「レインボー喜寿 靉嘔 ~版画作品を中心に~」展を観た!
テーマ:ゲ~ジュツ見てある記
1931年生まれの靉嘔(あい・おー)、「喜寿」といえば77歳です。僕が靉嘔を知ったのは1973年9月に東京国立近代美術館で開催された「アメリカの日本作家」展でした。当時ニューヨークには日本人美術家が数100人もいたという。その中から17名が厳選されて「アメリカの日本作家」展が開催されたわけです。そのカタログの「作家・図版」に、第1番目に取り上げられているのが靉嘔でした。そこで僕は大家級の岡田謙三や猪熊源一郎の他に、池田満寿夫や篠原有司男や、そして靉嘔を知ったわけです。靉嘔は当時42歳でした。あれから36年が経つわけです。
出品目録によるとその時は「きわめて通俗的な物語<版画のためのイヴェント―虹のグラス>あるいは<それから靉嘔氏は虹によって酔っぱらった>(38点シリーズ)」というもの。どんな作品だったか思い出せませんが、「虹」という言葉が出ていることで、「レインボー」、つまり色のスペクトルが描かれていたのではないかと思います(と思ったら、今回、38枚組のうち、#22、#27、#32が出展されていました)。なにしろ靉嘔といえば「レインボー」でしたから。同じ頃、東京国際版画ビエンナーレ展のカタログの受賞者一覧を見ると、靉嘔は1970年の第7回展の「東京国立近代美術鑑賞」を受賞しています。
「レインボー喜寿 靉嘔~版画作品を中心に~」展のチラシには次のようにあります。
靉嘔〔あいおう〕(本名 飯島孝雄)は1931年茨城県に生まれました。N.Y.で活動していた60年代中期から古今東西のあらゆる物体を虹色に塗り分ける〈レインボー・シリーズ〉を開始、現在も「虹〈レインボー〉の作家」として精力的に活動しています。
靉嘔という名前は、53年頃新宿の通称「しょんべん横丁」に毎晩集まる仲間に「あいうえお」の中から好きな字を選んでもらい、上位であった「あいお」の3文字に由来しています。デモクラート美術協会の解散を機に1958年靉嘔はN.Y.を目指して渡米しました。62年から前衛芸術家集団フルクサスに参加、以後メンバーとして活躍します。アートにおける権威主義に反旗を揚げたフルクサスの活動と平行して、自らの作品づくりにおいても従来の美術から脱却した独創性を模索します。絵画を構成している線・形・色という3つの要素から、唯一この世に存在している〈色〉をとりあげ、人の目に映る全ての色を使って作品を作り始めました。こうして62年頃から始まったレインボーのシリーズは、先人達の名画や身の回りの事物、森羅万象をレインボーカラーに染め上げ今なお拡大し続けています。作品に潜む明るく乾いたユーモアと作家の果てしなき探求心が、世代を超えて支持される魅力につながっています。
今回の展覧会では2006、08年に寄贈を受けた〈森秀貴・京子〉コレクションを含む三鷹市美術ギャラリー所蔵品を中心に、初期作品から近作まで作家の多岐に渡る活動をご紹介いたします。
今まで僕は靉嘔の作品を観続けてきましたが、いずれも単品でした。今回のように纏まって観たのは初めてです。僕が思っていた以上に幅広いテーマの作品をつくっていたのには驚きました。北斎やルソーへのオマージュや、「春画」そのもの、また「般若心経」シリーズ、「干支」など、傑作ぞろいでした。以下、「レインボー喜寿 靉嘔 ~版画作品を中心に~」展のカタログから、僕が気になった作品を幾つか取り上げておきます。
カタログ(表紙:虹の四季・春)
発行日:2009年1月5日
編集:富田智子/三鷹市美術ギャラリー学芸員
発行:三鷹市美術ギャラリー/(財)三鷹市芸術文化振興財団

























