小川洋子の「ミーナの行進」を読んだ! | とんとん・にっき

小川洋子の「ミーナの行進」を読んだ!

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小川洋子の最新作、とはいえ今年の4月末に出たものですが、「ミーナの行進」を読みました。小川洋子は「博士の愛した数式」で、第1回の「本屋大賞」を受賞して話題になりました。「ミーナの行進」は、たぶん彼女の作品の中では、今のところ最高傑作に位置づけられるでしょう。第42回谷崎潤一郎賞受賞作でもあります。特徴的な装幀・挿画は寺田順三です。「読売新聞」2005年2月12日から12月24日まで毎週土曜日に連載されたものです。


「内面や人生観には興味は持てない。失われたものにしか興味がない」と言う小川洋子、この小説「ミーナの行進」では、「伝えたかったのは“懐かしさ”です。当時を知る人々だけでなく、今12歳の子供にも懐かしさは伝えうる。小説はその力を持つと思うのです」と言います。当時とは1972年、川端康成の自殺に始まり、ミュンヘンオリンピックのバレーボール中継、ジャコビニ流星雨、等々、1972年当時の“懐かしさ”がしっかりと伝わり、読むものに分かち合った感触が残ります。


1972年3月、岡山に住んでいた12歳の朋子は母親の都合で、神戸の伯母さんの家に1年間住むことになります。そこは芦屋の山の上に建つ大きなお屋敷で、伯父さんは「フレッシー」という清涼飲料水を製造・販売している会社の社長です。以前はミニ動物園まであったというこのお屋敷、吹き抜けの高い天井、天井から吊り下げられたシャンデリア、扉にはめ込まれたステンドグラス、屋敷の中を飾る美術品・工芸品はどれも第一級のものばかり、光線浴室を初め17ものたくさんの部屋があります。まるで別世界のような素敵な洋館には、実に個性豊かで魅力的な人たちが一緒に暮らしています。


ミーナは朋子より一つ年下の小学校6年生、本が大好きで、いつもポケットにマッチ箱を忍ばせています。虚弱体質で喘息持ちのために自動車には乗れません。コビトカバのポチ子は、伯父さんが10歳の頃に、リベリアからやって来ました。ミーナを学校へ送り迎えします。ドイツ人のローザおばあさんは、嫁入り道具の鏡台の前でいつも念入りに美肌クリームを塗ります。伯父さんは、家の中でもいつも隙なく着飾り、壊れたものはなんでも修理してくれますが、なぜかいつもこのお屋敷にいません。伯母さんは人に隠れて煙草を吸い、お酒を飲みながら誤植を探すことに熱中しています。



ローザおばあさんがお嫁に来たときからの家政婦・米田さんは、このお屋敷の家事のすべてを取り仕切っています。二人は本当の姉妹のようです。庭師の小林さんはポチ子の世話をしています。ミーナの小学校への送り迎えは、ポチ子と小林さんがしています。ミーナは真っ直ぐ前を見据え、小林さんはしっかりと房を握り、ポチ子は一歩一歩坂道を踏みしめて歩く、彼らの行進は「威風堂々」としたものです。もう一人、スイスの大学に留学しているミーナの兄・龍一がいました。龍一からの手紙には、みんなが喜びあいます。日本へ帰って来たときに、みんなで須磨海岸へ海水浴に出かけます。


「パパ、あそこのブイまで、競争しよう」と、龍一さんは伯父さんを誘って海に駆け込みます。「そんなに遠くへ行ったら駄目。二人とも戻ってきて」とミーナが泣きながら言うのも聞かず、二人は暑い夏の日、ブイに向かって競争し始めます。二人とも溺れてしまうのではないかと心配して、ミーナは初めて朋子の前で大声で泣きます。海水浴の帰りに海の家に立ち寄り、みんなでかき氷を食べます。「全員揃っている」と朋子は思います。朋子とミーナ、大人の世界に入りかけた少女が初めて出会う世界。朋子は図書館司書の「とっくりさん」を好きになり、ミーナは水曜日にフレッシーを配達してくる青年を好きになります。実るはずもない淡い恋を感じます。


朋子とミーナは、二人はミュンヘンオリンピックのバレーボールの選手に夢中になります。ローザおばあさんは、遠い生まれ故郷ドイツに思い出を持っています。日本にお嫁に来てからドイツは二つの国家に分かれます。そのミュンヘンオリンピックで、アラブゲリラがイスラエルの宿舎を襲います。この事件はローザおばあさんに、大戦後連絡が途絶えた双子のイルマお姉さんを思い出させます。米田さんは他人の世話に明け暮れ、他に帰る家もなく出かける場所もありません。血を分けた家族とは縁のない生活を送っています。言葉もなく冷たい関係である伯父さんも伯母さんも・・・。この家の個性豊かな一人一人が、常に不安を抱えながらも、なんとか精一杯生きていきます。


龍一がスイスに戻る日、庭で記念撮影をした写真は、芦屋での日々を記憶に留める朋子の大事な宝物です。その写真を見るたびに朋子はつぶやきます。「全員揃ってる。大丈夫、誰も欠けてない」と。「でも、悲しみのための過去や懐かしさではないのです。大家族の中の年少者として、二人は気遣い合う大人たちから人間と自然の摂理を感じ取る。世代や血縁を超えてかかわり合い、手渡される記憶。その記憶こそ、人の成長を支える糧だと感じ取ってもらえれば」と、小川洋子は言います。



話は変わりますが、朋子とミーナとポチ子と小林さんがジャコビニ流星雨を見に行った六甲山の奥池には、僕も行ったことがあります。今から20年以上前ですが、安藤忠雄が設計した「コシノ邸」という住宅を見に行ったときです。住所だけは「芦屋市奥池」とあったので、タクシーの運転手にそう言えば、特徴のある建物なのですぐ見つかるだろうという安易な考えでした。「芦屋」の駅前からタクシーに乗って「奥池をお願いします」と行ったところ、「ちょっと遠いですよ」と言われたのですが、その「ちょっと」があんなに遠かったとは。芦屋から離れた貯水池の周辺にできた「別荘地」でした。奥池へ着いたら、まったく偶然ですが、すぐ目の前に目指す「コシノ邸」がありました。タクシーを待たせておいて一回り見て回り、またタクシーで芦屋まで帰ってきました。とんでもないタクシー代を支払ったことを思い出しました。


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