江戸の町奉行所の年末年始はどんなだったか。仰天する記録がある。「御用(ごよう)納(おさめ)」は25日、その祝いに与力同心の知り合いも客として集まり、引き続き「歳忘(としわす)れ」と称して何と大みそかまで飲み明かしたという

 園田英弘(そのだ・ひでひろ)さんの著書「忘年会」で知った天保年間の話だが、いやはやとんでもない大忘年会もあったものである。年明けも正月17日まで諸藩の留守居役などの年礼客、芸者やたいこ持ちらも入り乱れて気ままに飲み暮らしたそうな

 武士の酒宴のけじめのなさにあきれていたら、それと対照的な武家の「酒道(しゅどう)」について醸造学者の小泉武夫(こいずみ・たけお)さんが書いているのに出合った。江戸時代は茶道や華道などと並んで、精神修養をめざす酒道もあった(「江戸の健康食」)

 その「主人設け」という武家の酒宴は、「座主(ざす)」が2人の接伴役(せっぱんやく)とともに客を供応する。客は「肴(さかな)司(し)」という進行役に従い「廻(めぐ)り盃(さかずき)」「競(せ)り盃」などの作法で酒を飲むが、その間正座を崩さず背筋を伸ばし、酔って乱れる者はいない

 かた苦しい「酒道」が明治になってすたれたのは分かるし、だらだらと続く酒宴がなくなったのもよかった。世は忘年会シーズンである。江戸時代からある年中行事で、現代の方がさかんに行われているものの筆頭が忘年会のようだ

 背筋を伸ばして飲めば体内に送られる酸素が増えて悪酔いをしにくいというから、昔の酒道にも合理性はあった。酔ってのパワハラ、セクハラめいた言動、車の運転が断じて許されないのは今日の酒道である。 

【12/15 毎日新聞・余録】
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