『ファイナルリクエスト』日下一郎 | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

Final Re:Quest ファイナルリクエスト(1) (シリウスKC)/講談社
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全編にわたってドット絵で描かれた超特殊な漫画、それが『Final Re:Quest(ファイナルリクエスト)』である。

くわしいことは説明できないが、ドット絵というのは要はファミコンとかスーパーファミコンとかのような映像表現で、色のついた点の集合で色彩や濃淡のあらわしていくものをいうらしい。これまたなんのことか説明はつかないが、裏表紙などには8bitファンタジーなどとも書かれている。

なんでもないことのようだがこれを漫画作品として呈出するのは並大抵の労力ではないらしい。作者は日下一郎となっているが、製作協力として株式会社ヒューガというものも記載されている。1巻のカバー下には本編のネーム風のものが掲載されており、想像だが、たぶん日下一郎というひとがふつうに漫画を描くみたいにこうやってストーリーをつくり、それを会社がドット絵に表現しなおしているということではないかとおもわれる。

ファミコンやスーパーファミコンの、当時の工夫をこらした表現、そしてそれがもたらす、いまみるとおかしみの感じられる「あるある」が随所にちりばめられており、それだけでもスーファミ世代の僕には楽しいし、もう五年くらい上の世代ならもっとおもうところがあるにちがいない。セリフはすべて、なんというのか、ドラクエみたいな、四角い枠のなかにひらがなで書いたものになっていて、まるっきりRPGゲームの画面をいいところだけ抽出して漫画にしたみたいなものになっている。ちょうど最近、『ドラゴンクエスト名言集 しんでしまうとはなにごとだ!』という本が発売されて、たまたまそれを読んでいたのだけど、堀井雄二によればこんなセリフひとつとっても、いろいろな試行錯誤があるわけである。たとえば、うるさくなるから句読点はつかわない、鍵カッコは最初だけ、ぜんぶひらがななのでスペースをあけるのは自然として、妙な言い回しに見えてしまわないよう気を遣う・・・。こういうことまで、見たところ本書では忠実に再現されているのである。(有名な「へんじがない ただのしかばねのようだ」だが、「しかばね」としたのは、「したい」だと欲求をあらわす「~したい」にも見えてしまうから、という具合)

また、いまのゲームに馴染んでいるひとたちからすればうまく想像できないことかもしれないが、むかしのゲームはストーリーやキャラクターの実際の動きをかなりのぶぶんプレイヤーの想像が補っていた。ファミコンだと劇的な展開の際に挿入される別枠のムービーとかさえない。キャラクターにしても建物やマップにしても、全体に漂う雰囲気はいまよりずっとスタティックで、なにもかも手に入れたようないまのゲームでもこの感触だけはもう再現することはできないだろう。人物の表情にしても、ファミコンなんかでは、必要なときだけアップの、それなりにまともな絵柄になった人物の表情のパターンが複数用意され、使われる、というのがふつうだったが、そのパターン化された感情表現も、いまおもえばひどく静かなのである。本書では、ときどきふざけたように人物が表情豊かになることもあるが、基本的にはこの静的なパターンのセレクトという方法がとられていて、その感じもなつかしい。


 

さて、このようにして、この漫画はまずその方法が注目されがちであり、一見するとイロモノっぽいのだけど、ぜんぜんそうではないのがすばらしいところである。もちろん、ドット絵になっていることと作品の内容とは無関係ではない。つまり、奇を衒ったり、特定の世代におもねったりするわけではなく(とはいえドット絵をこれまでの生涯でいちども見たことがない、とかだとその意味を理解するのに時間はかかるかもしれないが)、必然性をもってそうなっているのだ。


 

おはなしは「ファイナルクエスト」というゲームがエンディングをむかえたところからはじまる。勇者タケルと、老戦士アソンテをはじめとした7人の仲間が魔王を倒し、凱旋帰国したタケルとロロラ姫が結婚したような画面のところで、「Fin」となってゲームは終了する。しかし、モノクロの停止した画面のなかで、アソンテだけが目覚める。魔王とのたたかいからどれくらいの時間がたったのかわからない。まわりにいる姫や王は石のようにかたまって返事がなく、時間もとまっているような感じだ。そして、肝心のタケルの姿がない。タケルを探して外に出たアソンテは、バグにより崩壊しつつある世界を目撃することになる。

タケルを見つけよう、タケルならこの異状事態のことがなにかわかるかもしれない、そうしてアソンテは再び旅立つ。しかし世界はバグにおかされて混沌をきわめている。たとえていうなら、友達がファミコンやスーファミの本体をうっかり蹴っ飛ばしてしまったときのあの画面の状態である。そんななかを、アソンテは旅していく。

いうまでもなく、タケルというのは、「わたしたち」のことである。ゲームの世界の人間には、ゲームのなかが世界のすべてではあるが、聖職者などは、物語のはじまりを告げたり、進行のセーブなどをすることもあるためか、「リ・アル」という、わたしたちの住む「こちら側」の世界についての認識が多少はあるようであるが、基本的には、ドット絵だろうが「強制イベント」などという理不尽なルールであろうが、彼らにとってはそれがすべてであり、生きる地面なのだ。2巻の帯に、よゐこ・有野晋哉はこう書いている。



 

「『ラスボスをやっつけた!次のゲームやろー!』 そんな腑抜けた事をして来た人らは読むべき物語。勿論、僕もだ」



 

わたしたちがクリアして、達成感のまま放擲し、忘れてしまったゲームの世界。しかしその世界では、いまも物語が続いていて、人々は生きている。しかし、未だに謎が多く、「バグ」の意味するところも不明ではあるのだが、おそらくプレイヤーが、勇者タケルの不在が、世界を崩壊させつつある。本作はそんな世界の謎を解いていこうとするアソンテたちの物語なのである。

形式だけ見ると、本書には先行する作品がたくさんあるだろう。たとえば僕は映画のネバーエンディングストーリーを連想したし、短編だが、高橋源一郎の「さよならクリストファー・ロビン 」なんかもあたまに浮かんだ。本を読む習慣を失い、ファンタジーを内面に育むことを忘れた現代人のなかに、ファンタージェンのような世界は息をすることができない。その世界について想像し、言及するものがいなくなって、やがてどちらの世界も「虚無」におおわれて崩壊していってしまう。「さよならクリストファー・ロビン」では、物語を記述するものがいなくなってしまったために、やむを得ず、ファンタジーの世界の住人たちがみずから物語を書いていく。が、ひとり、またひとりとちからつきてしまう、そういうおはなしだった。おもえば本作はそれと同様である。プレイするもの、それを見て楽しむものがいなければ、ファンタジーの世界は成立できない。物語の第一の読者は、それを記した作者本人である。だから、原理的には、どのようなテクストにも必ずひとりは読者がいることになる。しかしもし、その作者さえも存在を忘れてしまったら。想像され、そのなかで展開するときだけ生き生きと動き出すファンタジーは、読者やプレイヤーなしでどうなってしまうのか。ファンタージェンや高橋源一郎の世界ではそれは「虚無」だったが、「ファイナルリクエスト」では、世界を崩壊させるものは「バグ」なのである。

たとえばこうした物語を通して、くまのプーやアソンテに感情移入し、本を読まなきゃ、古いゲームをしなきゃと考えることはまちがいではないが、問題なのはアソンテたちにとってはその世界だけがたしかにそこにある真実だということである。映画マトリックスが示唆したように、現実世界が仮想世界だと判明したとき、見えてくるものは「真理」ではない。ある世界が仮想のものであると判明した結果は、そう語るその文脈もまたそうであるという可能性も同時に含むことになるのである。すなわち、わたしたちは真理(現実世界)に近づくほどにそこから遠ざかる。

そして、その世界を想像するもの、プレイするもの、ネバーエンディングストーリーでいえばその本の読者、ゲームでいえばプレイヤー、こうしたものの不在は、つまり神の不在だ。なにしろ、これらの世界は、読者やプレイヤーが目を背ければ存在することをやめてしまうのだし、いらないといえばゴミ箱行きになってしまうようなものなのだ。読者/プレイヤーは、わがままをとおせるという意味合いにおいてこの世界の全権能をもっているのである。つまり、アソンテたちは、神のいない世界、「ぜったいにこれだけは正しいといえる真理」のない世界でどうやって生きていくのかということを冒険を通じて示そうとしているのである。そんな物語が熱いものにならないはずがない。なぜなら、ゲームのプレイを通じて、先述したとおり、わたしたちは真理などないということを知っているからである。ドット絵を通じてわきあがるなつかしさが、わたしたちにそれをつきつける。わたしたちはこの世界を知っている。ファイナルリクエストは架空のゲームであり、プレイヤーとしてコミットすることはできず、神としてアソンテたちを救うこともできないということが、同時にこの感触を強くする。わたしたちは、神のいない世界で神を探究し、その過程になにかを発見し、どうにか生きていく以外に世界を保持するすべをもたないのである。


 

アソンテは旅を続けて、かつての仲間たちを少しずつ見つけていく。とりわけ2巻もおしまいからの、時間もなにもかもバグったかのような展開は圧倒的で、こわいほどだ。何度読んでも、ほとんどなにが起こっているのかわからないのに、なにか原始的なこわさを感じる。それは、翻弄されるアソンテたち、翻弄されていることに気づきかけつつも原理的に全貌を把握することのできない彼らに感情移入してしまっているからだろう。4巻の展開が楽しみすぎる。




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