鯨の卵にしては小さ過ぎるのか、いやいや鯨の卵であるはずはないので、質問を変えてみた。

「まあ、何の卵であるとしても、今まで話してみて、お前は孵化したら、すぐに全力で走り出したり、泳ぎ出したりしそうな感じだな」

「まあ、すぐに自分の身を守るために、全力で走り出せる自信があるな。哺乳類でも、すぐに歩き出したり泳ぎ出したりするのが多いけど、それでも親に手厚く守られているから、羨ましいよな。苦労が少なくて」

「お前は?」

「この卵から出たら、すぐに独り立ちだ。たった一人、自力で生きてゆかなければならない」

「お前やっぱり爬虫類だな」

「なあに、意外にも、お前と同じ人間かも知れないよ」

「人間の卵なんて見たことも聞いたこともない」

「それでは人間ではないかな」

どうにも、卵は私を煙(けむ)に巻こうとしている。

 

「何の卵であるとしても、卵の中にいることに甘えて、そのままいつまでも出てこようとしないのは感心しないね」

と私は卵を批判してみた。

 卵は猛烈に反論してきた。

「人間が偉そうなことを言うな。お前たち人間なんて、母親の腹から出て来たって、しばらくは眼をつぶっているようなものじゃないか。人間の子は、眼は見開いていても、ほとんど眠っているかのように、心の眼は閉じたままでも一向に構わないようになっている。十年以上も、ほとんど夢現(ゆめうつつ)のように生きて居ればいいのだから、いい気なものだ。それに比べて、卵で誕生する生物は大変なんだ。卵は、わざと必要とされている以上に過剰に多くの数が産み落とされるものだ。そして、その卵の大部分が、いわば他の生物にとって当然の食物であるかのように喰われて、種の保存のための犠牲となってしまう。卵は、大抵、場合によっては、ほんの一握りの者しか生き残れないようになっているから、自分も孵化する前に喰われてしまうのじゃないかと、卵のままでいるのも不安なんだ。しかし、もっと不安なのは、俺たち野生の世界に生きるものは、一度卵から出たら最後、眼も、心の眼も大きく見開いて、必死で闘い続けなければならない。誕生した瞬間から、生存を懸けて一瞬一瞬を全身全霊で生きることが求められる。そんなの恐くて仕方がないから、俺は卵から出たくはないのだ」

「恐いからって、殻に閉じこもったまま、外の世界で生きることを拒み続けるつもりなのかい?」

「お前たち人間は、もう、とうに忘れてしまったようだが、野生で生きるというのは、本当に大変なことなんだ。今、死ぬか生きるかの連続なんだ。それは、もちろん持って生まれた頭脳と身体の優劣があって、天性の才能とか能力の問題でもあるけど、ほとんどは自分の力だけでは、どうにもならないことばかり、つまり多くのことは運に左右されると言っても過言ではないんだ。例えば、亀の卵が、どこの砂浜に産み落とされたか、お前たち人間や獣に、ほじくり返され易いところなのかどうか、卵の殻を破って、周りの砂を跳ね除けて、地上へ出てみて、その砂浜に鳥が沢山いるのかどうかは、ほとんど運でしかない。その日の天候や風向きも、光や海水を目指して波打ち際を必死に這い回って、どんなに早く這って行けたとしても、鳥に喰われずに無事に海水の中に逃げ込めるかどうかは、ほとんど運でしかないんだ」

 この卵の持論を聞いていて、あれ、もしかしたら、この卵は、見たこともないような大亀の卵なのかな、とも思ったが、亀の卵は、ほぼ完全な球体だから、鶏の卵とは形状が違う。

 

 今のところ私は、この卵が何の卵かという断定に失敗している訳だが、さて、これから、どうやってその糸口を訊き出そうかと思案していると、卵の方から、こんなことを訊いてきた。

「卵の外の感じはどうかね?」

「卵の外の世界が気になるのなら、出てくればいい」

「出て言っても、お前たち人間みたいに親が待っていて助けてくれる訳でもないし、心配事がいっぱいなんだよ」

「孵化したあとは親が巣を守ってくれたり、餌を運んで来たりしないのかい?」

「巣なんて見えるのか、近くに親がいたか。なんにも無いだろう?」

なるほど、何も無い。ただ大きな卵が一つあるだけだ。巨大な怪鳥の卵ではないことは特定できたのだが、ますますこれが、なんの卵なのか見当が付かなくなってきた。何か手掛かりはないものだろうか。

「あとどれくらい、卵の中にいるつもりなのかね?」

「あと百年くらいかな」

「あと百年? そんなに長く卵の中に居られるものなのか?」

「卵だからな」

 私は、いよいよ、卵の中の正体が知りたくなった。知りたくて堪らなくなったので、あえて対話を止めてみた。

 私は黙った。すると卵も黙った。こちらから話し掛けなければ、卵はもう何も話さないのかも知れない。

私は人間だから、寿命とかの問題もあるし、とてもこの卵が孵化するまで、百年も待ってはいられない。しかし、もう少し待っていれば、おそらく卵は痺れを切らして、殻を破って外の世界を覗くに違いない。

でも、卵は、そのまま、眠ってしまったようだった。卵の外の世界には、今は全く興味が無いのかも知れない。卵の考えていることは分からなかった。とにかく、放っておけば、そのまま卵の中にいるつもりなんだろうな、と私は思った。

そんなに卵の中というのは快適なんだろうか。外なんかには出て行きたくもないほどに快適なんだろうか。

 

私の方が、もう我慢ができなくなった。

このあと、卵を割ってみて、この卵が爬虫類などの生物の卵ではなく、卵が単に外界と内側を隔てている殻に過ぎないと気づくことになろうとは、私は思いもしなかった。

私が遂に卵を割ってみると、卵の亀裂の向こうからは、中学生時代の同級生のような少年が、私を見つめ返していた。

私は、その少年を見た瞬間に、とても嫌な予感がしていた。

卵の中の少年は言った。

「ついに卵を割ってしまったな。後悔すると分かっているのに」

「私は、もう卵を割るより他に、どうしようもなくて割っただけだ」

「とにかく一度、殻を割ってしまったからには、殻はもう元には戻らない。お前は取り返しの付かないことをしたと言うことだ」

卵に、こう言われて、このあと私は、人生には、まず取り返しの付かないことがあるのを改めて思い知らされることになった。

卵の中の少年は、私の開けた亀裂の周囲の殻を打ち破って、どんどん穴を広げていった。そして、ほとんど半分割れかけた卵の中から這い出てきて、私と対峙した。

私の嫌な予感は的中した。その少年は、創造力は豊かだが、夢想家と言うか妄想癖が強いと言うか、とにかく何かと言い訳ばかりして、嘘もよく付く、ちょうど精通したばかりの私自身だったのだ。

 

「鳥類だろうが、爬虫類だろうが、哺乳類がろうが、関係ない。この世に出て来てしまったからには、野生の王国だろうが、文明社会だろうが、問題は、ただ弱肉強食の世界に、一人で如何に立ち向かうか、と言うことだ」

と、思春期の私は早くも、まだ世界を、そんなに知りもしないはずの浅はかな知識経験で、偉そうなことを口にしている。卵の中での知識経験しかないくせに、実に生意気そうな少年だ。私は、この少年をとても好きになれそうにはない。

とにかく、そのようにして、思春期を迎えてしまったばかりの自分自身を目撃した私は、その時から、私という生物が飛び込んだ人間社会における生存競争、自然淘汰に対する闘いが始まったことを思った。今は大人の私が、その思春期以降に歩むこととなる苦しい道のりや、思い悩んできた日々を振り返っていた。

後悔ではないが、私は、卵を割るより他に仕方がなかったこと、卵の中から出て来ざるを得なかった運命に、言いようもないくらい、もう取り返しが付かないのだな、と残念な思いがした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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