【書籍】日本レスリングの物語 ①
(ーAー)◎
『日本レスリングの物語』
柳澤健 著
*男子グロコローマン(60㎏級)松本隆太郎…3位
*男子フリースタイル(55㎏級)湯元進一…3位
(66㎏級)米満達弘…優勝
*女子(48㎏級)小原日登美…優勝
(55㎏級)吉田沙保里…優勝
(63㎏級)伊調馨…優勝
…今年8月のロンドン・オリンピックで男女合わせて4つの金メダルと2つの銅メダルを獲得した日本レスリング
かつては「日本のお家芸」と言われ、近年は女子レスリングを中心に再び勢いづいて来た感のある日本レスリングの、黎明期から現在までの無数のドラマと多様な人物を網羅し、描ききった力作が本書『日本レスリングの物語』です
著者は傑作ノンフィクション『1976年のアントニオ猪木』で名を馳せ、その後インタビュー集『1993の女子プロレス』で往年の女子プロレスの真実をあぶり出し、『1985年のクラッシュ・ギャルズ』でクラッシュ・ギャルズの真実と苦悩に迫った、ノンフィクション作家の柳澤健
『Fight & Life』vol.03~vol.17にて連載されたものに大幅な加筆を行って単行本化された一冊です
これまで私が読んだ柳澤氏の著作は、いずれもプロレス関連の書籍だったわけですが…
その徹底した取材力と構成力の素晴らしさにすっかりファンになっちゃいまして(笑)、また本作の「レスリング」はアマチュア・レスリングの事ですが、格闘技全般に興味がある私としては充分にソソる題材…
迷う事なくAmazonに注文したわけです
(ーAー)いや…
「街の本屋さんで買ってあげたい」という思いも根強いので、近場の本屋にあればそこで買うんですけど…
最近は一応本屋さんチェックして、無ければAmazonに注文…というパターンなんですよ
(ーAー)閑話休題
日本のレスリングの歴史が網羅された本作ですが、決して出来事のみを淡々と記したわけではなく、その時代時代の主要人物の内面にまで迫ったような“群像劇”となっていて、長年に渡る大河小説のような面白さと読み応えがあります
アマチュアというと、何となく地味なイメージがありますし、これまでのプロレス関連の著作に較べてマイナーな感じもしてしまいますが…
そんな事はありません。読めば分かります。
ワクワクしながらページを読み進めた私が言うんだから間違いないです(笑)
何が面白いかって…日本レスリングの確立や発展、巻き返しなどに尽力した登場人物たちが、それぞれ実に魅力的なんですよ
“日本レスリングの父”と謳われる八田一朗、世界中の関係者・専門家から絶賛された強さを誇った“偉大なる王者”笹原正三、突如出現した“スーパースター”高田裕司、レスリングにとどまらず現在の日本スポーツ界を引っ張る類い希なリーダー・福田富昭、その他有名無名の選手や関係者……
そうした登場人物たちの苦悩と歓喜のドラマが、連綿と受け継がれていく物語です
■最初に興味深かったのは「日本のアマチュア・レスリングが始まったきっかけは“プロレス”だった」という事です
1921年(大正10年)3月に靖国神社で行われた、米国からやってきたプロレスラーのアド・サンテルと早稲田大学柔道部の庄司彦雄が闘った“プロレスvs柔道”の異種格闘技戦こそが、全ての始まりでした。
柔道衣をつけた闘いであったにも関わらず、サンテルに圧倒された庄司(結果は引き分け)は、サンテルを追うようにアメリカに渡り、柔道の普及にあたる一方でプロレスのリングにも上がり、興行の仕組みなどを学びます。
帰国後、早稲田大学レスリング部を創設した庄司は、オリンピック種目であるレスリングへの本格的挑戦をアピール…
昭和6年に開催された日本初のアマレス大会は、3本ロープのリングで行われ、柔道部員と相撲部員を集めた“プロレスルールのリアルファイト”でした
…試合内容はお粗末で、観客も全く理解出来なかったらしいですが。
庄司はこのようにプロレスとアマレスがゴッチャになった形でレスリングを日本に持ってきたわけですけど…オリンピックという舞台で世界チャンピオンになる事が目標であり、日本にレスリングを根付かせる事が目的でした。
庄司は早稲田大学柔道部の後輩にレスリングの可能性について語り、その話に興味を抱いて本格的に取り組もうと決意したのが、“日本レスリングの父”と謳われる事になる八田一朗だったのです
八田は裕福な家庭のお坊ちゃんだった事もあり、即座に本場ヨーロッパに視察旅行に出掛けます。
ロンドンで“スモール・タニ”と渾名された柔術家・谷幸雄と出会い、谷からレスリングの技や柔道技からの応用方法を学び、英国レスリング界の大物たちを紹介されて人脈を築きます。
帰国した八田はレスリングの普及に努めていきますが、このオリンピック競技を早稲田大学に独占させまいと考えたのが…柔道の家元・講道館でした……
(ーAー)といった感じで
創世記に「柔道の高段者であれば問題なく勝てる」と考えた講道館と、「柔道は確かに応用出来るが、レスリングは全く別競技である」と考える八田一朗ら早稲田大学の主導権争いが勃発したんですね
その講道館と早稲田大学の対立は、講道館が肩入れして設立された専修大学レスリング部と八田一朗(早稲田大学)との対立という構図になり、後々まで争う事になるのです……
(ーAー)えーと…
こんな感じで紹介してくと大変な事になりそうなので、ザァーッと行きますね(←逃げ)
八田一朗の悲願であったオリンピックでの金メダル獲得、そして東京オリンピック(1964年)での大勝利など…戦績だけを追っていけば、順風満帆のように見えますが、その裏側では金策に奔走したり、関係者の間での勢力争い・権力争い、さらには国際情勢などの政治問題まで絡んで、日本レスリング界は翻弄されていくんですね。
この辺の、選手が勝った負けただけにとどまらない、レスリング界そのものの“物語”が、実に面白く、感動的ですらあります。
■“史上最高のフリースタイル・レスラー”笹原正三
中央大学レスリング部に入部した笹原は、選手層の厚かった同大で先輩たちを抜いてレギュラーになる事は出来なかったものの、腐らず練習を続け、最上級生になると主将に任命されました。
全日本学生選手権、全日本選手権を制した笹原は、卒業後アメリカに遠征し、日本人初の全米選手権優勝を成し遂げます。
そして帰国後まもなく東京で初開催された世界選手権(1954年)でも優勝を果たします。
笹原はソ連、イラン、トルコなどの強豪国への遠征にも積極的に参加し、無敗を誇り…
世界各国から研究されたにも関わらず、それを上回る研究と鍛錬を重ね…
1956年11月、メルボルン・オリンピックでフリースタイル・フェザー級の金メダルを獲得しました。
このメルボルンでは日本チームとしても大成功と言える成績を収めましたが…世界中の専門家は笹原正三の強さばかりを絶賛したそうです。
…急速な技術革新が進む中、世界各国から研究し尽くされたにも関わらず、敵地に乗り込んで完勝した偉大なるチャンピオンとして
柳澤氏はこう記します。
「笹原正三は世界に初めて誕生した、完全無欠のフリースタイル・レスラーだった。」
そんな笹原の価値を誰よりも認めたのが、アメリカでした。
笹原はコーチとしてアメリカに招待され、大学や軍を回って半年間セミナーを開きました。
さらに1960年のローマ・オリンピックのアメリカ代表監督を任されたジョン・C・マンデルに依頼され、英文による技術書の執筆まで行いました
その技術書はその後も改訂版や写真を抜き出したバージョンなどが何度も発売され、世界中で読まれたとか
(ーAー)柳澤氏は言います
「日本は優れたスポーツマンを数多く生み出してきた。しかし、柔道ならいざ知らず、外国で生まれたスポーツの技術書を執筆し、その本が世界中で読まれた日本人など笹原正三以外にひとりでもいるのだろうか」
(ーAー)これは私も含めてですが…
日本人はあまりにもこの笹原正三という偉大な選手の事を知らなすぎますよね
笹原正三の素晴らしさを知る事が出来ただけでも、この本を読んだ甲斐がありました
…てか、お釣りが来ましたよ
(ーAー)この笹原正三の章に絡めて
世界のレスリングの発祥から発展などの紹介がされてまして…
歴史を知る上でも実に興味深かったです♪
戦場での組み討ちに起源を発し、“見世物”として上流階級を楽しませ、それが観客ありきのプロレスと競技としてのアマレスに分かれて、それぞれ進化していく……
(ーAー)浪漫ですなぁ
■レスリングの歴史においては、政治の介入という部分も大きく影響してきました。
第二次世界大戦後、世界はアメリカを中心とする西側諸国とソ連を中心とする東側諸国の冷戦状態となり…様々な分野において競争を繰り広げました。
それはスポーツにおいても例外ではなく、特にオリンピックという舞台は「戦争の代償行為」でもありました。
レスリングにおけるメダル獲得競争でソ連の後塵を拝したアメリカは、自国に有利になるようにルール改正を進言したり、ソ連にかなわなかったフリースタイルを廃止しようとしてみたり、なんかメチャクチャやってるんですけど(笑)、それはまだかわいい方なんですね、ある意味。
レスリングに全てを賭けて取り組んできた選手にとって、最大の目標がオリンピックであり、それを自分の実力以外の外的要素で取り上げられてしまう事は、なんともやりきれません。
それが実際に起きてしまったのが、1980年のモスクワ・オリンピックでした…
米ソ冷戦真っ只中、アメリカを初めとする西側諸国が参加をボイコットした、あのオリンピックです。
プロレスファンにとっては、後にプロレスラーとなった谷津嘉章が「モスクワに出てればメダル確実」と言われていたという話が有名ですが…
本書で取り上げられている“日本のモスクワ五輪ボイコットの最大の被害者”が、モントリオール・オリンピック金メダリスト、高田裕司です。
(ーAー)y-~~
テレビの普及が進み、スポーツはブラウン管を通じて世界中の人々が見るものとなりました。
それに伴い、レスリングも「見ていて飽きないもの」に変わらざるを得なかった。
*攻撃しようとしない選手にはパッシブ(消極的)の警告を与える
*試合時間の短縮
*円形マットを採用し、場内外の微妙な判定を減らす
…以上のようなルール改正からFILAが求める理想のレスラー像は、次のような条件を満たす者でした。
*一瞬も休む事なく、相手を常に攻撃し続ける事
*反撃のリスクを恐れず、多彩な技を駆使して攻撃する事
*意外性のある素早い動きで、見る者を退屈させない事
このように積極的に攻めていくという事は、それだけ相手に隙を突かれるリスクも大きくなるわけで、一瞬の隙が命取りになるレスリングにおいて、そんな選手はそうそう出現しないかと思われましたが…
その条件を満たす“新時代のレスラー”が、我が日本に現れたのです。
それが高田裕司でした
“カレッジ・レスリングの生ける伝説”上武洋次郎(東京オリンピック・フリースタイル・バンタム級金メダリストで、NCAA全米大学協会主催試合58戦全勝。全米学生選手権3連覇。全米のレスリング関係者に選ばれた'60年代最高選手)に鍛えられた高田は、'74年のイスタンブール世界選手権、'75年のミンスク世界選手権、そして'76年のモントリオール・オリンピック・フリースタイル・52㎏級と、3年連続世界チャンピオンとなりました。
翌年のローザンヌ世界選手権も制した高田でしたが、'78年のメキシコ世界選手権では日本のテレビカメラが見つめる中、敗北を喫します。
雪辱を期した高田は、メキシコ世界選手権で1階級上の57㎏級で優勝した富山英明と切磋琢磨し、'79年のサンディエゴ世界選手権で見事に王座を奪回…
翌年のモスクワ・オリンピックで自身の集大成に燃えていた高田でしたが…日本のボイコットにより「敵地ソ連に乗り込んでの五輪優勝」という“真の王者になる”夢を絶たれ…選手生活を一度は引退します。
(ーAー)このボイコットの時
本来であれば真っ向から反対し、多少強引な手段を使っても、何とかオリンピック参加を実現させるべく動いたであろう八田一朗は病床にありました…
オリンピックという大目標を取り上げられ、高田は引退、富山の負傷など日本レスリング界に虚ろな空気が漂う中…八田一朗は'83年、享年76歳で波乱の生涯、未来永劫語り継がれるべき足跡を残した人生の幕を閉じました
(ーAー)y-~~
'84年のロサンゼルス・オリンピックが近づき、高田裕司は現役復帰を果たしました。
富山英明も世界4連覇を続けるセルゲイ・ベログラゾフを倒して悲願の五輪金メダルを獲得すべく、燃えていました。
しかし、今度はソ連がロス五輪をボイコット…
またも政治に振り回された高田は、ソ連もブルガリアもいないオリンピックに参加しましたが、最大のライバルであるアナトリー・ベログラゾフ(セルゲイの弟で52㎏級の世界王者)が不在の大会に余裕を持ちすぎた(本人談)ためか…銅メダルに終わります。。。
一方、富山は57㎏級で見事金メダルを獲得しましたが…最大のライバル、セルゲイ・ベログラゾフとは闘えなかった。。。
その4年後のソウル・オリンピックはモントリオール以来12年ぶりの“本物のオリンピック”となりましたが、高田も富山もロス五輪を最後に引退していた……
東西冷戦という政治の問題で、高田も富山もその全盛期に、世界のライバルたちと真の意味で覇を競うという競技生活のクライマックスというべき舞台を取り上げられてしまった。という事ですよね
おそらく、ベログラゾフ兄弟を初めとする東側の選手、あるいはアメリカなどの西側諸国の選手だって、やりきれなかったでしょう。
4年に1度しかないオリンピック…
自身の全盛期に開かれたモスクワ五輪に、本人にはどうしようも出来ない事情で参加出来なかった…
富山はロス五輪で金メダルを獲得するという結果を残しましたが、高田のピークはきっとモスクワの時だった…
(ーAー)切ないですね……
(ーAー)えー…
実は本書を読み終えてから何ヶ月か経っちゃってまして…内容をまとめるどころか、つぎはぎだらけの抜粋みたいな文章ながら…なんとかかんとか下書きを完成させたんですが
どうやら、あまりに長文過ぎて何度やっても「投稿失敗」になっちゃったんですよ
なので、今回が①という事で…2回に分けて更新しま~す
(ーAー)y-~~エレエレ
八田一朗は代表選手に“徳川さん”の回数まで提出させて体調管理などを図ったそうですとAndroid携帯から投稿。…徳川夢声という有名な弁士がいましたね。分かるかな?ニヤニヤ