『六号病棟・退屈な話』チェーホフ | すっぴんマスター

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■『六号病棟・退屈な話』アントン・チェーホフ著/松下裕訳 岩波文庫

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「世間的名声を得た老教授。だが、その胸の内は…。空しさと無力感―わびしい気分で綴られた手記の形をとる「退屈な話」。正気と狂気、その境界のあいまいさを突きつけて恐ろしい「六号病棟」。他に、「脱走者」「チフス」「アニュータ」「敵」「黒衣の僧」を収録。医者としてのチェーホフをテーマに編んだアンソロジー」Amazon商品説明より

 

 

 

 

 

 

 

「たいくつな話」は僕が最初に読んだチェーホフ作品で、坂口安吾を集中的に読んでいた当時に、このひとの年表だったかそれとも解説文だったかに触れられていて、手に取ったような感じだったように記憶している。講談社文芸文庫だった。こちらのほうでは解説が浦雅春だったように記憶しているが、この批評がたいへん優れたもので、チェーホフという作家じしんに興味がわいたということもかなりあったろう。いま読み返してみても、「退屈な話」とはこんな内容だったっけ、という感じでまったく記憶にないのだが、なにか言い知れぬものは受け取ったようで、そこからぽつぽつと短編集とかユモレスカとか、チェーホフ関連の評論とかを読み続けていったのだった。本書を読んだきっかけはむろん沼野充義の『チェーホフ』であって、そこでの「六号室」(本書では六号病棟)に興味をもったからである。なにしろ短い作品ばかりで、チェーホフ名義以前のものも含めると膨大な作品数になるし、戯曲も書いているから、ぜんたいとしてとっちらかっていて、網羅的に読もうとしたら事実上全集を読む以外ない。短編集という名のもと、訳者や編集の恣意で作品がまとめられるから、重複して読んでしまうこともしばしばある。でも、こんな感じで、多少重複しても、読みたいとおもったときに版元がなんであれとにかく手に入れてしまうのが、チェーホフにかんしては得策である。

本書でいえば、「医者としてのチェーホフ」をテーマに、医者は病院にかかわるはなしを集めたアンソロジーということになる。作家であると同時に生涯医者でありつづけ、さらに付け加えていえば、結核という病とも長いことつきあい続けたチェーホフであり、こうした視点はたしかに作家理解に欠かせない。事実、「退屈な話」も「六号病棟」もおそるべき傑作であり、「黒衣の僧」や「敵」など、しばらく忘れられないような印象深い作品も収められている。医業がテーマであり、病院が舞台であるなら、当然死のにおいも感じられるはずで、はなしとしては暗いものがほとんどになるが、チェーホフはこれらの作品も喜劇だと考えていたのだろうか。じゅうぶんありえるはなしだが・・・。

 

 

いくつかの作品を通して感じられるのは、医業という仕事の背負う権威というものの相対性だろうか。「退屈な話」ではこの権威性というものを究極に体現したような人物が主人公で、これがじつはぜんぜん人生を謳歌していない、うつろな毎日であり、このあたりに、虚無というより、やはりチェーホフの皮肉な笑い声が聞こえないでもない。

たとえば「六号病棟」では、主人公のアンドレイ・エフィームイチは医者で、若いころは真面目に野心的に働いていたが、あまりに荒れ果てた施設の状況と患者の数にやる気を失い、適当にいなす日々を続けている。田舎の無知蒙昧にうんざりした読書家で、この街にはまともに知的な会話をできる人間がひとりもいないと真剣に考えている。これが、ふとしたことで、六号病棟と呼ばれる、精神病患者を収容する別棟を訪れ、イワン・ドミートリチという、初めてそうした高尚な会話のできる(と博士が感じた)人物と出会い、足しげく通うようになるという筋書きである。イワンは社会的には狂人なので、先生はどうしちゃったのか、先生も狂っちゃったんじゃないのかと、周囲は当然そうなる。そして、それはやがて「事実」になる。沼野充義も指摘していたように、監獄とよく似たこの病棟にやがて先生じしんが収容されることになり、そして発作的に死んでしまうのである。

先生が“ほんとうに”狂ってしまったのか、あるいは、イワンは“ほんとうに”知的なのか、このことを問うのは、じっさいのところ非常に難しい。鬱々とした日々に狂人と話し合うことでなにかねじがとんでしまい、狂ってしまったと読んだとしても、まったく問題はない。おそらくチェーホフはそう読めというだろう。しかし同時に、ここでいう“ほんとう”とは、どこの、どの度量衡をもって計られるものなのか、読み手に判断がつかないように書かれているのである。病棟から出してくれ、とイワンは訴えかける。彼らの会話は、先生がいうほど、知的にスリリングという感じはしない。野蛮ではないという意味では思弁的ではあるのだけど、イワンが先生の意見を容れている様子はないし、意見を交換するというより、それぞれにおもうことをしゃべっているだけの感じだ。げんに「今度は自分がしゃべる番だ」みたいなことをいう場面もある(203頁)

そのイワンが、最初に先生と会ったときに、ここから出してくれと言い出す。じぶんはたしかに病気だ。でも外をうろついている連中だって病気だ。それどころか、道徳の観点からすれば、むしろじぶんより下等だと、こういうはなしである。なのになぜじぶんが贖罪の山羊のようにここにいなければならないのかと、このようにいう。これに、医師は応えるのである。

 

 

 

 

 

 

 

「道徳や理屈はこのばあい関係ありませんな。すべては偶然なんですよ。入れられた者はここにいる、入れられなかった者はうろついている、それだけのことですよ。わたしが医者で、あなたがたが精神病患者だということには、道徳も理屈もない、ただ単なる偶然にしか過ぎませんよ」183頁‐184頁

 

 

「なにしろ監獄や精神病院があるからには、誰かがその中に入っていなければならないのですよ。あなたでなければわたしが。わたしでなければほかの誰かが。時を待つんですな、遠い将来には監獄や精神病院そのものがなくなって、そうすりゃ窓の鉄格子も病人服もなくなるでしょうからね。もちろん、そういう時代は遅かれ早かれやって来ますよ」185頁‐186頁

 

 

 

 

 

なんというか、すごい理屈である。後半のほうが特にすごい。これは要するに、現在の社会のシステムは、善や正気を規定するために、悪や狂気を必要としている、というはなしである。システムとしてそうなのだからしょうがない。でも、弁証法的に世界がよくなっていけば、いつかそんな考え方もなくなって、世界は善と正気で満たされるはずであると、こういうはなしなのである。前部の偶然云々も、同じ考えから導かれている。重要なことはイワンが正気か狂気かということなのではない。システムが、狂人を求める。そしてたまたまそのように指名されたのがわたしではなくあなただったのだと、このようにいっているのだ。

このぶぶんにかんして、先生の発想にも一理あるとしてもよいかもしれない。しかし、いま目の前に外に出たがっている人間がいて、しかも先生じしんは正気か狂気かどっちでもいいと考えている状況で、こういうことをいうのは、なかなか、ひとの気持ちのわからない人物であるとしかいいようがないだろう。“偶然”狂人として選ばれなかったものとしての特権を、先生はまったく理解していないし、これらのセリフはすべて悪意も嫌味もなく、誠実に発声されたものなのである。

ふたりの哲学談義では、のちに人生の幸不幸にかんして、外部からくるか内部からくるか、というところがある。こんなところに閉じ込められて、人間的な生活なんかできない、不幸だというイワンに、先生は場所、つまり外部的なものなんて関係ない、とるにたらないものだという。じぶんが恵まれた状況にいることに、先生はまったく気づくことができないのである。だからこそ、イワンの状況をシステムのせいにすることができる。イワンからすれば、いまこの瞬間の耐えられない状況があるのであって、システムの整合性とか必然性とかはどうでもいい。そして、そういう感情が理解できれば、そうした原因についてさかしらに言い立てることもふつうはしない。しかし、みずから病棟に収められるまでその特権的立場を自覚することのできなかった先生は、それが自然の理であるというように、イワンの苦痛をぬきに構造を語って聞かせるのである。

ここには、チェーホフ作品全体に見られる、ひととひととの非対称性とか断絶とかが見て取れる。おそらく、医業をテーマにした本書に通奏してある、医者としての問題意識も含めると、解説で医者と患者が敵対関係となる「敵」をそうした問題提起の作品としてみているように、その非対称性を権威の側の蒙昧と受け取ることもできる。しかしやはりここには、チェーホフ独特のニヒリズムというか、例の喜劇問題につながる、作者の感性の遠さを感じ取ることができる。先生はイワンとだけは知的な議論ができると喜んで、不潔な病棟に通うわけだが、果たして、そこで議論は起こっているといえるのだろうか。イワンは最後まで先生を受け容れた様子はなかったし(収容された先生にざまあみろといわんばかりである)、やはりここには戯曲的なセリフとセリフの無機質なぶつかりあいのようなものだけがあったと考えられるのである。

ここでいう喜劇問題とは、どう読んでも悲劇としか読めない戯曲を、チェーホフじしんは喜劇と考えていたらしい、という難問である。おそらくこの問題は戯曲に限られることなのだが、小説にかんしても、チェーホフの同様のスタンスは感じられると僕は考える。それはひととひととの断絶であり、チェーホフに頻出するモチーフである「届かない手紙」である。よく引き合いに出すものだが、「創立記念日」という短編にはメルチュートキナという会話の成り立たないおばあさんが登場する。おばあさんにはおばあさん固有の地獄がある。しかしそれは伝わらない。傍目にはわけのわからないことを延々と喋り続ける不可解な人物でしかないのであり、それは物語としてスラップスティックな要素に変容する。戯曲のほうはあまりくわしくないので言及は避けたいが、チェーホフの代表作がそちらに多いのは、その創作法がこの点にかんして非常に有効であるからだと考えられる。小説における、会話文以外のいわゆる地の文には、当然語り手がおり、これは一般的に作品の世界観を統一的に解釈するものである。それが一人称小説であれば、語り手の世界観を経由して世界は一元的に語られるのであり、場合によっては、感情移入できる登場人物も出てくるかもしれない。しかし戯曲には通常地の文のような統一的な表現がない。せいぜい作者の指示が章の冒頭に示される程度で、それは楽譜でいえば発想標語みたいなものだ。ふつうは、そのぶん、その作品がじっさいにお芝居として上演されるとき、演出家や役者の解釈が入る余地を生むことになる。しかし、チェーホフではおそらく、戯曲はそのじてんで完成しているのだ。セリフは、チェーホフの考える「ひと」そのものとして個別に立ち上がり、金属的にぶつかりあって溶け合うことがない。そのさまがおそらく「喜劇」なのである。

 

 

チェーホフが29歳のときに書いたという「退屈な話」は、功成り名遂げたニコライ・ステパーノヴィチという解剖学者の物語である。勲章をたくさんもっていて、旅をすればそれが新聞に載り、誰もが顔を知っていて、あらゆることの評価を聞きたがるような、62歳の教授である。ニコライは自己診断でじぶんがもう長くないということを知っていて、それもあってか、人生のなにもかもにうんざりしている。とても29歳の青年が書いたとはおもえない粘着的かつ鮮明なうんざり具合であって、日々の生活のどういうところが具体的にどううんざりなのかを、微に入り細にうがって描きつくす。そのニコライが最後にたどりつく結論が、じぶんには「共通理念」というものがない、ということだった。じぶんの思想、感情、観念に、また科学や演劇や文学や大学での仕事などに一貫する理念を見出すことができないというのである。それらがばらばらに、そのときどきで機能するだけで、なにか核のようなもののペルソナ的な変容ですらないのである。ニコライの体現しているものは、権威的なものをとりあえずは目指して開始される市民的な生の、その動機の行き着く先だろう。もっとお金をもうけたいとか、誰をも睥睨する知性を身につけたいとか、偉くなって尊敬されたいとか、兆す程度にあるだけでもかまわない、生を駆動する原動力のようなものの、なにもかもを達成したのが、ニコライなのである(お金はないみたいだが)。いってみればシステム的な成功者である。じゅんばんとしては「退屈な話」は「六号病棟」より前になるが、システムがもたらす権威とそのことが剥奪する人間的自由にかんして、チェーホフの皮肉な態度は一貫していたともいえるかもしれない。「退屈な話」と「六号病棟」のあいだにはかのサハリン旅行がはさまれているので、チェーホフの考え方も大きく変わっている可能性もある。が、ただテクストとしてこれを読んだとき、外部の状況でころっと変わってしまう思想やその人物の抱えている世界観のようなものへの懐疑は、やはり見て取ることができるかもしれない。ニコライに権威を授けているのは社会である。社会が、ニコライを「高みにあるもの」と規定している。ニコライじしん、それを求めていままで努力を重ねてきた。けれども、死を前にしたいま、愛するものの訴えにさえ応えることのできない知性とは、いったいなんであろうか。けっきょくはそれも相対的なものであり、人間には絶対的なものを見出すことなどできないのではないか。「退屈な話」もやはりどこか暗いぶぶんがあるが、こうしてみると滑稽さを感じられないでもない。何者かであろうと、システムの要請するままに努め、そのすべてを達成し、システム的に究極の何者かであるはずの彼が、死を前にしてふと気づくと、何者でもないのである。

 

 

ところで本書の訳者は松下裕というひとで、ちくまの全集も担当されているようだが、なかなかの名文で、ところどころ日本語的な表現をちりばめることで翻訳文の平板な調子を回避している。しかし解説を読むと、なにか、僕の感想とはぜんぜんちがうものが書かれていて、ちょっとびっくりしてしまった。これは翻訳者やあるいは僕の問題ではなくて、たぶんチェーホフの特性によるものだろう。作品について話し合っても、あれってそんなはなしだったっけとなりかねないようなところが、チェーホフにはじっさいあるのだ。