禅的(哲学的)世界観

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以下は、玄侑宗久さんの「死んだらどうなるの?」という本の、池田晶子さんによる書評です。

 

≪禅僧が科学を使用して死後を説明するのを、私は初めて見た。びっくりした。はたして、本気だろうか。
( 中略 )
私はまずそれを疑った。『意識は脳が生み出す』とも、平気で言われている。大したもんである。どうせ嘘をつくのなら、ここまで徹底してつかなければならない。話というのは、どっかから始めなければ、始まらないからである。全くのところ、意識は脳が生み出したものなら、全宇宙が脳の産物であるわけで、それならやっぱり死後なんてものも脳による妄想である。今さら何が問題であろう。
こういったことを説明し始めると収拾がつかなくなるから、だから禅というのは説明をしないのである。黙るのである。黙って、観るのである。宇宙を、存在を、生と死の謎を、問いと答えが同一である地点を、永遠に観ているのである。≫

 

ぼくは玄侑宗久さんの本を読んでいないのですが、この書評だけで判断する限り池田さんの言うことはごもっともという気がします。

 

臨済宗妙心寺のご開山は関山慧玄という人ですが、ある修行者に死について問われたところ、「わしのところには生死なぞない」(慧玄が会裏に生死無し)と答えたのだそうです。釈尊も死後のことは無記としていたのだから、妙心寺派の僧侶である玄侑宗久師がこのことを知らないはずがないので、おそらく方便として死後のことに言及しているのでしょう。今回の記事では、この本の内容はともかく、池田さんの批判を通して禅の世界観について述べてみようと思います。

 

池田さんは、科学的知見を使用していることをとがめています。ぼくたちは通常ことの正否を判断するのには科学的に考えるのが良いとされているのですが、禅的観点からするとそれは違うのです。禅的にみるということは究極的な素朴さで見るということです。究極的な素朴さで見るということは、感性でとらえることのできない超越的なものを排除するということです。

 

超越的なものを排除すると、いったん科学は忘れなくてはなりません。よくよく反省すれば、「意識が脳に生じる」という知識も、ぼくたちは人づてに聞いたことをそのままうのみにしているわけです。光や電気とか引力というような概念も同じように教えられたから知っているだけの話です。

 

遠くの山を見た時、ぼくたちは太陽の光が山から反射されて、その光をぼくたちは見ていると考えるようになりました。本当にそうでしょうか? ぼくには見えているのは「光」ではなく、遠くの「あの山」なんです。見えているのは山であって光ではない、という気がするのです。

 

禅や哲学は科学を否定するわけではありません。科学をぼくたちの世界観の中で正しい位置に再配置しようということなのです。以前の記事「心はどうやって生まれるのか」でご紹介したマッハのことばを再掲します。

 

≪科学の目標というのは、感覚諸要素(現象)の関数的関係を《思考経済の原理》の方針に沿って簡潔に記述することなのだ≫

 

「遠くの山が見える」という現象を科学は、光や反射とか視神経というパラメーターで関数的に記述するのです。あくまでそれは記述にすぎない。科学により、ぼくたちは、「光が目に入る」から「あの山が見える。」と考えがちだけれど、それは逆で、本当は「あの山が見える」から「光が目に入る」と想定しているのです。
「光が目に入る」というのは想定であって事実ではない、あくまで仮説であり、もっと突っ込んで言えばフィクションなのです。まず第一義的には「遠くの山が見える」という事実がある。このことを忘れてはならんと思うのです。

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