもしれない。しかし神堂はここでいったん待ったをかけ、まゆみの耳元でこのままでいいのかとささやく。ポイントは、神堂が最終的に「誰」を最後に残そうとしているかということだろう。仮に、家族がバトルロイヤル形式で、一撃必殺の刃物を手に殺しあったとしても、たとえば最後のふたりが、同時に相手の急所を刺すとか、そういうことでもなければ、じゅんばんに「誰かが誰かを殺す」ということをくりかえしていったとき、最後に必ずひとりは残ることになる。神堂じしんは手をくださない。最後に残ったものは、少なくとも最後から二人目のものを手にかけていることになるし、それまで死んでいったものたちの魂までおそらく抱え込むことになる。そうして、ぜったいに逃げ出すおそれのない、神堂的にはほぼ完璧な奴隷の女が完成することになる。現在のところでは勅使川原や松田がそうだろう。増えすぎたら、今度はそのものたちでまた殺し合わせればいい。

そうして、身もこころも神堂に屈服し、ぜったいに覆ることのない奴隷ができあがるが、上原家にかんして、とりあえずそれを誰にするかというと、まあ、まゆみしかありえない。というか、少なくとも、和子ではありえない。最後に残る奴隷は、狂人であってはならない。たえずじぶんのしてきたことを意識あるいは無意識のうちで反復し、自主的に刷り込み、また自主的に奴隷になろうとするような、多少の理性をとどめたものでなければならないからだ。殺人の罪の意識から殺人を犯す、神堂の求める奴隷はそういう動機にしばられたものでなければならないのである。そうすれば、その奴隷は、罪の意識を感じるごとに、そのことじたいによって罪を深めていく、無間地獄のような連鎖にとらわれていき、もはや神堂のもとを離れることはできなくなるのだ。


神堂はまゆみの目前に包丁を置いてささやき続ける。和子やみゆきは、あたまから袋をかぶって、またいつものようにヘッドホンをつけている。

これもまたいつものように、神堂はなにも具体的な指示はしない。和子は無防備である。和子はわたしたちの赤ん坊を殺そうとしている。そしてここに包丁がある。そういう「条件」を提示するだけである。とここで、まゆみは珍しく、それは和子を殺せということかと訊ねる。和子やみゆきは柏木を殺しているから、すでに感覚が麻痺しているのだろうが、まゆみはまだ誰も(直接には)殺していない。もちろん、神堂の文脈的には彼女は罪人であり、彼女じしんもそのつもりだろうが、包丁で生きた肉を刺す感覚を知っているのといないのでは、いくら洗脳されているとはいえ、大きくことなるのだろう。


対してじぶんで考えろと神堂はいう。包丁でひとを刺すなんてかんたんにできることじゃないとも。だから、あっさりをそれをやってのけた和子やみゆきはすでに異常者である。けれども、そこに目的があるなら、良心は保てる。だとするなら、神堂の仕事は、まゆみの殺人を正当化する「目的」を創出することである。

神堂は「もっとも退化した生物」として、kzy(カズヤ)をあげる。「カモン!!」のひとことでよびつけ、いきなり顔面を蹴飛ばし、「ハウス!!」のひとことでダンボールハウスに戻す。あたまは悪かったがあれほどタフだったカズヤの面影はどこにもない。血が出るほど強く顔面を蹴られても無反応、神堂によればカズヤは「死に同意した人間」ということになる。そんなものを生かす意味などない。座れという命令もきかず、徘徊老人のようにヘッドホンをしたままうろつく和子も同様である。神堂によれば、和子は生かす意味のない人間であり、また同時に、生きていてはじぶんたちに危害を加えるかもしれない危険な人物である。



「それとも私に反抗してるのか?」



神堂が酷薄な表情で、また急に口調をかえてまゆみを詰問する。まゆみはあわてて、反抗なんて考えただけで恐ろしいとくちにする。その「恐ろしい」に、なぜか神堂は食いつく。それもまたまゆみはあわてて否定し、そういう感情を捨てる努力をしてきたという。じぶんはなにも感じない棒切れであり、神堂の機嫌を損ねないことだけを考える電化製品も同然だと。非常に微妙なやりとりだが、「電化製品」のひとことを拾った神堂は「電気大好き」のことばをまゆみから引き出し、じゃあ膣電気してもらおうかというふうにもっていく。けっきょくはそこだ。和子に電気を流されるか、「行動」に出るか。神堂じしんが、洗脳の基本として、丑嶋に語っていたことである。まゆみは一連の流れで、選択肢を狭められ、まるでそれしか選ぶ道はないかのように錯覚してしまう。包丁とクリップを前にして、まゆみはなにかを決めたような表情を見せている。


と、そのタイミングで、ドアがノックされる。丑嶋社長がやってきたのである・・・!

丑嶋は、まゆみとみゆきの借金の取立てにきたという。だが神堂は、ふたりがいるのかどうかという質問には応えない。しばらく、互いにゆずらない問答が続き、丑嶋は、相手は「松田さん」かどうかを確認する。いつもの神堂なら、そうだと答え、てきとうなストーリーをぺらぺらとくちにしたかもしれない。しかし、なぜかここで神堂は、うっかり「違いますよ」とくちにしてしまう。それはおかしいと、丑嶋はいう。郵便受けは松田の表札になっているのである。それを見落とす神堂ではない。神堂のストーリーでは、この家は相変わらず「松田家」だったはずである。丑嶋はなにをいっても動じないし、だいたいからだがでかすぎる。それに、見るからにアウトローの丑嶋は、たぶん神堂のもっとも苦手とするタイプだろう。というのは、神堂は、「法」のなかで生きているひとびとが、誤ってその「外」に出してしまった片足をすくうことで、洗脳を開始するからである。アウトローは、まさに彼が指摘し、罪の意識をうえつけるその場所に息づくものなのである。恐喝かなんかをしている闇金業のものに「それは犯罪ですよ。なんてことをしてしまったのですか」とかいったって、「だから?」でおしまいなのである。

要するに、いつもの手が通じない。パーキングでのやりとりの件もある。今回ふたりは、まるであの対峙がなかったかのようにふるまっているが、もちろんあたまに残ってはいるだろう。そういう、神堂のなかの警戒と緊張が、ついうっかり、彼を守りに入らせてしまったのだろう。


あまりしつこいと警察を呼びますよと神堂はいう。ドアのすきまから手をのばした丑嶋は、これはなんだろう、鼻の穴に指をつっこんだんだろうか、それともすばやく弾いたんだろうか、とにかく神堂に攻撃を加え、むりやり家のなかに押し入る。神堂は鼻血を出している。いつものことだが、警察にかんして、丑嶋は「呼べよ」という。神堂じしんが、警察がやってきたら困るだろうことを、おそらく見抜いてもいるのだろう。

部屋のなかでは、まゆみがうなだれて正座し、太った女と若い女が、あたまに袋をかぶり、にもかかわらず下着姿で、不規則な位置に棒立ちしている。丑嶋はこの状況を見て、「何やってんの?」と、笑ってしまうほどふつうの反応をする。「あんたら何やってんの?」と、同じことを2回訊いてしまうほどである。しかし動揺したり不安を感じたりしている様子はない。というか、なんの変化もない。客に「仕事何やってんの?」と訊くのとまったく同じ調子である。

和子について、神堂は「枕カバーをかぶってます」と応える。なんだそのこたえ。


まあ、丑嶋にはどうでもよい。幸い、上原まゆみは枕カバーをかぶっていない。返済日だと丑嶋はいう。返済日、なのだろうか。堕胎費用として金を借りたあの日から、10日たったということか。


丑嶋は「クソヤクザ柏木」に電話をかける。この想像を絶する異様な状況のほとんどが、丑嶋は見えているようである。なぜかきれいに畳んである柏木の服のうえにある携帯が、奥の部屋で鳴っている。言い逃れの難しい、決定的な出来事である。神堂は決断する。殺人マシーンとなった和子とみゆきのカバーとヘッドホンをはずし、野に放ったのである。


部屋の奥でしゃがんでいる丑嶋に向け、和子はトンカチをふりかぶる。だが、大きく広がった和子の影が、丑嶋には見えている。振り向かずにこれを静止し、「あんたじゃ無理」と丑嶋はいう。トンカチを振り回したところで、あんたではじぶんを殺せないと、こういうことだろうか。加えて外には仲間もいるということだ。金さえ戻ればそれでいい。じぶんも面倒はごめんだ。


それをきいて和子はまゆみのほうに向き直る。まゆみが消えれば借金もなしだなと、意味のわからない結論に達し、ついにこれをふりおろすのだった。



つづく。



最後、血しぶきがあがっているが、これが誰のものかはわからない。まさかウシジマくんで、バキのような次回への引きが見れるとは。

影からすると、和子は振りかぶったトンカチをすでに打ちおろしている。だが、それがしっかりまゆみに当たったのか、もしくはまゆみ以外の誰かに当たったのか、それとも丑嶋が制止するなりしたのかはわからない。いずれにしても、誰かが、かなりの衝撃を受け、出血している。

丑嶋の行動の動機は、金の回収である。まゆみがなんらかの事件にまきこまれていることは勘付いていたろう。結果として彼女を助けることになったとしても、少なくとも丑嶋の理屈では、あくまで仕事として、取立てとして、彼の行動は動機付けられているはずだ。そう考えると、丑嶋がまゆみを和子から助けた可能性はかなり高い。なぜなら、回収できそうな人物が、えたいのしれない前髪男を除くと、もはやまゆみしか見当たらないからである。和子はなぜか、まゆみが死ねば借金もなくなると考えたようだが、そんなわけはない。柏木は行方不明だが、その原因が彼女たちにあるとなれば、そのぶんも、彼は彼女たちから回収するだろう。しかし現実として、まゆみが死んだら、たぶん取り立てはかなり難しくなる。丑嶋は「キッチリ」が口癖である。もちろん多少のリスクは計算しているだろうが、どんな人間からでも、どんな状況でも取り立てることを信条としている彼だから、ほとんど唯一まともに見えるまゆみが殺されるのを黙ってみているとは考えにくいのである。わからないが。


神堂に対して今回、まゆみは、内容を具体的にするよううながす発言をした。「和子を殺せ」と、神堂にいわせようとしたのである。これは、まゆみにおいては、これから和子を殺すのだとしても、それが自主的なものであると認めたくないという心情が働いたということだろうか。それとも、前後の感じからして、「まさか殺せということじゃないでしょうね?」という意味かもしれない。いずれにしても、この問いが出てきた以上、まゆみの主体性のなかに「和子殺し」の動機は存在しない。もちろん赤ん坊は守りたいが、そこから殺意につながるまでにはなっていない。でも、同時に、それから逃れられないこともたぶん悟っている。だとしたら、そうした殺意がじしんのなかに確認できない以上、まゆみはその点に関してどうしても「思考停止」したい。たぶんそういう心理が、神堂の具体的な指示を求めたのである。逃れられないのは、洗脳がもたらした桎梏が、身体の自由を支配しているからである。そして、「逃れられない」と「悟る」のは、彼女のなかのあるぶぶんが、赤ん坊を経由して他者性を獲得している証でもある。わたしたちは、「この世界」から逃れることができないと悟ることができない。「この世界」ではない世界を想像することができないからである。平面の、二次元の「世界」に住むものは、「所詮おれたちはこの世界から逃れられないんだよ」と、もちろんくちにすることはできるが、二次元世界の規則がもたらしているその「世界性」のようなものを、三次元の規則から観測することは原理的にできない。仮に、わたしたちが高次元を想像するように、世界外としての三次元を彼らが推定したとしても、その推定と想像じたいが、二次元の規則を出ることがないのである。というたとえはなんだかちがう気もするが、まあ大意はそういうことで伝わるだろうか。

まゆみにおいては、反抗云々のぶぶんでのことばの揺らぎにも同じものが見える。彼女は、怯えたり不安に感じたりする心を捨てる努力をしたという。しかし、その直前に、彼女は恐ろしいとくちにしている。つまり、その努力は実っていない。にも関わらず、じぶんはなにも感じない棒切れ、ひとつの目的のために機能する電化製品だという。「恐ろしい」が本音であるなら、これもウソである。しかし、彼女のことばには、取り繕っているという感じは不思議とない。それが、おそらく彼女の、「思考停止」したいという欲求、つまり、「逃れられない」という「悟り」につながっている。じぶんは棒切れである、電化製品であるというのは、状況の報告ではなく、おそらく、願望である。つまり、彼女は、じっさいのところ棒切れではなく、電化製品でもないために、そのようにくちにするのである。


ともかく今回は、丑嶋登場に続き、なんかわからないが、彼が神堂の顔を弾いて出血させてくれたことでだいぶすっきりした。この場面を、丑嶋が神堂をやっつけるところを見るために洗脳くんを読み続けてきたといっても過言ではない・・・。本音をいえばハブをやったときみたいにもっと思い切りぶっとばしてもらいたいものだけど。






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今週の闇金ウシジマくん/第306話

2013-04-27 23:48:03 テーマ:闇金ウシジマくん‐洗脳くん

第306話/洗脳くん34






ものすごいチームワークで、みゆきを追ってやってきたヤクザ・柏木を葬った上原一家。重則の死ももちろんたいへんな事件だが、ヤクザに手をかけてしまったのはかなり大きい。


しかし神堂の興味はもはや上原一家にはない。知ったことではない。じぶんたちで処理せよと命じて、デートに出かける。といっても、柏木の件が警察なりヤクザなりにばれたら、どれだけ周到にストーリーを用意していたとしても、連鎖的に神堂だって面倒から逃げられなくなるはずなので、そんなほっといてもいいのかなという気はするが、だとしたらなおさら、逃亡するためにも、彼はいま金が必要なのかもしれない。


前回彼は莉子という女性とメールしていて、夜景を見ながらデートしていたが、今回登場するメガネの女性がその莉子なのだろうか。正体をあらわす前の神堂は、いや、あらわしたあとでも基本的にはそうなのだが、なんというか、ふつう恥ずかしくてくちにできないような、お芝居のセリフみたいなことばを滔滔とくちにする。だから、客観的にはどことなくうそくさいのだが、通してそんな口調ではなされれば、いずれ慣れてきて、むしろ相手はそこに真実を見てしまうのかもしれない。そして、相手のほうでも、なにか気取った空気になるというか、じぶんもその、一種の高みにある相手と同等のものと考えて、似たような口調になっていく。ウシジマ作品では、撥音を小さいカタカナの「ン」で表現しているが、これはたいてい、じっさいにそのことばをくちにするときの便宜上変化したものだ。しかし、神堂のしゃべりかたは、そういう活用のしかたをしない。だから、なにか、書かれたものを読み上げたような感じがする(じっさいわたしたちは「書かれたもの」を読んでいるので、このはなしにあまり意味はないかもしれないが)。「書かれたものを読み上げているような感じがする」とき、ひとは、そのなかに「準備」を感じ取るだろう。相手の発話に対して反射的に、その場で語られることばなのではなく、先手をとられているような感じを覚えるのだ。しかし、この「先手をとられる」感覚というのをむしろ好む、そういう女性を、神堂は選んでいるはずである。莉子もそうなのかわからないが、まゆみや可奈子は勅使川原の占いの客だった。世界を、いまふつうに流通している価値観外のもので説明しようとする理論体系。勅使川原の客には、少なくともそういうものを求める「傾向」はある。そしてたぶん、とりわけてそういう傾向が強い女性を、勅使川原は選んでくる。神堂は、彼女たちにとってのその新しい価値観を、「先手」をとった、手際のよい紳士として、包容力に翻訳して表現するのである。


神堂は莉子()に信仰について語る。ひとは光を、信仰を必要とする。あなたは希望そのものである。たほうで、あなたにも希望は必要であるはずで、優れた夫と子をもつことが女性の成功であるなら、愛が必要なはず。あなたのために世界を失ってもいいが、世界のためにあなたを失いたくない。そうして、神堂は指輪をプレゼントし、プロポーズするのであった。


そのころまゆみは、たぶん団子を捨てて歩いているようなのだが、左右で目のかたちがちがう。これは、ちょっと前にみゆきについてもあった描写である。たんなる絵の問題だろうか、それとも、せめぎあうなにものかが顔の左右にあらわれているのか。


さて、久しぶりのカウカウファイナンス。マサルと丑嶋が金子のところにきている。客の女の子に仕事を紹介してやってくれということだが、金子は無理だという。ちょっと前までは景気がよかったのだが、一番人気のみゆきはこないわ柏木はツケを払わないわで、最近は調子が悪いらしい。黙ってマサルと金子のやり取りを聞いている丑嶋に、金子は、取り分を半分にわけるということで、最近見ない柏木から取り立ててくれないかという。柏木のはなしをしても、丑嶋の様子はあまり変化がない。まだ柏木が消えてからそれほど日がたっていないのだろうか。しかし金子が気にするくらいだから、ヤクザの仲間もそろそろ気づいてもおかしくないとおもうけど。あるいは、じっさいに丑嶋が柏木をまゆみたちのところに連れて行った描写はないので、丑嶋はなにも知らないのかもしれない。しかし柏木と別れたあの手下は、必ず、柏木と最後に会ったのが丑嶋であると証言するだろう。まだそこまでいっていないということだろうか。


そして、ヤクザ、闇金に加え、警察も神堂を追っている。こちらは関西のほうで、まだ神堂が天見となのっていたころの、おそらく最初のころの犯罪をおっている延川と辻下という二人組の刑事である。ベテランっぽい延川のところには、おもいがけない連絡が入っていた。彼は、天見と社長が暮らしていたアパートで不気味な粉ミルクの缶と大量のペットボトルを発見した。たぶん刑事の勘というところだろう、知り合いにその手の不審物があったら教えてくれと伝えてあったのだ。そして、和子がみゆきから奪って放置したもの、それが、発見されたのである。なかには重則を含んだ団子がたくさん入っている。なぜかわからないがすでに骨まで確認されているらしい。いまは鑑識が分析中ということでわからないが、すぐにそれが人間のものだということはわかるだろう。


延川たちは粉ミルクの缶に刻まれている製造番号から、販売された場所を特定する。ドラッグストアの店員によれば、粉ミルクを大量買いするひというのはわりとふつうにいるようである。しかたないのでふたりは、十数店舗ぶんの監視カメラの映像90日分をじっくり見ることにする。ちょっと絶望的な気分にある作業である。ふたりは雑談の調子で事件についてはなしをすすめる。天見には女がいた。麻生川弥生(あさがわ やよい)という占い師である。写真の麻生川はちょっと笑っているし、写真そのものも歪んでいるみたいなので微妙なのだが、まず勅使川原ということでまちがいない。彼女は、天見時代からの神堂の女だったのだ。

延川の口調ではそれがいつのはなしなのか不明だが、その麻生川の家族三人の遺体がドラム缶から見つかったらしい。さらに、神堂が「元詐欺師」に口止め料を払えと電話したこともつきとめている。電話番号は麻生川弥生の父親名義だったそうである。とんでもないヤマを掘り当てちまったと、延川はいう。いったい何人の人間が死んでいるのか。


どういう状況かさっぱりわからないが、松田明日香らしき女性を組み伏せてセックスしようとしている神堂を、勅使川原が正座して見ている。なんだこの状況は。勅使川原は黙っているが、神堂はまたいつものように、ひとりでべらべら、自分勝手な女性論、恋愛論をくちにしている。



「新しい金脈が見つかったので

厄介な上原家は、


本格椅子取りゲーム強化月間です。


家族間の問題は家族内で解決してもらいましょう」



もと松田家に住む上原一家の生き残り4人は、すごい状態である。まず、きちんと服を着ているものがひとりもいない。全員下着姿である。いまはまゆみがクリップをつけられて、みゆきや和子に尋問されている。お題は「誰が和子に火をつけたか」である。みゆきはしらばっくれて(あるいは本心でそう信じているのかも)、じぶんに濡れ衣を着せるなという。まゆみは、カズヤが見ていたはずだという。だが、カズヤはもはやあてにならない。自己防衛のための陽狂という可能性もないではないが、ここまで徹底してやっていては、ほんとうに狂ってしまっても不思議ではない。ダンボールハウスから無垢な犬みたいな視線をまゆみたちに向けていたかとおもうと、いきなり引っ込んで、神堂によれば自慰をはじめるのだ。見ていたとしても、これでははなしにならない。


狂える和子は最初から通電すると決めている。アソコにクリップをつけて電気を流すようみゆきに命令する。しかし、最近はぜんぜん見せたことのなかった真剣な表情で、やめてくれと懇願する。赤ちゃんが死んでしまう。しかし、それこそが、顔を奪われた和子の目的なのである。ほんとうに顔を焼いたものから大切なものを奪いたいのなら、もっと真剣に犯人探しをしたほうがいいとおもうのだが、神堂のことばは神のことばである。もうそれ以外にこたえはありえない。


そこでいったん神堂は、「アツくなりすぎ」としてみんなを諌める。そして、和子たちがいなくなったところで、床に包丁をおき、神堂はまゆみにささやくのである。



「大丈夫ですかまゆみさん。

このままでは和子に我々の子供が殺されてしまいます。


早々に手を打たないといけませんよ?」



つづく。



まゆみは子供を宿すことで第三者の目線を獲得した。少なくとも、赤ちゃんのことを考えているかぎりで、まゆみの思考は神堂の設定したものからはずれていくことになった。

だが神堂はそれさえも取り込み、「本格椅子取りゲーム」に利用しようとするのである。

まゆみにとって、赤ちゃんは守らなければいけない存在である。その、赤ちゃんそのものと、また「赤ちゃんを守りつつあるわたし」という新しいイメージが、硬化していたこの狭い関係性を崩し、どれだけそれが異様なものであるかをまゆみにつきつけた。

たんじゅんに図式化すれば、これまでわが身を守るためにそれ以外のものたちと対立し、また対立することで一種の秩序を保ってきたものが、わが身以外の守るべきものを手に入れて、それがいかに歪んだ関係性であったのかを俯瞰する。わたしたちは世界が三角のかたちをしていてもそれを自覚することはできないが、それを外から眺めて三角形であると指摘する他者の視座が想定できれば、少なくとも想像することはできるようになる。わたしたちは時間がいまこの瞬間停止しても気づくことができないが、ディオのような男が時間を停止させてひとり特権的に動いていた、あるいはそうでなくては説明できないようなことをなしとげたとき、はじめて時間がとまったのかもしれないということに気が回る、という説明はなにかちがう気もするが、図式化するという点でいえば近いかもしれない。「赤ちゃんとわたし」の物語があるかぎり、歪んだ家族の関係性は相対化され、まゆみは今回見せたような強い表情を見せることもできるようになる。ところが、神堂はその物語をもこれまでの文脈のなかに回収しようとする。既存の関係のなにが歪んでいるか。なにがとひとことでいえる次元ではもはやないが、原因としては、まさしくその、それを相対化する他者(的なもの)がなかったということだろう。神堂としては、もう上原家に用はない。それを維持させることにもう興味はない。だから彼は、芽生えたまゆみの他者性を利用して、現状関係を支配している和子を始末しようとするのである。


しかしまゆみはどうするだろうか。獲得された他者性は、たしかに、この歪んだ関係から赤ちゃんを守らなければと告げている。しかしその目的のために包丁を手に取れば、彼女とその赤ちゃんはふたたびその歪んだ対立関係にとりこまれることになる。しかも今回は保持よりも崩壊を目標として。つい最近、淡いものではありながら、目覚めに近い感覚を味わったばかりのまゆみである。ここは慎重になるんではないだろうか。


しかし、味方のいっさいいないまゆみの孤独と不安は、想像を絶するものがある。たぶん、ささやく神堂にも、彼女は引き続き恐怖を覚えているはずだ。しかし、それにすがるしかない・・・。そうなると、やはり彼女はそこにもどっていくことになるだろうか。丑嶋・・・。







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