トルコで Koto を弾いていると
日本で弾く箏とは違ってきます。

千年の間、
日本の風土の中で演奏されてきた箏ですので、
やはり日本で演奏することが一番音が馴染みます。

しかし、新しい環境に置かれると、
それまで眠っていた何かが目覚めてくるようです。
Koto もトルコで奏でられるようになってから、
私も今まで気がつかなかった表現力が生まれてきました。

最初は、日本の文化から離れて、
箏の演奏も変化してきて、
浦島太郎になってゆく気分でした。。。
もう、日本で箏は演奏できないだろうな~

かといって、
トルコの音楽界に馴染んでいるのかというと、
まったくそうではないのです。

トルコ音楽に対しては、
魅かれるトルコ音楽は多くはなく、
(お仕事は別として)自分からは
ごく少数の演奏家としか共演していません。
好みではないトルコ音楽のほうが多いです。。。

クラシック音楽は、
残念ながらなかなか心満たされる演奏に出会いません~


という状況で、
実は、音楽的には孤独感を感じる環境にいるわけです。

カーヌーンの名手のギョクセルさん、エロルさん、
フルート名手シェフィカさん・・・
Koto と美しい、情熱的なハーモニーを奏でる演奏家たち。

共演の回数をこなすと、
ハーモニーも息も合い、
パフォーマンスとしては完成度が高くなってゆきます。
ところが、合わせれば合わせるほどに
私は相容れない違いに、孤独感を感じています。
その違いは、吸っている空気の違いのようなもの。

面白いことに、
トルコ音楽であれ、クラシックであれ、
海外でも評価の高いトルコ人演奏家は、
ある共通した特性があります。
自由でおおらかで、思うままに表現する・・・
まるで草原を馬で駆け抜けるような爽快さ!
それは、彼らが子供のころから肌で感じた風、土


トルコで面白いコラボができて、
新しい表現も生み出されてゆくKoto ですが、
やはり日本の精神文化の中で育まれた楽器であることを
改めて思います。

Koto には Koto しか奏でられない音があります。
一音の中に、
その余韻にまで、
精神性を込めて弾く・・・

相容れない中で、
日本では気がつかなかった
いろいろなことを気がつかされます。

「違う」ことは新しい発見の窓口。
だから、相容れないこと、違いを大事にして
そこから新しい発見と、
クリエイティブなことをしてゆきたいです~

人間関係も民族、国同士も
相容れないことを前提として
わずかな共通点から
善い方向へ行けないものかしら・・・
それを妨げているものは何なのか・・・
小さな相違も、大きな相違も
受け止める人の心によって
まったく正反対の方向へ行くもの。。。

トルコという異文化の中で箏を弾きながら
つれづれなるままに・・・



人気ブログランキングへ
にほんブログ村
にほんブログ村