仏教の最初期の書であるダンマパダとキリスト教の経典である新約聖書に収められた福音書の共通点について、以下記す。ダンマパダの方が成立時期が古いと思われるので、こちらから先に掲載する。ダンマパダは中村元訳であり、福音書は新共同訳である。




「花を摘むのに夢中になっている人を、死がさらって行くように、眠っている村を、洪水が押し流していくように、-
花を摘むのに夢中になっている人が、未だに望みを果たさないうちに、死神がかれを征服する。」(ダンマパダ 4 47,48)


「愚かな金持ち」のたとえ(ルカによる福音書 12 13-21)





「愚かな者は、実にそぐわぬ虚しい尊敬を得ようと願うであろう。修行僧らのあいだでは上位を得ようとし、僧房にあっては権勢を得ようとし、他人の家に行っては供養を得ようと願うであろう。」(ダンマパダ 5 73)


「律法学者に気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ることや、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」(マルコによる福音書 12 38-40)





「一つは利得に達する道であり、他の一つは安らぎにいたる道である。ブッダの弟子である修行僧はこのことわりを知って、栄誉を喜ぶな。孤独の境地にはげめ。」(ダンマパダ 5 75)


「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」(マタイによる福音書 6 24)





「人々は多いが、彼岸に達する人は少い。他の(多くの)人々はこなたの岸の上でさまよっている。」(ダンマパダ 6 85)


「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々としていて、そこから入るものが多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見出す者は少ない。」(マタイによる福音書 7 13-14)


「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。」(ルカによる福音書 13 24)





「賢者は欲楽をすてて、無一物になり、心の汚れを去って、おのれを浄めよ。」(ダンマパダ 6 88)


「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」(マタイによる福音書 19 21)





「功徳を得ようとして、ひとがこの世で一年間神をまつり犠牲をささげ、あるいは火にささげ物をしても、その全部をあわせても、(真正なる祭りの功徳の)四分の一にも及ばない。行ないの正しい人々を尊ぶことのほうがすぐれている。」(ダンマパダ 8 108)


「それにしても、あなたたちファリサイ派の人々は不幸だ。薄荷や芸香やあらゆる野菜の十分の一は献げるが、正義の実行と神への愛はおろそかにしているからだ。これこそ行うべきことである。もとより、十分の一の献げ物もおろそかにしてはならないが。」(ルカによる福音書 11 42)





「先ず自分を正しくととのえ、次いで他人を教えよ。そうすれば賢明な人は、煩わされて悩むことが無いであろう。」(ダンマパダ 12 158)


「偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。」(マタイによる福音書 7 5)





「他人の過失は見やすいけれども、自己の過失は見がたい。人は他人の過失を籾殻のように吹き散らす。しかし自分の過失は、隠してしまう。」(ダンマパダ 18 252)


「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太には気がつかないのか。兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。」(マタイによる福音書 7 3,4)