今週の闇金ウシジマくん/第367話 | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

第367話/ヤクザくん⑭






家守が脅していたホストの情報をもとに、久米原という男の家に泥棒に入る井森たち4人。久米原は裏風俗を経営しており、オモテに出せない金を5000万ほど愛人の家に隠しているというはなしだ。その愛人がいま韓国に里帰りしているということで、いまがチャンスというわけである。


最若手の最上は車に残り、井森、家守、獏木が家に侵入する。リビングを物色していた家守は背後に気配を感じる。侵入したときには見えなかったが、ソファーに人のかたちをした毛布のふくらみがあるのだ。どう見てもひとが隠れているように見えるが、家守は毛布をはがすことはせず、黙ってバールで毛布をつっつく。そして反応がないのを見て、次に思い切りそれを振り下ろす。毛布のなかにいる久米原とおもわれる男は震えながら必死に耐え、寝たふりを続けている。顔を見たら、殺される。家守としても、顔を見られたら、殺さねばならない。久米原にだってきっとヤクザかそれに類するケツモチがいるだろう。下手すると外国人かもしれない。だとしたら、顔を見られたら生かしておくわけにはいかなくなる。とはいっても家守だって、抗争中の組員とかならともかく、じぶんのミスの延長で、ほんらいやらなくてもよい殺人を犯したくはないだろう。この久米原の「寝たふり」は、じぶんは無抵抗であり、金を持っていかれることについて文句をいうつもりはないというサインである。家守としても、思い切り凶器で叩いて反応がないのだから、これでタテマエ上ひとはいないと見做すことができる。裏業界、というより、なにかじつにヤクザくん的な「タテマエ」重視のやりとりだとおもう。ここには、ヤクザくん的にいえば誰もいないのであり、久米原としてもそれについては異論はないわけである。殺されたくないから。いないんだから、バールで叩かれても声が出てくるはずはないのである。

暴力の衝動を満たして興奮したか、息をあらげた家守はマスクをはいで声まで出している。まあ「寝たフリ」は、そうしたことも含めて「あなたにはかかわりません」というサインだから、それを手掛かりにどうこうということはないだろうが、ちょっと油断しすぎな気もする。


家守がそんなことして遊んでいるあいだに、井森はさっさと作業を進めてついにぎっしり金の入ったかばんを発見する。獏木は前回見つけた拳銃をしっかり手にしている。ヤクザなら誰でももってるというものでもないのだろう。ホンモノの銃を見るのははじめてっぽい。獏木はとりあえずそれをどこかにしまう。対丑嶋や肉蝮に使うときがくるだろうか。


そこへ誰かがやってくる。ふつうに呼び鈴を鳴らし、ドアをがちゃがちゃさせている。この家の主である愛人の女性が帰ってきたのだ。カギはあるのでドアは開くが、チェーンの内鍵がされているので入れないのだ。彼女は久米原のことをチャギャと呼ぶ。ダーリンみたいなもので、韓国語で恋人を呼ぶときのことばらしい。

3人は大慌てである。もともと見つからなくても5分で出ることになっていたが、誰かがやってくるとはおもいもしていなかったのだろう。それに、金、久米原、銃という具合に、各自緊張させるものと対峙している瞬間でもあった。「わっ!!!」「わっ!!!」と連呼しながらマスクをつけたガタイのいい男たちが窓から逃走する。女には見られていないっぽい。車に到着した家守はあわてすぎて運転席に待機していた最上のうえに座っちゃったりしている。井森が「全員で運転席乗ってどーすんだ!」と真顔でつっこむ。しかしまあ、あわてていたのもあるが、家守らしいという感じもする。あわてて最上が待機していることを忘れてしまっているのに加えて、ここには若干じぶんだけで逃げようとしているような気配も感じられる。家守はたぶんそういうやつだよな。


車内で家守はくだんのホストに電話でキレている。愛人の里帰りの日程が急に変わったらしい。それをホストはすぐに伝えなかったのだ。ひょっとするとわざと伝えなかった可能性もあるが、そうすればうらみを買うことになるし、あとあとこわい。家守はホストから情報を受け取ったが、強盗にいくとはいってなかったんじゃないのか。それならホストのほうでもいちいち日程の変更を伝えようとはしないだろうし。どちらにしてもただではすまないだろうなぁ・・・。


どこかの広い駐車場で4人は車をおり、獏木が近くのマンションから盗んできた消火器で車内を真っ白にする。完全に証拠がなくなるそうだ。そういうもんか。しかし髪の毛とかはどうなんだろう・・・。へんに偽装しないで遠くに乗り捨てるだけのほうがいいような気もしないでもない。これでは「犯罪に使用しました」といっているようなものではないか。

変装用具の類はまとめて焼却。べつの場所だろうか、金の入ったケースを引きずって井森家守が会うのはハブなのだった。





つづく。





今回の強盗はハブの指示したものだったか。前回、この強盗は井森家守の発案で、ハブと対等になるために必要な金を手に入れるべく計画されたのではないかと推測したが、そうではなかった。とするなら、井森家守の反抗の芽はあのスリングショットで完全につまれてしまったのだろう。編集の煽りでも、この件でハブ一派が絆を取り戻しつつあると解釈されている。とはいえ、くどいようだが、それは暴力による恐怖支配であって、滑皮が梶尾たちにもたらしているもの、また熊倉が以前まで滑皮にもたらしていたものとは異なっている。もちろん、ヤクザ社会だから、わたしたちがふつうの職場を背景にして想像するようなものとは全然異なり、原則として暴力が最小単位であることにはちがいないだろうが、ひとことでいえば、梶尾たちが憧れから滑皮のひそみに倣うのに対し、井森たちはただ屈服するのである。それを絆と呼んでもべつにかまわないわけだが、ハブ一派の内側にあるあこがれによく似た視線は、じつはその場所にとってかわりたいという欲望の波動なのだ。上下関係を前提とし、暴力のもたらす恐怖とか痛みとか、その他心理的ダメージや威圧感などで相手を屈服させてしまうということは、ハブみずから暴力による支配が可能であることを示してしまったことになる。だとするなら、計画通り井森が上に金を積んで上下関係を解消し、暴力によってハブを圧倒しても、ハブじしんがそれに同意してしまっているのだから、「それはおかしい」と申し立てることはできなくなる。社会契約以前の普遍闘争の状態に等しいわけである。組織としてはかなり非合理的で、エゴイスティックないかにも刹那的なものなわけである。


井森家守が予想外にあっさり折れてしまったのでわからなくなってきたが、しかし家守の今回の描写を見ると、やはりこころの底ではこうした人間の自然状態的なものは、彼らのなかにまだくすぶっているのではないかとおもわれる。バールで久米原を叩き、息をあらげて笑う場面だけで大きなコマをふたつもつかっているのである。これはなんなのだろうか。家守は、ぼこぼこ叩いてもまったく反応せず、震えたままでいる久米原に非常に満足している様子である。それは、計画とはかんけいない。たぶん、ひと一人がじぶんに完全に屈服し、存在をないものとしようとしていることにある意味では感動しているのである。なぜ久米原が毛布にくるまったまま動かないかというと、もちろんこわいからである。久米原としては当然、顔を見たら殺されると考える。相手がテキサス・チェーンソーだったら顔を見ようと見まいとかんけいないが、犯罪者であっても精神疾患のないふつうの神経なら、すすんで殺そうとはしないはずである。というか、久米原にはそのほうに賭けるほかない。わたしはいまあなたの存在におびえています、殺されるんじゃないかと震えています、顔を見ようとはしませんし、というかあなたたちの存在も認識していません、なので見逃してくださいと、久米原は「明らかに起きている寝たふり」を通してサインを送っているのである。これをことばにして送ることはできない。誰にもいわないから、あるいは顔を見ていないから見逃してくれと、くちに出していうことはできない。くちに出した音声で家守の鼓膜を震わすためには久米原はそこに「存在」しなくてはならないからである。しかし「存在」していては殺される(かもしれない)、というわけで、久米原は「寝たフリ」をするのである。

もちろん家守もこうした久米原の機微を読み取ったはずである。そして、それが最高に心地よいのである。このときに、家守が、スリングショットを通してじぶんたちを屈服させたハブの立ち位置を先取りして感情移入している可能性は否定できまい。じぶんたちを不自由に束縛するハブという男の位置が心地よいものだということを、家守は無意識に再確認しているのである。


この、現実にはどうであるかとは無関係に、建前でどうなっているかを重視する思考法はいかにもヤクザという感じで、帝国陸軍の員数主義的なものからつながる日本独自の思考法という感じがする。滑皮の場合は「言質をとる」というふうにそれは変形して表出しているようにおもえる。たとえばヤクザくんの最初のほうの段階で、丑嶋に銃を預けようというとき、ウサギとベンチプレスしかないという丑嶋の言葉を受けて、じゃあ銃を置く場所もあるな、という具合に、かってにはなしを広げていくのである。家にウサギとベンチプレスしかないはずがない。冷蔵庫もあるし椅子やテーブルもあるし、パソコンやプレステ4だってあるだろう。ケトルベルやサンドバッグやダンベルや懸垂用のバーだってあるにちがいない。要するに丑嶋のことばは「表現」である。しかし滑皮のヤクザ的言語運用はこれを事実として受け止め、では場所はあるということになる。両者に共通していることは、「愚鈍なふりをする」ということである。ふつうに会話をしていても、その内容から掬すことのできる情報量には個人差がある。当たり前社会生活を営むうえでは、重要なことは相手の想像力に依存せず、しっかりことばにするものだが、しかし想像力というものは至るところで働いている。たとえば、ダイエットのサプリメントのCMで、芸能人がその効果のほどを力説するとき、だからといって全員に同じような効果が100%確実にあらわれるとはふつう考えないわけである。いわなくてもそれくらいのことはわかる。けれども、ヤクザくん的発想ではそうはならない。おもえばこの建前主義というか員数主義というのは、クレーマーと同質の発想なのだ。アイスクリームをレンジでチンしたら溶けてなくなってしまう。そんなことは誰でもわかる。だからどこにも書いてない。書いてないし、販売するにあたって店員からの説明もない。だとするなら、ヤクザくん的には説明不足なのである。ヤクザくん的、またはクレーマー(くん)的発想法というものは、ひとが社会生活を営むうえで常識としている事柄を、具体化されていないという点で無視し、表面に見えている物事だけで論理を組み立てるものなのである。そういうことになった原因のひとつとしては、明文化されているものについては有効に権利を行使できるいっぽうで、そうでないものについては公的機関も無力であるということが習慣的に一般化してしまったからかもしれない。この件については深入りしないが、ふつうのコンビニなどの販売店とかだと、責任者不在で経験不足のバイトばかりという状況が当たり前になってきて、「法典」、つまりマニュアルがそのまま責任者のかわりを果たすようなことが増えてきたことがかかわっているだろう。法典がちからを過剰に増していくほど、逆に書きこぼしていることにかんしては無力になっていく。あるいは今日の憲法の議論にもつながっていくことかもしれないが、たぶんそういう背景があるのだろう。知らんけど。


山本七平の本などを読むとわかるが、戦中の帝国陸軍でも同様の思考法が員数主義として見られていた。が、今回話題にしているものとは少し異なっているかもしれない。つまりここでいう員数主義というのは、たとえば戦闘機が50機必要だということになって、確認せよという指令があったはいいが、47機しかなかった、そういうところで、3機たりないとは報告せず、故障したものまで含めて50機ありますと報告してしまうような、「建前」に「現実」のほうを合わせてしまうような非合理的な態度のことである。これはきわめて日本的な思考法で、わたしたちじしんの社会生活でもどこか思い当たるぶぶんがないだろうか。

ヤクザくんのばあいは、彼らがそういう思考法をしているというよりも、こう見ると、彼らがその暴力性で、他人にそうした思考法を強制する、といったほうが正しいだろうか。つまりうえの戦闘機の例でいうと、その指令官が下級将校にむかって指示を出しつつ、こたえを待たずに「50機あるよな? な?」とまくしたてるようなことである。まさしくヤクザ的な言質のとりかたで、その話法にすすんで参加して生き延びようとする久米原も、生粋の裏稼業というところだろうか。そして家守はヤクザくんの正しい文法で久米原を屈服させ、おそらく意識のどこかにハブへの不満を未だためつつあるのだ。





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