「アントニン&ノエミ・レーモンド」展を観る! | とんとん・にっき

「アントニン&ノエミ・レーモンド」展を観る!

神奈川県立近代美術館で開催されている「建築と暮らしの手作りモダン アントニン&ノエミ・レーモンド」展を観てきました。


アントニン・レーモンドは、1888年、オーストリア・ハンガリー二重帝国統治下のボヘミヤ地方に生まれました。ボヘミヤは1918年に独立してチェコスロバキアとなります。チェコ工科大学で建築を学び、文化系の学問をプラーグ大学で修め、当時新建築運動が渦巻いていたドイツを素通りして、パリのオーギュスト・ペレーの門を叩きます。その後、1910年にアメリカへ渡ります。カス・ギルバートの設計事務所で当時世界最高の摩天楼、ウールワースビルの設計に関わります。5年間の見習い期間の後、1914年にイタリアに遊び、ナポリでノエミ・ペルネッサン、つまりレイモンド夫人と出会い、ニューヨークへ帰る途中に2人は結婚します。彼女はフランス生まれ、10歳のときに家族と共にニューヨークに移住していました。


1915年にフランク・ロイド・ライトと出会い、ウイスコンシン州のタリアセンにあるライトの事務所で働くようになります。タリアセンでは約1年働き、1917年、ニューヨークに戻り独立します。やがて祖国ボヘミヤの解放運動に参加し、チェコスロバキアの独立を勝ち取ります。1919年(大正8年)、帝国ホテルの設計を監理するためにライトとともに来日します。「私は世界中でいちばん美しい国へ来たと思った。総合ということは、建築の根本原則だが、私は日本の風物の背後に、ひとつの素晴らしい総合を見たのである」と、のちに述懐しています。レーモンドはライトを恩人とし、心酔もしていましたが、反面かなり批判的でもありました。翌1920年、独立して事務所を構えます。以来、レイモンドは日本に住みつき、その後、第二次世界大戦をはさみ40年にわたって日本で活動することになります(1919~1938/1949~1973)。





1923年、関東大震災の年、事務所名を正式に「レーモンド建築事務所」とします。1924年から1926年にかけてコンクリート打ち放しの「霊南坂の家(自邸)」を設計します。ル・コルビュジエの「サヴォア邸」の完成がが1931年ですから、それよりも早いことになります。当初はライトの影響が強かったのですが、インターナショナル・スタイルの自邸で「私は完全にライトをぬけだしていた」と述べています。その後、ヨーロッパの新傾向に素早く反応し、パリのオーギュスト・ペレーやル・コルビュジエに依拠した作品を設計しますが、例えば「東京女子大校舎」をあげるまでもなく、作風は揺れ動き、不安定感と模倣性が見受けられました。しかし、日本の伝統から多く学び、「自然は人工よりも美しい。簡素は複雑よりも美しい。節約は浪費よりも美しい結果を生む」という設計理念に至り、日本のモダニズムのリーダーのひとりとなります。前川國男、吉村順三らを育て、日米戦争の一時期を除き、日本に本拠を構えて設計活動を展開しました。


こうしてアントニン・レーモンドの略歴を書いてみても、隔靴掻痒の感は否めません。僕のレーモンドの理解は、年代的にも彼の下に学んだ前川國男や吉村順三からの間接的な理解になるからです。昭和3年、東大の建築を卒業した前川國男は、卒業式の夜日本を発ってコルビュジエのもとに赴き、2年間を過ごし、昭和5年に帰国するやレイモンド事務所に入ります。ノエミ・レーモンド夫人が前川の府立一中時代の英語の教師だったという奇縁から、彼女と親しかったらしい。前川は、弘前の設計の仕事をレーモンド事務所に持ち込み、フィーは入らないから時間を下さい、コンペをやりたいからと、レーモンドに頼みます。コンペに取りかかったら、事務所の仕事は朝10時から午後3時までという約束ができました。レーモンドから前川が学んだ肝心の一点は、建築家の自立を支えるのが「フィー(設計料)」と「契約」にほかならないということでした。






昭和6年には上野の美術学校在学中よりレーモンド事務所に勤務していた吉村順三が卒業して入所します。2人は、レーモンド事務所で実務の修行に励みます。吉村は以後10年間、レーモンド事務所に勤務します。レーモンド事務所の仕事も活況を呈していましたが、日米関係の雲行きも怪しくなり、その影響で次第に少なくなります。昭和10年にはパタリと仕事がなくなり、前川國男は自分が誘った2人の所員を引き連れて、あてのない事務所を設立することになります。昭和12年、レーモンドが期待していた「フォード自動車組立工場」が、外国資本ということで認可が下りず白紙に戻り、レーモンド事務所の去就はこれで決まり、昭和12年暮れにレーモンド夫妻はアメリカへ帰ることになります。昭和15年、レーモンドを慕って渡米した吉村順三がアメリカにおけるレーモンドのグループに加わり、最後の1年間を過ごしますが、日米間最後の交換船で帰国せざるを得ませんでした。1941年12月8日、日米開戦の日を選んで吉村設計事務所を開設します。


戦後、昭和23年には早くもレーモンドは日本を訪れ、レーモンド事務所が再建されます。戦後の復興のシンボルとして建ち上がったのは、先陣を切ってレーモンド設計の「リーダーズダイジェスト東京支社」1951年(昭和26年)、そして松田平田設計事務所設計の「ブリジストンビルディング」1952年(昭和27年)と、前川國男設計の「日本相互銀行本店」1952年(昭和27年)といわれています。「リーダーズダイジェスト」やアメリカ大使館アパートの「ペリーハウス」(昭和28年)や「ハリスハウス」(昭和29年)を語るとき、「コンクリートがおごそかに打ち込まれた」と、レーモンド事務所の人は表現するという。いうまでもなく良質固練りコンクリートの打ち込みの完璧さに対していう表現です。コンクリートのワーカビリティを高めるAE剤の使用や、くまなく型枠内にコンクリートがまわるようなバイブレーターの使用など、日本で最初の施工方法がとられました。「群馬音楽センター」や「聖アンセルム教会修道院」「立教高校聖ポール礼拝堂」は、コンクリートの性質を最大限に生かした建築です。同じ系列で昭和39年に完成した名古屋の「南山大学」は、「リーダーズダイジェスト東京支社」に続き、日本建築学会賞を受賞します。





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聖アンセルム教会修道院(1958)   立教高校聖ポール礼拝堂(19961)


1934年(昭和9年)、 軽井沢にやってくる外国人避暑客のために建てられた「聖ポール教会」、一見奇妙な形をしていますが、丸太を組み合わせた内部天井は素材をそのまま使った日本人の感性に合致したものです。家具はすべてジョージ・ナカシマの手によるものです。レーモンドは日本文化の優れた理解者であり、伝統的な空間と生活の価値を深く理解し、素朴な素材や手仕事を重んじる現代的なデザインを生み出しました。その特徴が現れているのが、「聖ポール教会」とその流れをくむ木造の作品です。軽井沢の「夏の家」は、ル・コルビュジエの「チリの山荘計画案」の模倣であると問題になります。しかし、木造架構の露出、内外壁の板張りの使用などにより、日本的な山小屋となり、素材の魅力を出しています。特に木の柱と建具の分離は、コルビュジエに通じて、合理的な考えです。建具は大きくても値段はそう変わらない、障子は断熱にもなります。同じ系列には、麻布・笄町の「レーモンド事務所、スタジオ、自邸」や、「軽井沢の新スタジオ」があげられます。


「建築と暮らしの手作りモダン アントニン&ノエミ・レーモンド」展を観て、通常の建築家の展覧会、例えば「前川国男展」や「吉村順三展」とはやや趣が違うようだと感じました。調べてみると、レーモンドの資料が日本とアメリカに分かれて存在し、どちらからも「エトランゼ(異邦人)」であったという事情があります。この展覧会は、建築関係者ではなく、アメリカに在住する各地の美術館の5人の学芸員が集まって企画したものでした。発端は、レーモンドのアメリカでの拠点ニューハンプシャーに住む遺族が、所蔵していたレーモンドの資料を、ペンシルバニア大学のルイス・カーンアーカイブスに寄贈したことによります。レーモンド夫妻に関する初めての大規模な展覧会で、アメリカのペンシルヴァニア大学付属建築博物館、カリフォルニア大学サンタバーバラ校付属美術館で開催された後、神奈川県立近代美術館に巡回されたものです。とくに日本展では、レーモンドの薫陶、感化を受けた日本人の建築家、前川国男、吉村順三、増沢洵、そして家具デザインのジョージ・ナカシマの仕事も併せて展示してありました。



昭和13年に、過去の蓄積を整理した「詳細図集」を英文で出版したことは、今回始めて知りました。この図集は、当時の日本の建築家に大きな影響を与えたようです。ノエミ夫人のテキスタイルデザインやインテリアパース、家具のデザインなど、デザイナーとしての仕事を、やはり今回初めて見ました。激しい気性のレーモンドと所員の間に入って、所員を優しくいたわり、飾りっ気のない、ユーモラスな人柄だったようです。今手元にないのですが、レーモンド設計事務所の元所員である北沢興一のインタビュー記事を、工学院大学の同窓会誌「NICHE」で、最近読んだ記憶があります。


レーモンドの書籍、というと、三沢浩の本があげられます。三沢は、レーモンドに関する私的なレクチャー「寺子屋」を、もう130回以上行ってきました。その努力の集積が、レーモンドの本になったようです。その幹事をやっている設計工房匠屋の大崎元から、初めの頃なんども参加するよう誘われていましたが、なぜか行くことはありませんでした。10数年前の話です。それにしてもレーモンドについての集まりを、130回以上も続けてきたことには頭が下がります。僕はレーモンドの作品はほとんど観ていません。南山大学も聖アンセルモ目黒教会も東京女子大学も、通りすがりにちょっと観ただけです。群馬音楽センターは外部を観て、中に入ろうと思ったらちょうど出てきた福田元首相にぶつかりそうになり、結局は中へ入れませんでした。軽井沢の聖ポール教会も観ていません。「レーモンド自邸」をうつしたといわれている高崎の「井上房一郎邸(現高崎哲学堂)」は、ぜひ観たいと思っていますが。



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著者:アントニン・レーモンド 翻訳:三沢浩

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