カトリック教会の世俗化について | Agnus Dei

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気取らず、前向きに、美しく。

宣伝やペタ等による営業活動は一切しないというポリシーのもと、気ままにこのブログを書いていますが、ここにきて記事がようやく充実してきたからか、色々な検索ワードで多くの人がこのブログを見つけてくれるようになり、とても嬉しく思っています。なかでも最初はとっつきづらくて読む人もいないだろうなあと思って自己満で書いていただけの信仰関係の記事が、結構人気なようで。嬉しい誤算ということで、これからも一カトリック信者として、定期的に信仰関係の記事も書いていこうと思っています。


今日は、カトリック教会の世俗化について書きたいと思います。


カトリックといえば、一般的なイメージとしてはとにかく厳かで神秘的な感じ、儀式ばった感じだと思います。とっつきやすいかとっつきにくいかと言われれば、世間的なイメージでは明らかにとっつきにくいほうだと思います。


僕はついこの間まで、観光スポットにもなるくらい美しい、昔からの歴史ある教会に所属していたので、昔ながらのミサの雰囲気が当然だと思っていましたし、もともと懐古趣味や古風な感覚を持っている自分としてはカトリックかくあるべきみたいに思っていて、だからこそカトリックを選んだというところもあったのです。


しかし、先日出張で某教会を訪れた際、そのあまりの違いように驚きを隠せず、いまカトリックはこんなに世俗化してしまったのかとひどくショックを受けたものでした。ビルのワンフロアに教会があり、昔ながらの典礼歌集はほとんど使わず、跪き台も一切無く十字架もなく、まるで講演会の会場のようでした。


宗派の違いというのは信仰表現の違いであって、それは多様なものであっていっこうに構わないと思っているのですが、ことカトリック内部でこんなにもスタイルが変わってしまうと……これからカトリックはどんな方向に向かっていくのだろうと、少し心配になってしまったりもしたのです。


跪き台がなくなって、ご聖体変化の時に跪かないのは、高齢化が進んだいまの日本のカトリック教会においてはある程度しかたがないことなのかなと思ったりもしています。純粋に危ないから、そういう理由で跪きに否定的になるのならば、まだわかるのです。でも、これがもしご聖体神聖視を阻もうとする流れのなかにあるのだとしたら……?某友愛団体の陰謀論などになると収拾がつかなくなるのでとくに触れませんが、やはりそういう風潮はカトリックの信仰を根本から壊すものであって、危険だなあと思うのです。


ご聖体変化こそがカトリックの本丸なのですから。ご聖体変化で鐘がなる時、僕たちは刮目していなければならないのに。ほとんどの信者の方はその瞬間、頭を下げてしまっています。この時点でご聖体変化のなんたるやというのがあまり信者には浸透していないんだなあって思わされたりします。ですから、跪かなくなったのも疲れなくなってラッキーくらいにしか思われていないのかもしれません。


カトリックにおいてもうひとつ大事なのは、歴史と伝統です。新教と違って、カトリックには使徒ペトロの代から続く二千年の伝統と、その長い歴史の中で培われた遺産がたくさんあります。音楽、美術、建築、ことば、それらはすべて宝物で、二千年の歴史の中でそうとうにブラッシュアップされてきているわけです。ならこれを放棄する意味がどこにあるのだろうかと。こういうものを大切にしようと思わない人はプロテスタントでどこか合う教会を探せばいいのではないかと。僕としてはなんとなくそう思ってしまうのです。


もちろん、第二バチカン公会議以降、各国のことばによるミサが行われるようになってから、信仰表明も自国のことばで行うのが一番ふさわしいと考えられているでしょうし、僕自身もそこは賛同するところです。ですから、毎週グレゴリオ聖歌を歌わせろとか、そんなことを言うつもりはないのですが、せめて月に一回は歌う機会を作り、カトリック信者の歴史と伝統に対する意識と全世界共通の言語としての祈りを実感させるべきだと思うのです。


僕が今行っている教会では、来年はじめて天使ミサを歌うそうです。それで、今それに向けて何回か練習を企画しているとか。それはとても素晴らしいことなのですが、天使ミサを歌ったことがないばかりか、知らないという人が非常に多いのですね。僕としては天使ミサの曲は全部そらで歌えるくらい前の教会で歌っていたので、このギャップに驚きました。だって天使ミサが歌えれば海外のカトリック教会でも一緒に歌えるんですよ。それも、どの典礼聖歌よりも圧倒的に美しい、洗練された旋律ですよね。これは絶対に知っておかなければならない宝物だと僕は思うのです。


「全世界に広がる私たちの教会を思い起こし……」というのであれば、それにふさわしいツールはグレゴリオ聖歌、とくに天使ミサだと僕は思うのです。


世俗に流れていないからこその神秘であって、それゆえに信仰が強く美しいものになるのではないでしょうか。若者の信者がきわめて少ない今、カトリック教会が世俗化を指向する意図もわからなくはないですが、カトリックならではの魅力をそれで失ってしまったら本末転倒な気がします。


僕自身、歴史的な教会で信仰の恵みを受けたこの経験を、これからいろんなところで伝えていく義務があるのかなと思ったりしています。


考え方は人それぞれですから、僕の意見が正しいと言うつもりはないです。ただみんなで考えていくべき問題なので、ここで問題提起してみた次第です。