すっぴんマスター

(※注:ゲーム攻略サイトではありません)読んだ小説などについて、かってにべらべらしゃべってます。基本ネタバレしてますので、注意。異論反論、論理的矛盾、誤った知識などありましたら、コメントにて指摘していただけるとうれしいです。


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■『老いるということ』黒井千次著 講談社現代新書



老いるということ (講談社現代新書)/黒井 千次
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「老いを正面から我が身に引き受けることこそが、生の道程の最後に現れる課題であるに違いありません。人は果して老いることに自足出来るものなのか。老いることの中には何が隠されているのか。老いの泉、とでも呼びたいような澄んだ水脈が年齢の地下深くを走っていることはないだろうか。老いの歓びは存在し得ないのだろうか―。その重い宿題を、先人達の遺した足跡を手がかりにして少しでも解いてみることが出来れば、と考えています。―本文より」



2006年、NHKラジオ第二放送「こころをよむ」シリーズ中、著者が講師を務めた第十三回「老いるということ」に先立って作成されたテキストを加筆・修正したもの。どんな種類のひとがこの番組を聞いていたのかはわからないけど、たぶん同様にNHKの「視点・論点」みたいなバイブスだったんじゃないかと勝手に想像します。あの番組のひどく寂漠とした様子、世界中の誰も見てないものをいまおれは見てるという直覚をおもえば、ラジオという、より孤独な媒体はむしろ正しいのかも。

とはいえ、小説家でもある黒井千次は教師みたいな見た目通り真面目な人間らしく、「老い」について書かれ、考えられたさまざまな作品をかんたんに紹介しながら時間の制約のためにきれいすぎるくらいコンパクトにまとめようとしている感じはたしかにあるけど、通してある、老いそれじたいに正面から立ち向かい、考え抜く(というほどに熟考しているわけではありません。ラジオ・新書という性格上)という姿勢は尊重されるべきものであり、逆にいえばここまで幅広くさまざまの文献を引用・参考にしながら、番組でいえば各章40分、ページ数でいってもせいぜい20ページくらいに凝縮させてあるのは、まさにプロの仕事というものでしょう。くりかえしますが媒体の性格上、あまりに深い考察は意図的に回避されているため、さらっとした“新書”という印象はどうしても拭えないけど、それでもあらたに「老い」について考える機会を不特定のひとびとに与えるというこの書物の役目はじゅうぶんに果たされているし、手引書と考えればこのさらっとした読み応えもむしろ必然なのかなとかおもいます。

完全に余談なんだけど、この黒井千次って作家が、大学の英語の先生にそっくりで…。ぜんぜん出席していなかったから試験後に“お願い”しにいったことがあって、まあレポートを書くことで結局単位はくれたのですが、おそらくは彼が普段から抱いていたにちがいないいわゆる“大学生”というもの一般に対する憤慨みたいなものがふつふつと感じられて、いや、まちがいなく僕は「大学生と書いてバカと読む」の典型だったからひとことの反論もないのですが、とにかく文芸誌かなんかで黒井千次の写真を見るたびにあのときの居心地の悪さが蘇り、憂鬱な気分になってしまうので、たぶんそういうこともあってよけいこのひとが“先生”に見えてしまうんだろうな…。


閑話休題。



多角的に老いを観察しながら、その観察じたいについて著者が考える姿勢は明確です。あちこちに書かれているからどこでも良いのだけど、こんな感じ。


「我々は初めて自分の老いの兆候に出会った時には衝撃を受けます。それに気づかぬ振りをしてなんとかやり過そうとしたり、気のせいにしてその兆候を否定しようとしたり、またはむきになって体力維持の運動に励んだりしがちですが、本当はそれではただ老いから逃げていることにしかならないのではありますまいか。そこに何があるかはわからぬままにでも、老いの実体に正面から立ち向かい、『老年の豊富さ』を模索する意志を抱き続けることが必要であるに違いない」
第11章―老いる意志より



以前はたやすくできたことができなくなるということは大変に辛い事実だし、死が迫っていることがかたちをともなってあらわれてくるようで、想像しただけでも虚無的な気分になってくる。それに抗するように若作りをし、若さを保とうと努力するのも、だからそれはそれでけっこうだろう。しかしそれは同時に老いから逃げていることになるのではないか。「あの年齢なのにあのように若い」ではなく、その「老い」それじたいにこそ、これまでの年月の堆積がもたらすなにかがあるのではないか。著者が通して保つ「老い」に対する姿勢は端的にいってこういうことです。この出発点にもとづいて、古代ローマのキケローからはじまり、老いについて書かれたさまざまな人物・時代における小説や随筆の引用により、「老い」は多面的に、そして非常に慎重に観察されていく。

もちろんこの問題にこたえはないのだが、それでも、「老年」というものはそれだけで取り出して考えることのできるものではなく、少年が成人し、壮年となり、さらにそのさきにある生の“部分”としてあるものらしいということはわかってくる。ある日突然空から「老い」が降ってくるのではなく、徐々に姿をあらわしていくものだと、終章で筆者は書いている。生にある人間は、じつはすべて潜在的に老いているのだ。とすれば「老い」はなにもすでに「老い」ているにんげんだけの課題ではない。僕ら若い世代への宿題でもあるようだ。まだ老いていない、若いからいいとか、考えたくないとかは、じつは「老い」から逃げて若返ろうとする老人の行為と変わらないのかもしれない。



「老いるということは、どこかに到達することではなく、延々と老い続けることであり、老い続けるとは生き続けることに他なりません。したがって、その各瞬間は老いる前と少しも変わらない。違うとしたら、各瞬間の下に無数の瞬間が分厚く堆積している点だけでしょう」
第14章―老いのまとめより


「老いる」とは「老い続ける」ことだ―、か…。じぶんはこんなふうに自覚的になれるだろうか?このちょっと前にはこう書かれています。



「ただ、多くの歳月を時間として積み重ねて来た、というだけでは、その静かな声や穏やかな物音には触れられないでしょう。老いへと進む一瞬一瞬を、それこそじたばたと思い惑い、足を踏み外したり転んだりしながらもひたすらに生きた歳月となし得た者だけが、ようやく老いの贈り物を手にすることが出来るのだ、と思うのです」



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