続・鞍馬的思考  | すこやかに おだやかに しなやかに... 

続・鞍馬的思考 

ロンドンに住んでいた時は、大都市ながら街の中に緑がたくさん残っていたので、あまり不自由さを感じませんでしたが、大阪のような都会に住んでいると、ついつい自然との接点を忘れてしまいそうになります。

そんな中、週に一回は仕事の関係で京都へ阪急電車で行きます。梅田から京都へ向かう途中に見えるサントリーの醸造所がある大山崎の辺りは、山が目の前に迫っており、春の初めは霞のかかった桜の風景、初夏に差し掛かった最近では、様々な木々の新緑が美しく、本当にほっとする自然の光景です。見える方向としては、梅田から京都方面がキレイですね。緑色がラッキーカラーである私にとっては、新緑の季節が一番こころウキウキする季節かもしれません。

さて、この間は鞍馬山に行きましたが、由岐神社のご神木など大木に囲まれた山道は、何か街中では感じられないような空気が感じられます。この間のウエサク祭以来、様々な変化(心身共に)があり、あらためて自然から与えられるエネルギーの強力さに驚嘆しています。

鞍馬のお祭りでは、自然との共生、私達は様々なものに生かされているという気付きをすることができました。でも具体的になかなか実感するのは難しいことです。そんなことを考えながら、一冊の本を読みました。

以前にも読んだことがある、星野道夫さんの「アラスカ 風のような物語 」です。星野さんの目(すばらしい写真とエッセイ)を通して、アラスカの人々の自然との関わり方を読みすすめていくと、それは星野さん自身が身を持って「私達人間は、皆自然に生かされている」ということが心にしみるように伝わってきます。

あるエスキモーの老婆と秋のツンドラで過ごした日のことを覚えている。彼女は土を踏みしめながらネズミの穴を探していた。冬に備え、ネズミはエスキモーポテトと呼ばれる小指ほどの植物の根を貯えているらしい。穴を掘り起こすと、本当に一塊のエスキモーポテトが見つかった。老婆はそれを半分だけ取ると、持ってきたドライフィッシュを代わりにいれ、再び穴を土で覆った。「どうして」と訊く僕を、老婆はそんなこともわからないのかというふうに見つめ返した。
それは様々なことを語りかけてくる。絡み合う生命の綾に生かされている人々。しかし考えてみれば僕達だって同じなのだ。ただそれがとても見えにくい社会なのかもしれない。(中略)自然とは人間の暮らしの外にあるのではなく、人間の営みさえ含めてのものだと思う。美しいのも、残酷なのも、そして小さなことから傷ついていくのも自然なのだ。自然は強くて脆い。(後略)  エピローグ 「アラスカ風の物語」より引用

彼の死(カムチャッカ半島でヒグマに襲われ逝去)もまたアラスカに生きたがための自然の摂理なのかもしれない。でも彼の足跡によって、今私達が忘れてしまった自然との付き合い方を思い出す(思い出すほど知らないので、学ぶといったほうがいいかもしれない)ことができるのであれば、風のように去っていった星野さんは喜んでくれるかなと、ふと思った。是非多くの人に読んでいただきたい一作です。