「人間っちゅうもんは、人類を好きになればなるほど、個々の人間を嫌で嫌でたまらんようになるもんなんじゃ。(`ω′)! 」
さすがはドワルスキーじゃ。セコビッチたあ言うことがちゃうわのう。
人類を好きなもんが、人間を嫌いになる。
こら、あるかもしれんのう。
視点が高すぎて、人間を見る目が霞んどるんかもしれんのう。
「うちは、世のため、人のために頑張っとるんよ。気安う触れんさんなや!」っちゅう感じじゃ。
こがあな人の近くにおったら、何やらヒステリックな雷が落ちそうじゃのう。
そらあ、心の遠視じゃなかろうか。
ほいじゃけど、世の中には、これとは正反対の人もおるわのう。
要するに、個々の人間は好きなんじゃけども、人類には興味のないっちゅう人たちじゃ。
この人らは、世間以外のこと、つまり友人や家族以外の人たちのことには興味がないらしいわ。
例えば、友人がスキーで骨折したっちゅうと、我がことのように心配して見舞いに駆けつけるんじゃが、アフリカで難民が1万人虐殺されたっちゅう新聞記事を読んでも、眉ひとつ動かさんような人たちじゃ。
そらあ、心の近視じゃなかろうか。
「世間」が「世の中」のすべてじゃないんじゃがのう。
こがあな人について心配することがもうひとつあるんじゃのう。
そらあのう、身内に対する親切は、しばしば身内以外の人に対する不親切になるっちゅうことなんじゃ。
この間、こがあなことがあったよ。
わしが、食堂で、水を汲もうと思って、並んでおったんじゃ。
給湯器が2台あって、右には2人、左には1人並んでおった。
ほいじゃけん、わしゃ、左に並んだんじゃ。
ほいじゃが、いつまでたっても、前の人が水を汲み終わらんのじゃのう。
どうしたんか思うたら、仲間の分まで汲みよったわ。
それも、5、6杯ぐらい。
わしゃ、うしろでぼうっと待っとったわ。
キリストが言うておるね。
「自分を愛してくれるもんを愛したけえいうて、あんたらにどがあな恵みがあるんじゃ。
そがあなことは徴税人でもやっとるわ。(`ω′)! 」
(マタイによる福音書 5 46)
"For if ye love them which love you, what reward have ye?
do not even the publicans the same?"
(St.Matthew 5 46)
ついでに言うたら、世の中には、上のどっちでもない、中間の人もおるわのう。
民族主義者とか、国粋主義者っちゅうて言われるような人じゃのう。
これもこれで、行き過ぎると、極端な排外主義とかになったりして、ようないことになったりすることもあるわのう。
中間におって、行き過ぎる。
不思議なことじゃ。
やっぱり、他人を見る目っちゅうもんは、柔軟に遠近がつけられるようでなあといけんわのう。
心の視力回復。
これが今のわしらのテーマじゃ。
P.S. 上の言葉、ドワルスキーじゃのうて、ドストエフスキーじゃったわ。
まあええわ。どっちでも一緒じゃ。
わしゃもう寝るわ。
じゃあの。(`ω′)!
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