1936(昭和11)年の夏、日本は喜びにわき返った。アジア初の五輪を4年後に東京で開くと決まったからだ。祝賀のラッパが鳴り響き、街に五輪マークがひるがえった

 しかし翌年夏には早くも雲行きが怪しくなる。手を携えるべき大日本体育協会と東京市が対立し、開催3年前にいたってなお主会場が決まらない。東京湾埋ログイン前の続きめ立て案、明治神宮外苑案、代々木案などが浮かんでは消えた。巨額の建設費がたたった

 五輪ポスターでは公募で選んだ1等の作品が使えなくなる。描かれた神武天皇の姿に「天皇をポスターに使うとは何ごとか」と横やりが入った。混乱が続く中、政府は38年夏、激しくなった日中戦争を理由に開催そのものを断念する

 「たしかに準備段階から迷走続きでした」と幻の東京五輪に詳しい古城庸夫(こじょうやすお)・江戸川大准教授は話す。「ですが、もし日本が大陸から兵を引くことができれば、開催の道はありました。五輪予算が戦費に圧迫されず、英米からのボイコットの声も収まっていたでしょう」

 以来80年にもなろうというのに、五輪の準備中に起きる混迷のメニューが現代とほとんど変わらないことに驚く。混乱のもとをたどればかさむ費用という問題に行きつく。これまでは多くの開催都市が借財を抱えてやり繰りしてきたが、そろそろ限界も見えてきた。名乗りを上げる都市がすっかり減ったという事実が裏付ける

 人類最大のスポーツ行事に人類がそろって手を焼く。考えてみれば不思議な話である。 

【8/18 朝日新聞・天声人語】
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