僕たちは小さい頃から正論を聞かされて育った。


平和は大切だ、差別はいけない、手を取り合って愛し合いましょう。


それらはいずれも常に正しく反論の余地もない。


僕たちは小さい頃から何が正しいのかを知っていた。


それはあらかじめ人生におけるテストの答案を知っているようなものだ。


それで満点をとったところで何になろう。


僕は、小さい頃、この正論に、いつもある種の胡散臭さを感じていた。


そのために、自分の人生において、本当の問題に突き当たったときに、正論を避けて通ろうとしていた。


しかし、結局のところ、僕は、それを避けて通ることが出来なかった。



人生において、正論はしばしば役に立たない。


僕たちが生きていて、個人的な問題に突き当たったときに、それが役に立つことはあまりないからだ。


そして、僕たちは正論とは違う、別のものを捜し求める。


もっと別のものがあるんじゃないかと。

しかし、それを探しに出かけた若者は、人生においてしばしば遭難する。



僕は改めて思うのだけれども、正論というものはやっぱり正しいものだ。


平和も、平等も、愛も、正しく、素晴らしいものだ。


であるのにもかかわらず、それが胡散臭く聞こえたり、胸に響かなかったりするのは何故だろう。


それは結局のところ、正論をあらわす言葉が陳腐化するからだ。


正論自体が陳腐化しているのではなくて、それを表す言葉が陳腐化しているのだ。


歌の歌詞で「どこまでも広がる青い空」なんて出てきたら、誰でもうんざりする。


実際に、どこまでも広がる青い空を見てうんざりする人はいないのに。


それと同じことだ。



陳腐化した正論は、塩味の抜けた塩に等しい。


それはもはや何の役にも立たず、捨てられ、人々から踏みつけられるだけだ。


(マタイによる福音書 5 13、マルコによる福音書 9 50、ルカによる福音書 14 34-35)



ところで、正論に対して、逆説というものが存在する。


世の中にはこの逆説を正論以上に愛し、求めている人たちがいる。


逆説好きの彼らは言う。


「正論はもはや死んだ。正論を取り壊せ。」


僕はそれは違うと思う。



逆説は何のためにあるのか?


それは、正論を廃止するためではなくて、完成させるためだ。


逆説は実は正論と矛盾しない。


正論と矛盾するように聞こえて矛盾しない言説。


それが逆説だ。



もし、ある逆説が正論と矛盾するのならば、結局のところその逆説は間違っている。


逆説好きな若者を喜ばせる逆説は、大抵の場合はニセ物だ。


それは正論以上に陳腐であるのが普通だ。


ただ、世間的に知られていないから新鮮に聞こえるに過ぎない。



真の逆説は、正論に新しい解釈を与え、陳腐化したその印象を蘇らせる。


だから、僕たちは真の逆説を聞いて、はっとする。


逆説とは正論の最新形にほかならない。


そして、それを聞いた人は、改めて、あるいは初めて、本来の正論を理解し、受け入れる。


なるほど、そう言うことだったのかと。



僕はそういう逆説、すなわち、新しい正論を書いていきたい。



「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。
はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。」
Think not that I am come to destroy the law, or the prophets: I am not come to destroy, but to fulfil.
For verily I say unto you, Till heaven and earth pass, one jot or one tittle shall in no wise pass from the law, till all be fulfilled.
(マタイによる福音書 5 17-18)


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