花矢倉展望台を後にした私たちは、そこから少し登ったところにある水分神社(みくまりじんじゃ)へと向かいました。
◇水分神社
水分神社(世界遺産『紀伊山地の霊場と参詣道』の構成資産の一部)は、水を司る天之水分大神(あまのみくまりおおみかみ)を主神とし、“みくまり”が“御子守(みこもり)”となまって、俗に小守さんと呼ばれるようになり、子宝の神として信仰されている神社です。
伝承によると、豊臣秀吉が文禄3年(1594年)に吉野山で花見をした際、水分神社に祈願したことで、豊臣秀頼を授かり、そのお礼として、豊臣秀吉が慶長3年(1598年)に再建の工を起こし、秀吉亡き後、豊臣秀頼がその遺志を継ぎ、再建されたとされているのですが、実は、豊臣秀頼が生まれたのは文禄2年8月3日(1593年8月29日)なので、秀吉が水分神社に祈願したときに、既に秀頼は生まれていました。
豊臣秀吉は、側室南殿との間に石松丸(長男)、側室淀殿との間に鶴松(次男)を儲けていましたが、いずれも早逝していたため、淀殿との間に生まれた三男の拾丸(ひろいまる)が早逝しないよう、子宝の神である水分神社にお参りをしたというのが真相ではないかと私は思います。
いずれにせよ、豊臣秀吉・秀頼父子によって桃山時代の様式で再建された本殿、拝殿、幣殿、桜門、回廊は、大変艶やかなものでした。
◇吉水神社
水分神社から奥千本エリアを更に1.7㎞ほど登って行くと、金峯神社や、歌人の西行が身を隠すように3年間過ごしたとされる西行庵(いずれも世界遺産『紀伊山地の霊場と参詣道』の構成資産の一部)、源頼朝の追手から逃れて源義経が身を隠したとされる義経の隠れ塔などがあるのですが、混み始める昼前には金峯山寺付近に戻り、昼食を取りたかったので、水分神社を出た私たちは、来た道を戻り、金峯山寺の近くにある吉水神社(世界遺産『紀伊山地の霊場と参詣道』の構成資産の一部)に向かいました。
吉野山は、前述のように、源頼朝の追手から逃れてきた源義経・弁慶ら主従が身を隠した場所であると共に、足利尊氏の離反により、京都から逃れた後醍醐天皇が吉野朝廷(南朝)を開いた場所でもあるのですが、その後醍醐天皇が行宮を設けたのが、当時金峯山寺の僧坊であった吉水院(きっすいいん)、すなわち現在の吉水神社の地でした。
そのため、後醍醐天皇や、南朝の忠臣・楠木正成(くすのきまさしげ)が、吉水神社の主祭神として祀られています。
また、豊臣秀吉が吉野山で5000人規模の花見を催した際、「花見の本陣」を置いたのが、現在の吉水神社の地でした。
その花見の席で、豊臣秀吉は、次のような歌を詠みました。
【とし月を 心にかけし吉野山 花の盛りを 今日見つるかな】
by豊臣秀吉
戦に明け暮れる日々の中で、やっと天下を手にし、夢にまで見た吉野山の桜を、わが世の春を謳歌しながら愛でることができた感慨を詠んだものです。
それに対し、諸将は、次のような歌を続けます。
【いつかはと 思ひ入りにし み吉野の 吉野の花を 今日こそは見れ】
by豊臣秀次
【君が代は 千年の春も 吉野山 花にちぎりの 限りあらじな】
by徳川家康
【千早振る 神の恵みに かなひてぞ 今日み吉野の 花を見るかな】
by前田利家
【君がため 吉野の山の まきの葉の 常磐に花も 色やそはまし】
by伊達政宗
豊臣の天下が神の御心に適うものであると秀吉を持ち上げる前田利家や、豊臣家への忠誠心が永遠であるとさりげなくアピールしている徳川家康、伊達政宗の歌に比べると、豊臣秀次の歌には、そんな思慮深さが全く感じられず、吉野山の桜の美しさにただただ感動している様を、純粋に表現してしまっているあたりが、豊臣秀次の純粋さと能天気さを表しているように思えてしまうのは、私だけでしょうか・・・
◇帰路
吉水神社を出た私たちは、吉野山の謂れとなった金峯山寺をもう一度参拝し、その後、吉水神社の先の勝手神社(かつてじんじゃ)まで戻り、そのお向かいの坂本屋で昼食を取ることにしました。
私は、山菜うどんと柿の葉寿司のセットを注文
正午前に食事を終えた私たちが坂本屋を出ると、吉野山の山頂へ向かう多くの花見客で道は埋め尽くされていました
その中をかき分けて、各自お土産などを買いながら、近鉄吉野駅に向かうと、これから吉野山の花見に向かうべく、ロープウェイ乗り場に並ぶ長蛇の列があり、近鉄吉野駅に到着する電車も、通勤の満員電車のような混み具合・・・
今回は、車で東京まで戻らないといけないこともあったのですが、何度も桜の時期に吉野山を訪れているK井さんの経験則で、混む時間をあえて外して、朝5時半から吉野山を登るという作戦を採ったのは、大正解だったのです
近鉄吉野駅から電車で大和下市駅に戻り、そこからH原さん、K井さん、私、Y原さんと運転を交代しながら、途中のサービスエリアで軽い夕食を取り、東京へと戻りました
◇エピローグ
吉野山の奥千本エリアに、歌人の西行が3年ほど過ごした庵があることは前述しましたが、西行は、吉野山の桜に一目惚れして以降、桜に恋い焦がれる気持ちを次のように詠んでいます。
【吉野山 梢の花を 見し日より 心は身にも 添はずなりにき】
by西行
西行の桜への想いは大きく、その後も何首もの吉野山の桜の歌を詠み、60代の頃には、次のような歌を詠んでいます。
【願わくは 花の下にて 春死なん その如月(きさらぎ)の 望月の頃】
by西行
西行は、元々武家出身で、俗名を佐藤義清(さとうのりきよ)といい、鳥羽上皇の北面の武士として奉仕していましたが、23歳の時に突如出家しました。
出家の理由は、親しい友の死であるとも、失恋であるともいわれていますが、いずれにせよ、世を儚んで仏門に入ったわけです。
上記の歌にいう(旧暦の)「如月の望月の頃」とは、釈迦が入滅した(旧暦の)2月15日を指すのですが、西行は、恋い焦がれた桜が咲き誇る春、その桜の下で、釈迦の入滅の日に死にたいという夢を思い描き、実際、西行はこの歌を詠んだ10数年後の文治6年(1190年)2月16日(新暦の3月23日)、73年の生涯を閉じたのです。
そこまで桜に恋い焦がれた西行は、次のような歌も詠んでいます。
【吉野山 去年の枝折の 道変えて まだ見ぬ方の 花を訪ねん】
by西行
今回の旅を誘ってくれたK井さんは、これまでも何度も桜の時期に吉野山を訪れているそうですが、私も、次に桜の時期に吉野山を訪れるときは、西行に倣って、今回見られなかった場所の桜も訪ねたいものです
本日も最後まで読んでいただき、ありがとうございましたm(__)m
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