ゲシュタルトについてインターネットで検索していると、ゲシュタルト崩壊という言葉が頻繁に出てくる。その説明を読んでいるとどうも釈空観の説明に似ていることに気がつきました。

 

釈空観というのは、仏教の「空」を言葉で説明したものです。例えば、≪机と言うものに着目してみると、その脚を外してみると単なる板と棒になってしまう。何も減じていないのに、机そのものは存在しない。つまり空である。≫ というような見方です。つまり、机は人間の生活習慣の中における使用目的という観点から、机の構成要素全体を統合しなければ「机」たり得ないわけです。あくまで、現代の人間の「恣意的」な視点によらなければ「机」は見えてこない。そういう意味で「机」は普遍的ではないわけです。

 

ゲシュタルト崩壊についてWikipedia から引用しますと、≪全体性を持ったまとまりのある構造(Gestalt, 形態)から全体性が失われてしまい、個々の構成部分にバラバラに切り離して認識し直されてしまう現象をいう。≫となっております。たとえば「傷」という字をじっと凝視していると、「傷ってこんな字だったかなぁ」という感覚に陥るらしいのです。( 試したい方はこちらをクリック==>「ゲシュタルト崩壊」 ) これは、机が木切れの寄せ集めにしか見えないのと同じようなことだと思います。

 

つまり、仏教でいう空観とは、概念のゲシュタルト崩壊と言ってもいいのではないかと思うのです。例えば「人間」という概念について考えてみましょう。自分の父親を思い浮かべてみる。ぼくにかなり似ています。やはり人間でしょう。それからお祖父ちゃん‥‥、曾祖父‥とだんだんさかのぼっていくうちに顔かたちがかなり変わってきます、北京原人に似た人やクロマニョン人に似た人とか出てきて、ついには全身毛むくじゃらのチンパンジーとゴリラの中間みたいのまで行くと、「あれっ人間ってどんなだったっけ?」となります。これってゲシュタルト崩壊ではありませんか。

 

プラトンは人間のイデアというものが存在すると考えていました。人間にはいろいろなバリエーションがあって、各個人個人は姿かたちが違います。しかし、どの人を見ても人間であるということが分かるのは、範型としての人間のイデアというものがあるからだというのです。それは「普遍的人間」であり、人間の概念を規定するものと言ってもいいでしょう。もしそんなものがあれば、人間と人間以外は厳密に識別できるはずです。しかしどうでしょうか、「ネアンデルタール人は人間か?」と問われたら、おそらく人によって判断は分かれると思います。

 

仏教では普遍的な人間のイデアというものを認めないどころか、各個人の同一性というものも認めません。御坊哲という個人について見ますと、幼稚園に行っていたころのぼくは、今の僕とは全然違います。このブログを書く前と書いた後の御坊もすでに変化しています。ぼくは毎日ご飯を食べ水を飲みそれを排泄しています。細胞も常に入れ替わっています。いわば台風のようなものです。台風はよく見てみれば空気が渦を巻いているだけで、その空気も常に入れ替わっています。一体台風そのものの本体は何なのでしょうか? ぼくたちは何を指して台風と呼んでいるのでしょう?
このように考えていくと、台風の全体性が失われてゲシュタルト崩壊しませんか?
御坊哲も台風みたいなものです。栄養を外から取り込んで、細胞を新陳代謝させ、老廃物を排泄する。この繰り返しです。台風よりは緩慢ですが、時間がたてばすべての細胞が入れ替わります。

 

仏教では、あらゆるものが常にダイナミックに変化していると見ます。その変化の中で比較的安定しているものが個物とみなされているのです。あくまで比較的安定であって絶対的ではありません。常に流動的ですから、すべては偶然的で完全なものは存在しません。イデア論とは真逆のものの見方をするわけです。

 

次回は龍樹の空観について述べたいと思います。 ( その2に続く )

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