三鷹市美術ギャラリーで「アルフォンス・ミュシャ展」を観た! | とんとん・にっき

三鷹市美術ギャラリーで「アルフォンス・ミュシャ展」を観た!


三鷹市美術ギャラリーで「アルフォンス・ミュシャ展」を観てきました。元々行くつもりのなかった展覧会、ひょんなことからミュシャの祖国・チェコスロバキアに対する興味と、ミュシャ後半の人生と作品に興味を持ち、行ってみようと思い立ちました。行ったのが日曜日の午後だったこともあり、また若い人たちにもミュシャのファンがたくさんいるようで、三鷹市美術ギャラリーのロビーは人、人、人で埋まっていました。これじゃ会場へ入るまでにも時間がかかり、入ったとしても押し合いへしあいで作品鑑賞どころではないと諦めて、いったん外へ出て、時間をずらして午後6時過ぎに入場しました。


「ミュシャ展」の構成は、以下の通り。


第1章 パリ時代

 1 絵画とデッサン

 2 ポスター

 3 装飾パネル

 4 デザイン(カレンダー、メニューなど)

 5 本、雑誌の装丁と挿絵

 6 「装飾資料集」と「装飾人物集」

 7 彫刻・工芸品など

第2章 アメリカ時代

第3章 チェコ時代

 1 絵画とデッサン

 2 ポスター

 3 プラハ市民会館市長ホールの原画

 4 デザイン(ステンドグラス、蔵書票など)

 5 「スラヴ叙事詩」の下絵と「同胞のスラヴ」


上の「構成」を見ても分かる通り、ミュシャの人生は大きくは「パリ時代」、「アメリカ時代」、「チェコ時代」と大きく3つに分かれます。1894年末、当時50歳の国際的女優サラが舞台「ジスモンダ」の広告デザイナーとして、34歳の無名のミュシャを大抜擢した経緯は、美術市場のシンデレラ・ストーリーとして伝えられていると、柴田純江は図録の中の「ミュシャの女性像」に書いています。僕の今の興味は、グラフィック・デザイナーとしてポスターや装飾パネルを製作したミュシャにあるのではなく、アメリカからプラハに戻った1910年以降、「油彩画」を数多く手がけるようになってからです。


モデルも成熟した女性像に代わって、無垢な少女が多くを占めるようになります。サラ・ベルナールのような時代に君臨する女神ではなく、ミュシャ自らが選んだ、民族衣装を着て、まっすぐなまなざしを向ける少女です。ミュシャ後半生の代表作品は1911年から1926年の間に描かれた「スラヴ叙事詩」であると言われています。幅4mから8mに至る油彩画20展で構成された、彼の後半生の集大成ともいえる大作です。しかし、ここでは油彩画とデッサンを取り上げ、以下の載せておきます。


図録によると、1939年、ドイツがチェコスロバキアに侵攻、ミュシャはゲシュタボに逮捕されます。その後7月14日にプラハにて亡くなります。「スラヴ民族統一の誓い」が絶筆でした。なお、今回の「ミュシャ展」、「堺市蔵」の作品が多く、堺市には「堺市立文化館 アルフォンス・ミュシャ館」があることを初めて知りました。













柔らかな曲線と植物などの自然をモチーフにした装飾様式が特徴のアール・ヌーヴォーは、1900年に開催されたパリ万国博覧会をピークに一世を風靡しました。当時のフランスの大女優サラ・ベルナールのポスター《ジスモンダ》を手がけて一躍アール・ヌーヴォーの旗手となったチェコ出身の画家アルフォンス・ミュシャ(1860-1939)は本年2010年生誕150年を迎えます。ミュシャは現在のチェコ共和国東部モラヴィア地方の小さな町に生まれ、ウィーン、ミュンヘンを経て1888年パリに出ます。アカデミー・ジュリアンなどで学んだのち雑誌の挿絵で生計を立てていましたが、1894年暮れに初めて芝居のポスター《ジスモンダ》を手がけました。このポスターが1895年1月パリの街頭に貼られるとミュシャは一夜にして有名ポスター画家となり、以後「ミュシャ様式」と呼ばれる流れるような髪の毛や花々で飾られた女性像を中心に、芝居、タバコ、酒、自転車など多くのポスターや装飾パネル、ビスケットのパッケージ、挿絵本、装飾品などを制作していきます。


「三鷹市美術ギャラリー」ホームページ


「堺市立文化館 アルフォンス・ミュシャ館」ホームページ


とんとん・にっき-myu2 生誕150年記念

「アルフォンス・ミュシャ展」

図録

アドヴァイザー・執筆:

島田紀夫(ブリヂストン美術館)

ヤナ・オルリコヴァ・ブラプツォヴァー(美術評論家)

発行:

産経新聞大阪本社








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