11月6日(日)は、
源九郎稲荷神社に大黒行者さんが来てくださいました。
それで、突然・・・・
「お隣の洞泉寺(とうせんじ)にみんなでお参りに行こう」
ということになりました。
洞泉寺は、
天正13年(1585)に豊臣秀長
が建立したお寺です。
浄土宗知恩院の末寺であり
正式には
洞泉寺」霞渓山「
と言います。
本尊は
木造阿弥陀如来立像(国重文・鎌倉時代)
快慶作
であり、とても美しい仏さまです。
上の画像は大和郡山市のホームページに載せられていたものです。
像の説明として、
「寄木作りの玉眼像で、構造自体はよくわかっていません。 中尊、脇侍ともに目鼻立ちよく整い、とくに中尊の衣文は流麗です。法衣や袈 裟には切金模様が施されており、蓮華丸文、蓮華唐草、菊、麻の葉つなぎ、亀 甲つなぎ、七宝つなぎ、立湧、雷文つなぎ、卍つなぎなどの多彩な文様が使わ れています。光背、台座は後補。」
とありました。
とても、色っぽい美しい仏様です。
脇侍は、
観音菩薩・勢至菩薩像
です。
また、このお寺には、
門を入って左手にある地蔵堂に
閼伽(あか)かけ地蔵
が安置されています。
一枚石をくりぬいた、とても素朴なお地蔵様です。
また、この閼伽かけ地蔵には、こんな伝説が伝わっています。
天正(380年ほど昔)のころ、郡山城内の大書院の西庭に、ひとつのくつぬぎ石(戸口や縁側の上り口などに置いた石)がありました。
ある夜、郡山城主・豊臣秀長と洞泉寺の開祖・宝誉上人(ほうよしょうにん)は、このくつぬぎ石を洞泉寺へ移すよう命じる同じ夢を見ました。
二人はさっそくその庭へ行き、石をひっくり返すと、地蔵さんでした。
それで急いで洞泉寺へ移したそうです。
またこの寺の本殿の中庭に置かれている大きな石風呂(光明皇后が病人の治療に使用)は、その時地蔵さんと一緒に移されたものといわれており、この石風呂の前の方に地蔵さんを立たせ、頭から湯(閼伽)をかけて湯舟に使ったと伝えられています。
閼伽とは仏に供える水のことであり、そこで閼伽かけ地蔵といわれています。
石風呂は、とても立派なものですが、中川のおじちゃんにとっては、
「子供の頃に、よくこの石風呂の中に入って遊んだわ」
ということで、小さい頃の遊び場だったようです。
このお寺で、一番目を引いたのは、快慶作と伝わる
五劫思惟阿弥陀如来像(アフロ阿弥陀さま)
です。
なんともいえない可愛らしい仏様でしょう(・∀・)
五劫思惟阿弥陀仏とは、
阿弥陀仏がまだ法蔵菩薩だった時代、衆生を救うために菩薩行に励まれた後の姿
です。
その時間のことを
「五劫(ごこう)」
というそうです。
そのくらい長い時間、じっと思惟をこらして修行した結果、菩薩から阿弥陀如来になられるそうですが、五劫思惟阿弥陀仏は、まさにその瞬間を現した姿であり、長い時間の行のため
髪の毛は伸び、うず高く螺髪が積み重ねられ、頭が大きく(いわゆるアフロヘアー風)になった
のだそうです。
合わせた手もふっくらとして、とても可愛くて・・・
他にも、洞泉寺には
宇賀神のおじいちゃんを頭に乗せた弁天様
そして・・・・
私達の一番の目当ては
源九郎荼枳尼天
です(^O^)/
もともと、源九郎稲荷神社は、洞泉寺の境内にありました。
昔は、洞泉寺の僧が源九郎稲荷神社の神官も兼ねていたそうです。
しかし、明治政府の神仏分離政策を受けて、現在のようにお寺と神社が分離されました。
現在、洞泉寺の記録には、
天正十三年(1585)九月豊臣秀長は、郡山城に入った。
彼は城の南に宝譽上人という高徳の僧がいると聞き、城内に招いて法説を聞いて感服し帰依した。
上人はある夜、源九郎と名乗る白狐が白髪の老人の姿で現われ、郡山の南の御堂を建て、茶枳尼天を祀れば守護神になろうといったことを物語ったところ、秀長は上人に御堂を建ててやり、上人は三河挙母郡山霞渓山洞泉寺の寺号をここに移し、自ら源九郎茶枳尼天の像を刻み、境内の別の祠堂に安置して日夜勤行を怠らなかった。
とあります。
「宝譽上人の夢枕に現れた茶枳尼天の姿を刻んだのが、この洞泉寺の源九郎茶枳尼天像」
だと、92歳になる住職のおばあさんが説明してくださいました。
この住職のおばあさんですが、とてもしっかりされた方であり、
「この年になったら、すぐに名前が出てこなくて恥ずかしいですわ」
と言いながらも、すばらしい記憶力で、お堂の中の仏様に関して、とても丁寧に説明をしてくださいました。
また、座敷でお茶を頂いた際、この92歳のおばあちゃんが、
「私はまさか、こんな年まで生きさせていただくとは思いませんでした。ありがたいことです。生かしていただいていることの感謝を込めて、毎日お風呂の湯船に浸かりながら、「南無阿弥陀仏」とお経を200回唱えています。寝る前にも100回唱えます。そして朝、目が覚めたときには、まだ生かされていることに感謝するのです。」
という話をされました。
大黒行者さんが、
「とても深い言葉で感動した」
とおっしゃっていましたが、私も、とても感動しました。
私は、いつも大黒行者さんの教えに感動しているのですが、その大黒行者さんを唸らせた、このおばちゃんの言葉は
最高の人生学
だなと思いました。
そして、このおばあさんにとっては、中川のおじちゃんは子供のような存在になるらしく、昔話に花が咲いていました。
おじちゃんの娘さん達と現在の住職さんは、小さいときにこの洞泉寺の境内で走り回って遊んでいたそうです。
お互いとても、よい関係を築いてきたことがわかりました。
今年の夏に源九郎稲荷神社で行われた「夕涼み会」のときも、神社のお祭りなのに、洞泉寺の先代住職の奥様(現在の住職のお母さん)がお手伝いに来てくださっていましたし、住職の奥さんはよく小さなお子さん達を連れて神社にお参りに来てくださいます。
大黒行者さんが、
「思いのほか、神社とお寺の関係がいいのに驚いた。」
と言っていましたが、本当にこの洞泉寺町というところは、不思議な街です。
普通は、神社の祭りごとにお寺の者が参加することなどまずないそうです。
小さな町の中に
神社が1つ(源九郎稲荷神社)
お寺が3つ(洞泉寺、大信寺、浄慶寺)
ありますが、いずれも、とてもよい関係を築いています。
帰り際、中川のおじちゃんが、何度も洞泉寺のおばあちゃんに握手をしていた姿に胸が熱くなりました。
源九郎稲荷神社のご祭神も、洞泉寺の源九郎ダキニ天も、同一の神様です。
お二人が握手する姿を見ていて、再び分断されていた魂がひとつになったような不思議な感覚を覚えました。
そして、とても心が温かくなりました。
源九郎茶枳尼天様も微笑まれているような気がしました。